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2017年9月18日 (月)

九州王朝は駅鈴も作ったか?(改訂版)

古田史学では,複数の同じ言葉を統計的に処理しながら,
「ここではこういう意味で使われている」などと論証を進めていく。
自然科学なら仮説を立て,実験で決着をつけることができるが,
人文科学ではなかなかそういう機会には恵まれないからだ。

また,大量の考古出土物が発掘されれば,その分布図が描けるので,
それを使用したり,埋設したり,廃棄したりした場所の中心が特定できる。
すなわち文化圏がわかるのである。(2種類の銅鏡,銅剣・銅矛・銅戈と銅鐸など)

では,1~2個しかないものだったらどうか?たとえば駅鈴について考えてみよう。
これは現在本物が,隠岐にしかないとされている。(2個だそうだ)
当然これでは「分布図」は作れない。※しかも「刻み」がないため,偽物説もある。
では,駅鈴は「なかった」ということになるのだろうか。
また,そもそも駅鈴は誰(どこの王朝)がつくったものなのだろうか。
そのことは,九州王朝説の強化に使用できないだろうか。
ということで,私の考えを書いてみたいと思う。

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【その1】 改新の詔の「其の二」に駅鈴は出てくる

書紀孝徳紀の大化二年の改新の詔。
二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。

其一曰(略)

其二曰、初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、兄、此云制西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、並取國造性識淸廉、堪時務者、爲大領・少領、强□聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依傳符剋數。凡諸國及關、給契鈴。並長官執、無次官執。

其三曰(以下略)
 
其の二の最初と最後に「鈴」ということで駅鈴が出てくる。(アンダーラインを引いた)
ただし,川瀬さんからご教示いただいたところによると,これは常色3年・649年のことらしい。
ということは,九州王朝の時代であり,白村江の戦いが迫る時期=古代日本ハイウェーの建設
と重なる時期ということになる。
まさに古代官道と駅鈴は,切っても切れない関係にあったということではないか。

【その2】 駅鈴は厳重に管理されていた

NHK・BS2で2年前に放送された「古代日本のハイウェー~1300年前の“列島改造”」
という番組を観ることができた。(2009年放送。2012年再放送)
その番組の中で,「最近解読された木簡に,兵士が2時間ごとに交代で駅鈴を見張っている」
という事実が取り上げられていた。
駅鈴は,確かに「あった」である。しかも,厳重に管理されていた。

【その3】 だが,現存の駅鈴は隠岐のものだけ

正史(盗用ではあるにせよ)にも書かれ,しかも厳重に管理されていた駅鈴が,
さらに天武紀ではあれほど印象的に表現されていた駅鈴が,
今は隠岐の2個しかないという事実。私には信じがたい。
奈良時代から1300年経ってはいるけれど,駅鈴の数は多数に上ったと思われるので,
それが2個だけしか残っていないのは不自然に思われるのである。
私はそこに前王朝の事物の回収・廃棄(金属なので溶かすというのも含め)があったのではないかと思う。
これを持たれたままだと,九州王朝側の人たちに使われてしまう危険性があるからだ。
(事実「続日本紀」707年,708年,717年の3回にわたって,「山沢亡命」記事が出ている)
そして,九州王朝の時代の駅鈴との違いを付けるため,「刻み」を入れたと考えた。。
(身分により利用できる馬の数が違うようだ)

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唯一2個の駅鈴が現存する億岐家。
「億岐家と駅鈴」というサイトには,このあたりのいきさつを以下のように書いている。

玉若酢命神社に隣接する億岐家は隠岐国造の家系で、
はるか昔、応神天皇の頃任命されたのに始まるという。
隠岐国駅鈴は古くから厳重に壷の中に入れられて、
億岐家で守り託されていたと思われる。
 現当主の正彦氏にお話をお聞きしました。
「先祖代々億岐家では、この壷は先祖が預かった物だから
絶対に開けてはいけないと言い伝えられていたために、
開ける事はもちろん、中にある駅鈴の存在は誰一人として
知りませんでした。・・・」(後略)

ちなみに,正倉印が残っているのも,駿河国、但馬国、隠岐国の3つだけらしく,
隠岐が古代史を解く大きな役割になるのかもしれない。

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私の仮説は,次の3つである。(9/19改定)

仮説1 ・・・ 九州王朝は,古代日本ハイウェーの建設と同時に駅鈴を作った。
仮説2 ・・・ だが,大和政権に主権が移譲されるとともに,それらのほとんどは回収・廃棄された。
        そして,大和政権によって新しい「刻み」のある駅鈴に作り替えられた。
仮説3 ・・・ しかし,九州王朝の「刻み」のない駅鈴を億岐家は壺の中に隠し保存した。
        それゆえ,九州王朝当時の駅鈴の2個だけが現存している。

