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2017年8月17日 (木)

2つの暦が混在している日本書紀

関裕二著『「日本書紀」は古代史を偽装したのか』(じっぴコンパクト新書)を読んでいたら,
2つの暦のことが出てきた。
儀鳳暦(ぎほうれき)と元嘉暦(げんかれき)である。(山田さんの専門かな?)
この2つは両方とも中国で作られたものなのだが,後者の方が古く,前者の方が新しい。
問題は,この2つが日本書紀の中でどのように出てくるかである。

(1)巻三の神武紀~巻十三の安康即位前紀 新しい儀鳳暦を使用
(2)巻十三の安康3年~巻三十の持統4年 古い元嘉暦を使用
(3)持統5年~ 新しい儀鳳暦を使用(ただし,持統4年に併用する旨の記事)
※「続日本紀」 文武元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用

小川清彦氏が,『日本書紀』の中で2つの異なった暦が使用されていることを発見し,
倉西裕子氏が「安康紀以降の歴史的事象を記録した元嘉暦を用いた
編年体の史書が存在していた」と
『「記紀」はいかに成立してきたか』(講談社選書メチエ)に書かれているそうだ。

唐の新しい儀鳳暦が伝わったのは,676~679年あたり。
白村江の戦い(663年頃)の敗北と九州王朝の衰退や筑紫大地震(679年)と
大きな歴史的変動の中で,大和を中心とした「歴史づくり」が始まっていったのだろうか。
(古事記の方はどうなんでしょうか?)

P8180893


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

>儀鳳暦(ぎほうれき)と元嘉暦(げんかれき)である。
(山田さんの専門かな?)

わたしへの言及ありがとうございます。
しかし、わたしは専門家ではありません。
暦の専門家とは、谷川清隆氏などをはじめとする天文学者(暦部に詳しい方)です。

わたしは「暦」から「歴史」を考えることを試みて、『宋書』に基づいた「長暦」(再現暦)をEXCELで作っている程度のアマチュアです。しかし、アマチュアなりの作業仮説(思いつき)を提示しています。

(1)暦(太陰太陽暦)は「観象授時」(天子が民・臣下に時を授ける)の思想によって、支配の道具として機能していた。暦は「年月日」を決める機能がある。ある年が12ヶ月か13ヶ月かは暦が決めるから、「年号」を使うには暦の存在が前提となる(年号は暦と不可分)。ある暦を使用することはその暦を頒布した朝廷の臣下を意味する。すなわち、『日本書紀』が元嘉暦で書かれているなら、その記事は元嘉暦を頒布した朝廷時代の記事である。
(2)倭国(九州王朝)は南朝の冊封体制下のとき臣下なので南朝の暦(元嘉暦)を使用していた。つまり『日本書紀』を唐に提示したヤマト朝廷は元嘉暦を使っている期間は間違いなく倭国の臣下だった。
(3)日干支は暦とは独立なものである。つまり、どんな暦を用いようと今日の日干支が変わることなどない。だから日干支が違えば、異なる暦日である。よって文武天皇の即位日を、『日本書紀』が乙丑日とし『続日本紀』が甲子日としているのは両史書が異なる暦日(1日違う日)を即位日としている。これは国家事業として史書を編纂しているのであるから
重大な問題としなければならない(のに、皆、素通りしているのは不審)。
(4)元嘉暦より以前に儀鳳暦で『日本書紀』が書かれているとすれば、儀鳳暦(唐の暦である麟德甲子元暦・平朔法)が存在しない時代を麟德暦で書いているのはあとづけしたと考えるしかない。

このような作業仮説(思いつき)に立っている一古田史学徒です。

>小川清彦氏が,『日本書紀』の中で2つの異なった暦が使用されていることを発見し,
倉西裕子氏が「安康紀以降の歴史的事象を記録した元嘉暦を用いた
編年体の史書が存在していた」と
『「記紀」はいかに成立してきたか』(講談社選書メチエ)に書かれているそうだ

これはすごい指摘ですね。
「安康紀以降の歴史的事象を記録した元嘉暦を用いた編年体の史書」。これこそ九州王朝の「日本紀」ではないでしょうか。
>唐の新しい儀鳳暦が伝わったのは,676~679年あたり。
 ならば「日本紀」はこれ以前もしくは同時代に編纂されていたということでしょう。
 古田さんが見つけられた万葉集第40~44歌の原注にあった「日本紀」とはこれで、この「日本紀」によれば「中皇命」が伊勢行幸をしたのは、朱鳥六年のことだと。
 まさしく「日本紀」は白村江以降の九州王朝の歴史を、持統と同時代までは確実に記していたということですね。

肥さんへ

古事記はそんなものには関心が無いようです。

肥さんへ

妄想を書きます。『日本書紀』のもともとの史書名は『日本紀』(紫式部は「日本紀の局」)。

中国の史書は『〇〇書』(『漢書』、『後漢書』、『隋書』、『舊唐書』、『宋書』・・・etc.)なので、『日本書』としたかったが、列伝や志などがないので、
唐に提出するのに『日本書』と嘘つく(羊頭狗肉を売る)わけにいかず、
『日本書』の本紀だけですよ、と言う意味で『日本書紀』として提出した。

中国史書の体裁が整っていなかったから『日本書』にできなかったのです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

やはり山田さんは,私から見ると「専門家」ですよ。
ただ,これまでコメントの話を教えていただいても,
まったくピンときませんでしたが,今回の「2つの暦」の関係を知り,
すごくよくわかるようになりました。

〉 古事記はそんなものには関心が無いようです。

そうなんですか。どうしてなんでしょうね。
わからないなりに,一度はわかろうと努力することも,
無駄ではないようです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

故中小路駿逸氏が,日本書紀という命名について,
書かれていたと思います。
なぜ日本書ではなく日本書紀なのかと。
何の本だったか。新泉社の本だったような気がしますが・・・。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

元嘉暦は中国の南朝の暦らしいので,
南朝についていた九州王朝はそれに従って記録したものと思われます。
これで「日本書紀」の親本の「日本紀」の存在がさらにはっきりしてきましたね。
お役に立てて,うれしいです。
(表紙の写真もアップしておきます)

肥さんへ

『古事記』は史書としての意識はなくて、
もともとは天皇の系譜の伝承をまとめただけのものに、
自分に都合よく説話を加えただけ、に見えますけど。
前の天皇のことを次の天皇が自分に都合よく書いたものがつながってできている。
だから、いつ何が起きたかという意識(歴史認識)は希薄なのだと思います。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

なるほど,そんな感じなんですか。
古事記と日本書紀の雰囲気の違いが,
そんなところにもあるのでしょうね。

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