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2017年8月20日 (日)

元嘉暦と倭国年号(九州年号)の開始時期の関係は?

James Macさんのサイト「古田史学とMe」を訪問したら,
元嘉暦と倭国年号(九州年号)の開始時期について触れていた。
これがほぼ同じ時期ということである。

私たちは普段年号と暦(現在は太陽暦)についてあまり意識していない。
しかし,古代の為政者にとって,年号と暦はもっと身近で,
「この暦を出せるのは,この年号を出しているこの俺様だ!」
というくらいの支配権の主張があったのではないかと思う。
(朝鮮半島で独自の年号を作ろうとして,中国からとがめられたことがあるらしい)

したがって,ペアとしての年号と暦は十分根拠のあるものではないか。
最初にあげたJames Macさんのお考えを転載してみる。

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『書紀』の年月日の記述において
「元嘉暦」と「儀鳳暦」が併用されているのが指摘されていますが、
「元嘉暦」による記述が「五世紀末」以降に限られているのは
その「元嘉暦」の中国における成立時期と近接していることから考えても、
「倭国」王権が実際に採用したことを推定させるものです。
そして「暦」と「年号」が「不可分」であることを指摘するのは無駄ではないでしょう。
この二つは同時に使用されていたと見るのが相当と考えます。
 これについては二年ほど前にブログに記事をアップしていますが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/297706c33ca5e3bbaf2d99d95ba6359d)
この内容を簡単に記しますと、以下の通りです。
 日付表記法は「干支」によるか「年号」によるかですが、
いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握する事が不可欠であり、
「暦」と「年号」が不可分であるのは当然であり、
「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始が「同時」であったとみるのは合理的といえます。
これに類する例を挙げると、『三国史記』に「真徳女王」時代のこととして、
「唐」から「独自年号」の使用を咎められたことが書かれています。

「九州年号」と「倭国年号」~「古田史学会報」を読んで より

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本当にJames Macさんはすごい研究者でいらして,
何か私が思いつくと,「それはすでにブログに書いていますが・・・」
ということになります。今後ともよろしくお願いいたします。

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(1) 中国での元嘉暦の使用・・・元嘉22年(445年)から天監8年(509年)jまで

元嘉暦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%98%89%E6%9A%A6

(2) 倭国年号(九州年号)・・・517年~?

九州年号を探そう!

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/11/post-efbc.html

(3) 日本書紀での元嘉暦の使用(九州王朝の正史「日本紀」が親本?)
 ・・・和暦(570年以前-持統天皇10年<696年>)

(4) 増田修さん「倭国の暦法と時刻制度」

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin16/rekihouz.html

(5) james macさん「倭国への仏教の伝来について(五)」

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/297706c33ca5e3bbaf2d99d95ba6359d

つまり,(1)が中国の南朝で出されたのが5世紀半ばで,
冊封体制の中で倭国(九州王朝)にも伝わり使用されるようになった。
また,5世紀後半の宋(420年 - 479年)の滅亡をきっかけに
6世紀前半には(2)の倭国年号(九州年号)作成が開始されるようになり,
さらに6世紀後半になると,その正史「日本紀」が編纂されるようになったのではないか。

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【参考】 これまでに日本で採用された暦・・・元嘉暦(南朝の宋)5世紀半ば以降-696 /
儀鳳暦(北朝の唐)697-763 / 大衍暦764-862(五紀暦858-861)/
宣明暦(800年間も!)862-1685 /貞享暦1685-1755 / 宝暦暦1755-1798 /
寛政暦1798-1844 / 天保暦1844-1872 /
グレゴリオ暦(太陽暦)1873-

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

暦の話をとりあげていただいているので
コメントしやすくてうれしいです(コメント魔か?)。

倭国(九州王朝)が元嘉暦を使用していた動かぬ証拠があります。
金石文にあるわが国最古の日干支が法隆寺金堂釋迦三尊像光背銘にあります。
その暦日は、法興32年「二月廿一日癸酉」(JD1948340、二十四節気「清明節」の3日後)です。〔もっと古い金石文があったなら教えていただければありがたいです。〕

わが国最古の日干支―法隆寺金堂釋迦三尊像光背銘―196文字(一行14文字×14行)
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/07/post-d82d.html
なお、「四寅剣」(正しくは刀なので「四寅刀」)が倭国で造られたことを立証できれば、それが金石文にある最古の日干支ですが、倭国製造ということが未立証と思われます。


増田修氏の「倭国の暦法と時刻制度」(『市民の古代第16集』1994年、市民の古代研究会編)倭國の暦法に関する研究論文として貴重なのですが、残念なことに、増田修氏が「古記」(大宝律令の注釈書)に見いだされた暦法は「倭国の暦法」ではありません。倭國は常に最新の暦法による暦本(こよみ)を使っていたので、増田修氏が発見した暦法は、最新暦を入手できなかった片田舎の権力(大宝律令の注釈書なのでヤマト王朝)のかなり古い時代の暦と思われます。なお、日の出日の入り曲線については北緯33度は肥後の鞠智城(くくちのき)の緯度に相当するので、ヤマト王朝が九州王朝の観測データを盗用した可能性が大です。
しかし、何と言っても、増田修氏の問題は「論理を重んじていない」ことです。だから、史料を発掘できても真実に至れないのです。それをわたしは次の記事で指摘しています。
学問は実証よりも論証を重んじる―「倭国の暦法と時刻制度」の誤謬―
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/07/post-8695.html