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※ これまで「刻み」がないことで,「偽物扱い」になっていたらしい隠岐の駅鈴。
 逆に「刻み」がないことが,九州王朝時代の「真作」の証明になると思われる。
 なぜなら,もし大和政権の駅鈴を壺の中に隠してもっていたら,意味がない。
 前王朝=九州王朝の時代の駅鈴だからこそ,壺の中に隠し持つ意味があり,
 当然「口外無用」ということになるのである。多元的「駅鈴」研究の意義である。
 

※ 億岐家の壺は,上記のサイトに写真が出ています。
どなたか,年代の鑑定ができる方はいないでしょうか。
かなり古そうな壺なのですが・・・。

「億岐家と駅鈴」サイト

http://www.rundoki.com/okiietoekirei.htm

※ 通りすがりの素人さん,川瀬健一さん,山田春廣さんと「夢ブログ」でアドバイスいただきながら,
だいぶ駅鈴についての認識が深まりました。ありがとうございます。
また隠岐の駅鈴が九州王朝時代のものではないかという多元的「駅鈴」研究の道が開けてきました。
さらに研究が進み,多元的古代への理解が深まれば望外の幸せです。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥様

私が興味を持った事は「仮説2はなぜ起こったのか?」という事です。
仮説2を否定している訳でありません。

①ハイウェイは大和政権の歴史書では「なかった」ことにされながらも(コース変更記事はあるにせよ)、廃棄されなかった。
②駅鈴は大和政権の歴史書では「あった」ことにされながらも、廃棄された。
と、全く逆の事象が出て来ているのです。

①については、肥様が「古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?(改訂版)」で書かれている事が実情だろうと思います。
ハイウェイは大和政権の歴史書では「なかった」ことにされた理由は
>なにより「自分たちが作った」と大和政権は主張できない。これは国分寺も同じで・・(私への返答文)
廃棄されなかった理由については
>あまりにも労力の必要な水城や道路は,短期間の作業では終わらないからであろう。

つまり、ハイウェイは大和政権が建設したと公言できないにもかかわらず、破壊する事も(労力・時間)出来なかったので、存在を概ね無視し、コース変更や道幅を狭めつつ利用した。と。

②については、破棄された理由は
>これを持たれたままだと,九州王朝側の人たちに使われてしまう危険性があるからだ。
では、何故、駅鈴は大和政権の歴史書で「なかった」ことにされなかったのでしょうか?
どうせ、破棄してしまうなら、最初から「なかった」ことにしても良いのではないでしょうか?

「古代日本ハイウェイ」と言う物体が「なかった」ことにされた様に、「評」と言う制度も「なかった」ことにされた様に、「古事記」と言う史書も「なかった」ことにされた様に・・。

この疑問に対する私の仮説は以下です。
駅鈴の回収・廃棄が決定したのは、「なかった」ことにする事が決まったのは、日本書紀が交付されて以降だった。
なぜ、720年以降に廃棄が決定したのかは、わかりません。
如何でしょうか?

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

764年に藤原仲麻呂の乱が起こり,御璽と駅鈴が奪われたそうです。
ということは,それまでは駅鈴はあったということですね。
そしてその後,御璽と駅鈴は孝謙天皇が奪還しますが・・・。

なるほど,「日本書紀」に書いているので「ないことにはできない」ということもあったでしょう。
そして,駅鈴が存在すれば藤原仲麻呂の乱ような事件で利用される可能性もある。
それで,遅ればせながら回収をしたのかなあ,と今は考えております。

肥様

返信ありがとうございます。

本日の「九州王朝は駅鈴も作ったか?」を読ませて頂き、今
>764年に藤原仲麻呂の乱が起こり,御璽と駅鈴が奪われたそうです。
との返信を頂きました。そこで、大きな疑問が出てきました。

764年に藤原仲麻呂の乱の時の「御璽」は大和政権の「御璽」ですよね?
曲がり間違っても、九州王朝の「御璽」ではありませんよね?九州王朝の「御璽」と言う超ど級の危険物は早々に「なかった」ことが決定され、廃棄される物だと思います。

一方で、764年に藤原仲麻呂の乱の時の「駅鈴」はどちらの「駅鈴」なのでしょうか?
大和政権の「御璽」と九州王朝の「駅鈴」が、同時にほぼ同じ場所に設置されていたのでしょうか?私には想像が難しいのです。
やはり、同一王朝の「御璽」と「駅鈴」と考えるべきだと思います。

