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2017年8月13日 (日)

「駅鈴」情報

駅鈴についての情報を集めるために,
とりあえずこの項を使います。
興味のある方だけ見ていただいて,
フツーの読者はスルーして下さい。

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(1) ウィキペディア「駅鈴」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%85%E9%88%B4

(2) 億岐家と駅鈴

http://www.rundoki.com/okiietoekirei.htm

(3) 日本書紀・天武紀・元年六月

「甲申(二十四日)に,東に入らむとす。時に一の臣有りて,奏して日さく,
「近江の群臣,元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。
何ぞ一人の兵無くして,徒手にして東に入りたまはむ。
臣恐るらくは,事の就らざらむことを」とまうす。
天皇,従ひて,男依等を返し召さむと思欲す。則ち大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩を
留守司高坂王のもとに遣して,駅鈴を乞はしめたまふ。因りて恵尺等に謂りて日はく,
「若しを得ずは,すなわち志摩に還りて覆奏せ。恵尺は馳せて,近江に往きて,
高市皇子・大津皇子を喚して,伊勢に逢へ」とのたまふ。既にして恵尺等,留守司のもとに至りて,
東宮の命を挙げて,駅鈴を高坂王に乞ふ。然るに聴さず。時に恵尺,近江に往く。
志摩は乃ち還りて,復奏して日さく,「を得ず」とまうす」

(4) 世界大百科事典 第2版の解説・えきれい【駅鈴】

日本古代の駅伝制で公務出張者や公文書伝送の駅使らに駅馬利用の資格証明として貸与された鈴。駅鈴には身分によって利用しうる駅馬の頭数を示した剋(こく)という刻みがあったといい,親王・一位に10剋,二~三位に8剋,四位に6剋,五位に5剋,六~八位に3剋,初位以下に2剋の駅鈴が貸与されるが,隠岐国造(おきのくにのみやつこ)家に伝わる八稜鈴には刻みがないので正しいものか否か問題になっている。あるいは大和朝廷時代から律令時代初期までは実際に刻みがあり,やがて刻みをやめて剋数を記した書類を添付することにした可能性がある。
出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について

(5) 和を識るmichiしるべ

https://www.wawoshiru.com/single-post/2017/08/08/1300%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E9%9F%B3%E8%89%B2%E3%81%8C%E3%81%8A%E5%87%BA%E8%BF%8E%E3%81%88%EF%BD%9E%E9%9A%A0%E5%B2%90-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E7%B7%A8%EF%BD%9E

(6) 隠岐倉印(現存は,駿河・但馬・隠岐の3つのみ)

http://www.town.okinoshima.shimane.jp/www/contents/1001000000248/index.html

(7) 「駅鈴のレプリカ」は1万2000円(肥さんの夢ブログ)

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/03/post-39c6.html

(8) 「延喜式」のきまりと本居宣長の「玉勝間」の情報

http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/ekirei.html

(9) 宣長の息子が作った駅鈴の模造品(レプリカ)

http://www.shodo.co.jp/tenrai/article/serial01/115-1-0.htm

(10) 駅鈴の音色(4秒間)

http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/images5/ekirei2.WAV

(11) 書紀孝徳紀の大化二年の改革の詔。(川瀬さんからご教示いただきました。常色3年・649年のことらしい)

二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。

其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊。仍賜食封大夫以上、各有差。降以布帛賜官人百姓、有差。又曰、大夫所使治民也、能盡其治則民頼之。故、重其祿、所以爲民也。

其二曰、初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、兄、此云制西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、並取國造性識淸廉、堪時務者、爲大領・少領、强□聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依傳符剋數。凡諸國及關、給契鈴。並長官執、無次官執。

