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2017年8月 7日 (月)

●書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査(川瀬さん)

先日の「●古賀・大下論争を読み解く―「前期難波宮九州王朝副都説」について」に続き,
またまた川瀬さんの記事を掲載させていただきます。
日本書紀の「読み解き方」がわかったという,大変重要な問題についてです。
日本で初めて(ということは世界で初めて)かもしれません。
ぜひ歴史に関心のある方はお読み下さい。

方法は,自然科学の方法のようにいたってシンプルです。
「主語が書かれているか,いないかで,誰がやったことかが判明する」というもの。
しかし,これは日本書紀という謎の多い本をこじ開ける,素晴らしい鍵となっていたようです。
やはり,この本にも「謎解きの鍵」が隠されていたのでした。

前回と同じように,「はじめに」と「まとめ」を全文載せて,内容をつかめるようにしてあります。
時間がない,歴史は苦手という方は,ここだけでも読んで感想をお聞かせください。
今年の8月6日(もう7日になってしまいましたが)は,すごい日になってしまいました。(肥さん)

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●書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査

                          川瀬健一

はじめに:
 古賀さんが天武 15 年 1 月に「難波宮」が炎上したが、その半年後の七月に書紀では年号 が朱鳥に改元されているのだから、これも「難波宮」炎上という大事件を契機に改元した と解釈しているが、この解釈は本当に成り立つのだろうか。
 まずこの記事に出てくる「難波宮」が、大阪の上町台地にある前期難波宮である保証は
どこにもない。書紀記事には二か所の異なる難波があり、さらに書紀孝徳紀には、九州王朝の都として難波宮の文字も見られる。
 したがって天武 15 年 1 月に炎上した「難波宮」とは、孝徳紀において九州王朝が「新宮」 に遷都する前の都であった可能性もあるのだ。
 そこで書紀天武紀の宮関係記事を精査してみた。そして併せてそのあとの書紀持統紀の宮関係記事も精査してみた。
 その結果、前記の難波宮炎上関係だけではなく、白村江敗戦以後の九州王朝と近畿天皇家の関係を伺わせる、驚くべき事実が浮かび上がってきた。

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●書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査

                        川瀬健一

http://kawa-k.vis.ne.jp/2017806tenmu

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▽まとめ:
 天武 15 年にあたる朱鳥元年七月に焼失した難波宮は、書紀天武紀宮関係記事を読んでみれば、九州王朝の九州にある難波宮としか読めない。そして現に書紀記事を読めば、「難波大藏省失火、宮室悉焚」と記しておきながら、そのあと混乱が生じたような記事はまったくなく、宮が焼失した翌日に「天皇御於大安殿、喚諸王卿賜宴、因以賜絁綿布各有差。」と大安殿で宴を催し、さらに翌日には「宴後宮」、さ らにその翌日には、「朝庭大酺」とあり朝廷で大規模な酒宴を開いているのだ。
 どう読んでも天武の宮廷が焼失したようには思えないのである。
 だから古賀さんはこの時焼失した「難波宮」は上町台地の九州王朝の副都であって天武の都ではないと言いたいのかもしれないが。そう考えるよりも、九州の難波の九州王朝のかつての首都の跡地に新たに作った「難波宮」が焼失したと考えた方が適切である。

 しかし以上の書紀天武紀・持統紀宮関係記事を精査してみるとさらに多くのことが見え てくる。
1: 壬申の乱後に天武が戻った倭京の岡本の宮の南に作った新たな宮室は、九州王朝の天子の為の物であった可能性が読み取られた。すなわち壬申の乱とは、九州王朝に逆らって近江朝廷を名乗った天智・大友政権を倒すために、天武が九州王朝天子を頂いて起こし た戦いであったとの、新たな歴史認識を導き出すのだ。 そして
2:乱後の天武が最初に居したのは岡本の宮。ここが天武即位の宮だ。飛鳥浄御原宮だというのは、書紀編者の造作。天武が九州王朝天子の為に作った岡本宮の南の宮室の名を飛鳥浄御原宮だとして、天武即位の宮が九州王朝の宮であったかのように偽装した可能性。 さらに、
3:天武は遅くとも天武七年までに新宮を造営していた。これが前期難波宮である可能性 あり。 またさらに、
4:天武は条坊を伴う大規模な京師の造営にも、遅くとも天武十三年には入っていた。即ち藤原京の可能性。もしかして藤原京、しかも条坊都市の真ん中に宮室を置く形の南朝系 の京師は、九州王朝の天子を迎え入れるための都であった可能性も見られる。 そして一方の九州王朝は
5:九州の新城の地に新たな宮の造営を進め、これは遅くとも天武十二年には始まり、天武十五年朱鳥元年には完成した。すなわち飛鳥浄御原宮。この一方で九州王朝は副都とで もいうべき宮を各地に作ろうとして、その一つが天武十二年 12 月にある難波宮。さらに信 濃にも都を模索していたことも伺える。
6:藤原京造営のこと。 天武の時代にすでに一度藤原京が造営された可能性が大きい。それを持統の代になって新たに造営(改造・拡大?)。しかもその目的が九州王朝の天子 を迎え入れるためであった可能性が大きい。 つまり列島における天皇(天子)の地位を、九州王朝から近畿天皇家が合法的に譲り受 けることをやった可能性が、以上の宮関係記事から見えてくるのである。
7:持統の吉野行幸について 古田さんは、これは白村江以前の九州王朝天子が軍事拠点である吉野ヶ里に行幸した記事を盗用したものとした。だが古田さんは書紀持統紀が行幸を示すときに主語を省略する 場合と明記する場合があることに注意せず、両者を混同した上で先の結論をだしている。
 