すると、以下の4つの仮説が出てくるように思われます。
①764年に藤原仲麻呂の乱の時の「駅鈴」は大和政権の「駅鈴」だった。
720年以降に九州王朝の「駅鈴」は廃棄されたが、大和政権の「駅鈴」として復活をした。しかし、764年に藤原仲麻呂の乱で再度廃棄されることになった。

②764年に藤原仲麻呂の乱の時の「駅鈴」は九州王朝の「駅鈴」だった。
九州王朝の「御璽」は大和政権が引き継ぎ、九州王朝の「駅鈴」も大和政権が引き継いだ。
しかし、764年に藤原仲麻呂の乱で「駅鈴」は廃棄され、歴史の闇へと消えていった。
「御璽」は大和政権が引き継いだのか、新生したのかは不明

③そもそも、藤原仲麻呂の乱で「御璽」と「駅鈴」が奪われたという記事が捏造だった。

④九州王朝では「御璽」は使用されなかった。
wikipediaによると(信じて良いかは怪しいですが)、701年(大宝元年)に成立した大宝律令で官印の一つとして内印(天皇御璽)が規定されており・・・となっていました。

 九州王朝の古代官道が王朝交代によって廃棄されなかったのは、新たに統一王権となった近畿天皇家にとっても必要なものだったからです。
 肥沼さんは古代官道を、軍事道路とのみ考えているようですが、そうではなく、国司の派遣や諸国の税の徴収など、道路は様々な利用価値があります。少なくとも大宝律令によって日本は統一国家になり、全国的に統一的な制度が実施されました(九州王朝時代にもある程度は実施されていたとは思います)。そうなってくると全国を結ぶ道路は国家統治に不可欠ですから。
 そしてこの道路が廃棄されたのは、まさしく王朝国家の衰微によって。道路は常に補修しなければならず、補修する統一権力がなければ次第に廃れます。ただし全部廃棄されたわけではない。利用頻度の高いところは残ります。
 官道の付け替えの事例をよく考えてみてください。
 東山道武蔵路は、武蔵国が東山道に属していた時代の、上野国府と武蔵国府の連絡路。でも武蔵国が東海道に属すようになれば、無用の長物。だから利用はされていたが、整備する主体がなくなるとともに消えた。
 南海道の付け替えも、官道の起点が太宰府から平城京に変わったことで、国司の行き来の方向が変わったからでしょ。
 どちらの必要に応じて改廃したということです。
 駅鈴の問題。
 私は近畿天皇家に統一権力が交代した時点で、駅鈴は新しく作り替えられたと思います。権力のありかを示すものです。それを旧王朝のままにしておくはずはありません。
 仲麻呂の乱のときに御璽と駅鈴が奪取され、それを奪い返したと。この時点ではすでに近畿天皇家のものにどちらも交換されていたと思いますよ。
 隠岐に残された駅鈴は、どの時代のものか特定できていません。
 もしかしてた子孫に開けてはいけないと遺言して残したということだから、九州王朝時代のものかもしれませんね。近畿天皇家の支配はずっと続いたわけですから、それを隠し持っている意味がありませんので。
 他の九州王朝時代の駅鈴はたしか銅製だとおもうので、新しい駅鈴をつくってから、鋳つぶされたと考えるのが自然です。
 駅鈴も軍隊を移動させるためだけではなく、平時には駅馬を使って使節や役人が移動するために使われるのであって、唐との戦がなくなっても、こうした平時の業務遂行のためには必要なものです。だから廃棄する必要はない。
 ただ権力のありかを示すものだから王朝交代に伴い作り替えられたと考えるのが普通だと思います。
 そして近畿天皇家の駅鈴は、王朝国家が衰微し駅と伝馬駅馬の制度が事実上維持できなくなったとき使われなくなり、廃棄されたり鋳つぶされたと考えれば良いと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

戦時には軍用道路だが,平時には行政道路といういうことですね。
所沢には文字通り「行政道路」と呼ばれている道があり,
横田基地と入間基地をつないている道路なのですが,
別に戦車や装甲車が普段から走っているわけではなく(たまには見かけますが),
普段は通勤の車で渋滞しているフツーの道路ですものね。