其三曰、初造戸籍・計帳・班田收授之法。凡五十戸爲里、毎里置長一人、掌按檢戸口・課殖農桑・禁察非違・催駈賦役。若山谷阻險・地遠人稀之處、隨便量置。凡田長卅步・廣十二步、爲段。十段爲町。段租稻二束二把、町租稻廿二束。其四曰、罷舊賦役、而行田之調。凡絹絁絲綿、並隨鄕土所出。田一町絹一丈、四町成匹。長四丈、廣二尺半。絁二丈、二町成匹。長廣同絹。布四丈、長廣同絹絁。一町成端。絲綿絇屯、諸處不見。別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄、亦隨鄕土所出。凡官馬者、中馬毎一百戸輸一匹。若細馬毎二百戸輸一匹。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵者、人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者、改舊毎卅戸一人、以一人充廝也。而毎五十戸一人、以一人充廝。以死諸司。以五十戸、充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺、庸米五斗。凡采女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者。從丁一人、從女二人。以一百戸、充采女一人粮。庸布・庸米、皆准仕丁。
 
其の二に「初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。」と駅鈴が出てきます。

(12) 仲麻呂の乱に際して

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7735468.html

(13) 駅鈴は役人が2時間ごとに交代で管理していた

「古代ハイウェー」の番組の中で,上記のことを記録した木簡が
発見されたと紹介していた。

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コメント

肥沼さんへ
 駅鈴に関して皆さんが無視している史料がありますよ。
 書紀孝徳紀の大化二年の改革の詔。
二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊。仍賜食封大夫以上、各有差。降以布帛賜官人百姓、有差。又曰、大夫所使治民也、能盡其治則民頼之。故、重其祿、所以爲民也。其二曰、初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、兄、此云制西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、並取國造性識淸廉、堪時務者、爲大領・少領、强□聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依鈴傳符剋數。凡諸國及關、給鈴契。並長官執、無次官執。其三曰、初造戸籍・計帳・班田收授之法。凡五十戸爲里、毎里置長一人、掌按檢戸口・課殖農桑・禁察非違・催駈賦役。若山谷阻險・地遠人稀之處、隨便量置。凡田長卅步・廣十二步、爲段。十段爲町。段租稻二束二把、町租稻廿二束。其四曰、罷舊賦役、而行田之調。凡絹絁絲綿、並隨鄕土所出。田一町絹一丈、四町成匹。長四丈、廣二尺半。絁二丈、二町成匹。長廣同絹。布四丈、長廣同絹絁。一町成端。絲綿絇屯、諸處不見。別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄、亦隨鄕土所出。凡官馬者、中馬毎一百戸輸一匹。若細馬毎二百戸輸一匹。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵者、人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者、改舊毎卅戸一人、以一人充廝也。而毎五十戸一人、以一人充廝。以死諸司。以五十戸、充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺、庸米五斗。凡采女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者。從丁一人、從女二人。以一百戸、充采女一人粮。庸布・庸米、皆准仕丁。

 其の二に「初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。」と駅鈴が出てきます。
 従来説ではこれは大宝律令の内容をここにもってきた。
 古田史学では、倭国年号の大化二年に行われた評→郡への改正令をここに持ってきた。
 私の解釈は、これは本来倭国年号の常色三年に出された改新の詔そのもの。ただし評→郡と改変されているが。
 九州王朝が初めて全国の幹線道路を整備し(たぶん完了)駅を設けて、そこに駅馬・伝馬・駅鈴を置いたのがこの常色三年だと思う。
 書紀孝徳紀にある大化の改新の詔のすべては、九州王朝の常色の改新の詔の一部を孝徳紀置いたもの。常色の改新とは、評制を全国化したものだと私は判断している。だから全国的な軍事道路網も整備したと。

 これを出してしまうと肥沼さんが混乱するかな?

 たしか最近正木さんが似たようなことを言い出しているが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

あらら,「大化の改新の詔」を「無視」していたとは・・・。

ところで,「大化二年」が実際は常色三年(649年)のことだとすると,
駅鈴もそうですが,白村江の戦いの直前のこととなり,
古代ハイウェーの建設の時期とピタリ合いますね。
これは素晴らしい。

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