持統朝の元嘉暦と儀鳳暦の併用については、時間をかけて暦日を検証して、どの暦が用いられているかを報告するつもりです。元嘉暦かどうかの確認はパソコンでできるのですが、かなり多量の暦日が記されているので、検討結果をまとめるのに時間がかかります。この時間のなかには岩波古典文学大系『日本書紀 下』の引用(打ち込み)も含まれます。でき上ったら、必ず「肥さんの夢ブログ」にご報告いたします。

最後に、年号と暦の関係については、年号があるということは暦を使用しているとは言えますが、暦を使用しているから年号があるとは言えません。つまり、暦があってはじめて年号が可能になる、ということです。理由は、その年が12ケ月の年が13ヶ月の年かを決めるのは暦だからです。暦がないと13ケ月目が今年なのか来年なのか分からないからです。日にちの方は、新月が朔(ついたち)なのですぐ分かりますが、何月なのかはこれも暦が決めます。理由は、どこに閏月がくるかも暦が決めるからです。

肥さんへ

先のコメントで
>暦を使用しているから年号があるとは言えません。
と書きましたが、これは独立国の場合で、例外があります。
冊封体制下の臣下国の場合です。

この場合は、宗主国の暦と年号をセットで使っています。
これがJames Macさまのご見解ではないでしょうか(推測)。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

暦について,以前は面白くもおかしくもなかったのですが,
このところ「謎解き」のような感じで,
暦について考えることが楽しくなってきました。
それは山田さんをはじめとして,暦に詳しい人が古田史学には多く,
またコメントもしていただける環境にあるからかもしれません。
ぜひ持統朝の元嘉暦と儀鳳暦の併用についての論文をお願いします。
楽しみにしております。

肥さんへ

おまたせしました。
『日本書紀』持統紀にあるすべての暦日について
元嘉暦か“儀鳳暦”かを完全検証しました。
コメントでは無理なのでブログをご覧ください。

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/

すこし寝不足気味になりました。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

貴サイトに訪問して,目を通させていただきました。
寝不足にさせてどうもすみません。
悉皆(しっかい)調査の素晴らしさを拝見させていただきました。
結論としては,持統紀は「だいたい元嘉暦」ということでしょうか?
それとも,文武からは儀鳳暦に変わるよという「予告」なのでしょうかね?
とにかく悉皆調査をありがとうございました!
さすが古田史学の会員です。
(また山田さんを寝不足にさせるような話題を考えますね。笑)

肥さんへ

「だいたい」ではなく、「元嘉暦で書かれているが、その中に、3ヵ所だけ元嘉暦ではない記事がある。」
です。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

ごめんなさい。
「元嘉暦で書かれているが,その中に,3か所だけ元嘉暦ではない記事がある」
ですね。

肥さんへ

>「元嘉暦で書かれているが,その中に,3か所だけ元嘉暦ではない記事がある」
というのは「3か所だけ“儀鳳暦”かもしれない(可能性)記事がある。」ということで、
理解できない(何かの間違いと思われる)ものも3か所あります。
詳しくはブログをご覧いただけばよろしいと思います。
どなたでも再検証可能なようにしてあります。

肥さんへ

私が砂川恵伸著『天武天皇と九州王朝』を読んで同感したところは、
『日本書紀』と「金石文や出土木簡」のどっちを根拠に考えるかと
問われたら「金石文や出土木簡」だとするところです。

この信念を貫けるかどうかですね。
たぶん、文献畑出身の人には無理でしょう。
これ以上書くとネタバレになりますので、
おあとはお読みいただいてからですね。

肥さんへ

《持統四年(六九〇)十一月》甲申〔11日〕、奉勅始行元嘉暦與儀鳳暦。
上記の記事について
>文武からは儀鳳暦に変わるよという「予告」なのでしょうかね?
という疑問にお答えしていないのに気づきました。

わたくしの推測するところでは、「観象授時」という思想から考えると、
倭国の暦(元嘉暦)を使わなくてもお咎めがない、あるいは、
咎めることがままならぬ状況になって来ていたからではないでしょうか。
つまり、「正朔を奉じる(あなた様に忠誠を誓います)」ことをしなくても
平気な状況になって来ていたのではないか、と推測しています。
これが正しいかどうかはわかりませんが。
ともかく、わたしは「観象授時」というのは暦と不可分だったと考えてますので、
このような推測をすることになるわけです。

肥さんへ

>文武からは儀鳳暦に変わるよという「予告」なのでしょうかね?
への回答(2)は、
「観象授時」以外の理由に、
唐朝の暦を使わねばならない時代になりつつあった、という妄想も可能です。
“儀鳳暦”というのはもとをただせば唐朝の麟德甲子元暦ですから。
新羅の儀鳳年間に伝わったから“儀鳳暦”だという説明が横行していますが、
新羅が唐朝の暦を勝手に儀鳳暦と名前をかえて使ったら、
臣下国が反逆したことになり、討伐対象になります。
“儀鳳暦”という呼び名はわが国だけで行われている呼称です。
天平尺とか令尺とかいろいろ呼び名が考えられていますよね。
あのたぐいです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 “儀鳳暦”という呼び名はわが国だけで行われている呼称です。

そうなんですか!
そんな基本的なことも知りませんでした・・・。

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