権力の移譲と共に,天皇御璽も駅鈴も作り替えられたというのが良さそうですね。
というのも,隠岐の駅鈴が「刻み」がないことを理由に「偽物扱い」されているのですが,
それは律令の規定では「刻み」があるとされているからです。
ということは,九州王朝時代の駅鈴には「刻み」がなかったが,
大和政権になると「刻み」が付けたということで,逆に九州王朝の駅鈴といては「本物」の証ですから。
そして,億岐家が壺に隠して,「口外無用」で守ってきた経緯からしても当然の流れです。
これまで「偽物扱い」されてきた隠岐の駅鈴に,多元的「駅鈴」研究の立場から,
「真作」の証明ができますね!(隠岐の駅鈴の持ち主は,腰を抜かすかもしれませんが・・・)

いろいろすっきりしてきました。ありがとうございました。

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

天皇御璽も駅鈴も権力移行とともに作り替えられたという考えでいいと思います。
ただし,文面としては,「天皇御璽」(九州王朝で使われていたものと同じ)「駅鈴」のままだったと思います。

さらに,駅鈴については,「刻み」が付けられるようになったのではないでしょうか?
これまで隠岐の駅鈴は「刻み」がないため「偽物扱い」されていたといいます。
ところが「刻み」がないのがもともとの九州王朝の駅鈴の様式であったとすると,
「刻み」がないことは,逆に「真作」の証明となります。

そして,壺の中に隠され,「口外無用」とされ,億岐家によって守られてきた駅鈴の由来からしても,
素直な経緯と思われます。(現行の大和政権の駅鈴を隠匿していたら,処罰の対象になりそうでしょうから)
これも多元的「駅鈴」研究の1つの成果ということになりますね。
つっこんでいただき,ありがとうございました。

肥さんへ

日本国に行ってしまう前に、壬申の乱で「驛鈴」が三ヶ所出てきますが、
この驛鈴が「九州王朝」のものなのかどうか、というのは問題にはなりませんか?

《天武天皇元年(六七二)六月》甲申〔24日〕、將入東。時有一臣奏曰、近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵、徒手入東。臣恐、事不就矣。天皇從之、思欲返召男依等。即遣大分君惠尺・黄書造大伴・逢臣志摩于留守司高坂王、而令乞驛鈴。因以謂惠尺等曰、若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺馳之、往於近江、喚高市皇子・大津皇子、逢於伊勢。既而惠尺等、至留守司、擧東宮之命、乞驛鈴於高坂王。然不聽矣。時惠尺往近江。志摩乃還之、復奏曰、不得鈴也。是日、發途入東國。事急不待駕而行之。黴遇縣犬養連大伴鞍馬、因以御駕。乃皇后載輿從之。逮于津振川、車駕始至。便乘焉。是時、元從者、草壁皇子・忍壁皇子、及舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀬・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海之類、廿有餘人、女孺十有餘人也。即日、到菟田吾城。大伴連馬來田・黄書造大伴、從吉野宮追至。於此時、屯田司舍人土師連馬手、供從駕者食。過甘羅村、有獵者廿餘人。大伴朴本連大國、爲獵者之首。則悉喚令從駕。亦徴美濃王。乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乘歩者。到大野以日落也。山暗不能進行。則壌取當邑家籬爲燭。及夜半到隠郡、焚隠驛家。因唱邑中曰、天皇入東國。故人夫諸參赴。然一人不肯來矣。將及横河、有黒雲。廣十餘丈經天。時天皇異之。則擧燭親秉式占曰、天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟。即急行到伊賀郡、焚伊賀驛家。逮于伊賀中山、而當國郡司等、率數百衆歸焉。會明、莿萩野、暫停駕而進食。到積殖山口、高市皇子自鹿深越以遇之。民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黒麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍從焉。越大山、至伊勢鈴鹿。爰國司守三宅連石床・介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之、暫留輿而息。然夜曀欲雨。不得淹息而進行。於是、寒之雷雨已甚。從駕者、衣裳濕、以不堪寒。乃到三重郡家、焚屋壹間、而令温寒者。是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言、山部王・石川王、並來歸之。故置關焉。天皇便使路直益人徴。

《天武天皇元年(六七二)七月》辛亥〔22日〕、將軍吹負、既定倭地、便越大坂、往難波。以餘別將軍等、各自三道進、至于山前、屯河南。即將軍吹負、留難波小郡、而仰以西諸國司等、令進官鑰・驛鈴・傳印。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

壬申の乱は,7世紀後半の事件ですので,
当然九州王朝の作った駅鈴のことであると考えています。
白村江の戦いで大敗した九州王朝ですが,
まだ政権の移譲まで至っていませんから,
「大和政権の駅鈴」は作れないと思いますが,
大和には大和の駅鈴があったということでしょうか?

