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2017年9月24日 (日)

法隆寺の伽藍配置の謎の凸型

山田さんへ
貴サイトの文章を読ませていただいての
確認の質問です。

何回も法隆寺は行ったことがあり,
その度に「なんで回廊が大講堂に,こういうくっ付き方をしているのだろう?」
と思っていました。
凸型というのが不自然だったからです。

Houryuuji31large

法隆寺の伽藍配置図

(1) 発掘調査によると,回廊はもともと大講堂には取り付いておらず,
金堂と五重塔を囲んでいるものであった。

    ーーーーーーー
    五重塔 金堂   ※ 両側に縦線を入れる
   ーーーーーーー

(2) 大講堂を建てることになり,回廊の作り替えが凸型にされた。

(3) 金堂・五重塔・回廊は南朝尺(24.6cm)で作られたものであり,
 大講堂は唐尺(29.4)によるものだった。

つまり,北部九州から移築された(しかも塔と金堂の方位も改変された。部材の墨書きからわかる)
法隆寺に,違う長さの単位の大講堂をくっ付ける際にできてしまったものであった。

というのが凸型法隆寺伽藍の歴史の真相だったということでしょうか?


~ウィキペディア情報~

※1 回廊(国宝)
金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。
ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立である。
当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。

※2 薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、
法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。

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コメント

肥さんへ

(1)(2)(3)のご理解でよろしいかと思います。
ただ、(3)の大講堂が「唐大尺」であるかどうかは、
確かめていません。関心外でしたので。

なお、ウィキペディアで書かれている「高麗尺」(こまじゃく)は、
人によって長さが異なる(少なくとも三人三様)のしろもので、
クリエイティブな方々が創作された尺度です。

以前にも書きましたが「どの尺度が用いられたか」という問題は、
「どんな長さで割り切れるか?」(How many length?)という問題ではなく、
「どのものさしが用いられたか?」(Which scale used?)という問題なのです。

「高麗尺」は日本で創作(空想)された尺度です。
服部静尚さんの「高麗尺はなかった」をお読みください。

また、薬師寺につかわれている尺度は唐尺ではなく、
大岡實研究所によれば、より短い「奈良尺」とされています。
しかし、この「奈良尺」も「高麗尺」と同じであると思います。

肥さんへ
書き忘れました。

>(3) 金堂・五重塔・回廊は南朝尺(24.6cm)で作られたものであり,

伽藍配置の基本設計が南朝尺(24.6cm)でなされているとすれば、
その建物(金堂・塔・回廊)もその尺度が用いられたであろう、という
「推測」が可能(蓋然性が高い)という程度です(私の「三つの等距離」からは)。
建物自体が「南朝尺」であるかどうかは『法隆寺のものさし』をお読みください。

また、金堂・塔にある“卍崩し”と誤認された「TLV文様」の格子の勾欄は、
魏文帝が俾弥呼に送った漢式鏡の「方格規矩鏡」にある文様であり、
これは漢民族伝統の文様であり、南朝は当然継承している文様です。
法隆寺は南朝の影響があることは確かです・・・。
ただ、James Macさまからのご指摘通り隋の時代という可能性も高いです。

大講堂については、当初講堂があったかなかったかについてはわかりません。
言えるのは、回廊内(内郭区画、寺院の中枢領域)には存在しなかった、のです。
当初規模の小さな講堂が回廊外にあったが、後世に大きく建て替えたのかもしれません。
当初講堂は回廊内にはなく、回廊は講堂に取り付かず閉じていた、ということは確かです。

なお、「金堂は移築された」ということは、「三つの等距離」の事実とは矛盾しません。

肥さんへ

肝心の質問に答えていませんんでした。

>北部九州から移築された(しかも塔と金堂の方位も向き合うように改変された)法隆寺に,
違う長さの単位の大講堂をくっ付ける際にできてしまったものであった。
というのが凸型法隆寺伽藍の歴史の真相だったということでしょうか?

❶「北部九州から移築された法隆寺」ということについては、
「北部九州から」ということはまだ確かめられていません。
❷大講堂と回廊改造の時代の前後関係については、
創建時からあったかどうかは別としても、
小講堂は回廊改造より前の時代に存在し、
その後、南朝尺ではない尺度の大講堂に建て替えられた。
つまり、凸型に改造した回廊を大講堂に取り付けた時代は、
南寄りに回廊を取り付けるようになった時代であった。
私はこのように推測しています。

もちろん、肥さんのおっしゃるように、
大講堂建設と回廊の凸形改造が同時であったかもしれませんが。

肥さんへ

薬師寺の奈良尺については、次の記事をブログに書いています。ご参考まで。
まぼろしの創造古代尺 ― 「奈良尺」も無かった ―
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/03/post-135b.html

山田さんへ
コメントありがとうございます。

法隆寺の「外堀を埋めるような研究」と思いました。
もちろんこれは比喩で,法隆寺には「外堀」はありませんが。
山田さんの研究方向とは違う角度の質問なので,
答えにくいものだったかもしれませんね。
ご丁寧なお答え,ありがとうございまました。

肥さんへ

“高麗尺”三者三様と書きっぱなしでした。
次の通りです。
関野貞の“高麗尺” 35.640㎝
浅野清の“高麗尺” 35.900㎝
竹島卓一“高麗尺” 35.970㎝

「こんな“高麗尺”って、いったい何?」って思いませんか?
にもかかわらず“高麗尺”が堂々とWikipediaに書かれています。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

高麗尺のことは,別に支持しておりませんので,
ご心配なく!
私がウィキペディアを貼り付けたために,
余計なお気遣いをさせてしまい済みません。

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