肥さんへ

「壬申の乱」の驛鈴は、天智「近江朝」をどう解釈するか、です。

天智近江朝は、百済の役・白村江の戦いで完敗した九州王朝の
御璽・驛鈴を引き継いだのか引き継がなかったのか。
引き継いだとするなら何故前王朝の御璽・驛鈴を廃棄して
新しくつくらなかったのか。
日本国(ヤマト朝廷)は近江朝廷の御璽・驛鈴を廃棄して
新しくつくったのかつくらなかったのか、ということです。

はっきり言えば、「御璽・驛鈴は暦・年号と同様」と考えるのかどうか、
という問題を含んではいませんか?

何を言いたいかといえば、残存している驛鈴は二個しかなく、
しかも贋作説があるといいます。
現物からは確認しようもなく、頼るのは史料のみということです。

史料に「倭国(九州王朝)の驛鈴」「近江朝の驛鈴」「藤原朝の驛鈴」
「日本国の驛鈴」と書いてあるはずはありません。
史料に登場する驛鈴すべてを、何王朝が設けた驛鈴であると、
「史料によって実証する」ということはできないでしょう。

驛鈴が九州王朝のものであるか否かという問題は、
「仮説を論証する」ことによって解決するしかないと考えます。

とすれば、なすべきことは「仮説」を明確に立てて
その「仮説が成り立つことを論証する」ということになります。

肥さんの説は「御璽・驛鈴は暦・年号と同様なもの」という仮説に
受け取れましたが、それで合っているでしょうか?

もしそれで合っているとすれば、ますます近江朝の問題が
重大な問題になるのではありませんか?
つまり「壬申の乱」の性格が重大な問題だということです。

肥様

返信ありがとうございます。
「刻み」の有無について、理解できました。ありがとうございました。

ただ、そうしますと次の疑問が頭を過ぎりました。(また、突っ込んでしまい、申し訳ありません)
「大和政権の「刻み」ありの駅鈴は何故現存しないのか?」

肥様の仮説2には、大和政権による「強制」な九州王朝の駅鈴の回収・廃棄と言う意味が含まれていると思います。「強制」力がなければ、仮説3は成立しませんから。
「強制」的に九州王朝の駅鈴が回収・廃棄された結果、現在残っている九州王朝の駅鈴は2個だけ現存じているのだと。

では、大和政権の駅鈴はどうでしょうか?川瀬様は以下のコメントを寄せておられます。
>そして近畿天皇家の駅鈴は、王朝国家が衰微し駅と伝馬駅馬の制度が事実上維持できなくなったとき使われなくなり、廃棄されたり鋳つぶされたと考えれば良いと思います。
と、ここには「強制」は存在しないように私には読めます。肥様もその様に解読されている様に見受けられます。自然の歴史の流れの中の栄枯盛衰とでも言いましょうか。勿論、このお考えを否定する根拠はありません。無いのですが・・

前王朝の駅鈴は「強制」的に回収・廃棄され現存2個。
現王朝の駅鈴は「自然」に廃棄・鋳つぶされ現存0個
(正倉院に保存されているとされる駅鈴は、どちらか不明なので、カウントしていません)

アンバランスさを感じるのは私だけでしょうか?このアンバランスが歴史の真実かもしれませんが、
現王朝の駅鈴も「強制」的に回収・廃棄され現存0個。
と、考える方が自然なのではないでしょうか?

「大和政権の「刻み」ありの駅鈴は何故現存しないのか?」
この疑問に対する良い仮説が思い浮かびません。一応、以下の様な仮説を立ててみました。
仮説:当初は、九州王朝の駅鈴を「強制」廃棄し、大和政権の駅鈴を新造したが、駅鈴の存在そのものが九州王朝に深く根差していた為、駅鈴そのものを「強制」廃棄した。

例えば、大和政権の駅鈴は、九州王朝の駅鈴に「刻み」を付けたものだった、溶かして再利用されたものだったとか。

蒸し返すようで、大変申し訳ございません

山田さんへ
コメントありがとうございます。

「近江朝」のことについては,私は謎だらけです。
ぜひいろいろ教えて下さい。

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

私にも大和政権の「刻み」のある駅鈴が現存0個の意味は,
今のところよくわかりません。

関係ないかもしれないのですが,
以前「夢ブログ」に「平安時代の「駅鈴」奉納」という記事を
書いたことがあるのを思い出しました。

平安時代の「駅鈴」奉納

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/03/post-9abb.html

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