 この書紀記事 34 年遡り説は誤りではないだろうか。
 事実は、持統の時代にはすでに九州王朝の天子は大和に移っており、近畿天皇家の庇護下にあったのではなかろうか。そして天武が最初造営した九州王朝天子のための宮・藤原京には天子は遷らなかったが、持統の代になってさらに藤原京は拡大造営され(もしかしてこの時に条坊都市の北側に宮室が置かれる形式に改められたのかもしれないが)、この藤 原京に九州王朝天子は遷った。
 この新たな宮の造営の過程で、そして造営なって遷宮したあとも九州王朝天子はしばば吉野に行幸したということではなかったのか。もちろん大和の吉野だ。
 古田さんは、吉野は桜の名所としている。もちろんそうなのだが、紅葉の名所でもあるし、夏ならば猛暑に見舞われる大和盆地よりも、高所にある吉野は涼しく避暑地でもある。 そして比較的暖かな吉野は冬と言っても雪で閉ざされる地ではない。
 だから一年中吉野に行くことが可能であったのではないだろうか。

 天武紀・持統紀の宮関係記事の精査からはこうしたことが読み取れる。
そして持統十一年の八月に皇太子に天皇の位を譲った記録で書紀持統紀は終わるが、これは持統⇒文武の形の記録になってはいるが、実際は九州王朝天子⇒文武の形の権力の移 譲だったのではないだろうか。
 すなわち九州王朝から近畿天皇家への権力の移行は、禅譲だったと思われる。
 そして文武紀から始まる『続日本紀』を読んでみると、冒頭から天皇として君臨するこ
とを述べた詔からこの書は始まる形式をとっており、文武の行動はすべて、主語が省略さ れた天子としての記述法によっている。
 つまり大宝律令制定を待たずに、文武は即位の時から天皇だったわけだ。
 これも従来説を覆す発見である。

最後に『続日本紀』に文武が難波宮に行幸した記事があることを紹介してこの稿を終えよう。
①『続日本紀』巻一文武三年(六九九)正月癸未廿七癸未。詔授内藥官桑原加都直廣肆賜 姓連。姓賞勤公也。是日。幸難波宮。
②『続日本紀』巻一文武三年(六九九)二月丁未丙戌朔廿二二月丁未。車駕至自難波宮。

 これは天武によって造営された難波宮が文武の時代まで継続していたことを示す貴重な 記録である。
 冒頭に論じた、天武十五年=朱鳥元年の難波宮焼亡記事は、天武の宮ではなく、当時九 州王朝が新たに造営した難波宮(博多の)焼亡の記事であったことの有力な証拠である。 (2017年 8月6日)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

ここ最近の川瀬さんの精力的な活動はすばらしいですね。私も毎日ワクワクしながら夢
ブログ(&古田史学の継承のために)を開いています。正直、私なんか置いてきぼりを
喰ってしまったようで多少焦りつつも何かお手伝いが出来ることはないかと思い、とり
あえず先行説について記憶があったのでお知らせします。
川瀬さんは日本書紀の天武紀・持統紀の検証作業から九州王朝の天子が天皇とともに藤
原京や難波宮にいたのではないかとの結論に至られたようですが、この「九州王朝の天
子が藤原京にいた」との説は西村秀己さんから出されていることを古賀達也さんが『洛
中洛外日記』で紹介されているようです。
(私は以前この夢ブログで該当記事が紹介されていたところにコメントを入れているの
でとても記憶に残っています)
夢ブログの2008年11月19日 (水)の記事で『50年遡ったワケ』というタイトルです。
私は西村さんの該当論文を読んではいませんので詳細まではわかりません。川瀬さん、
肥沼先生がご存じかどうかわかりませんがとりあえずご連絡いたします。

ツォータン へ
 先行学説のご紹介ありがとうございます。
 西村さんが「藤原宮には九州王朝天子がいた」との仮説を発表されていること(文書ではみあたりませんが)は古賀さんのブログの 第196話 2007/11/16「大化改新詔」50年移動の理由のところと、最近では第691話 2014/04/08近畿天皇家の宮殿でも触れられていますね。
 大化二年に近畿天皇家が出した「評制⇒郡制移行」の改新の詔は形式的には九州王朝天子のものだったとの西村説。
 天武紀・持統紀の詔はすべて形式的には九州王朝天子の物だったと私は書紀記述から判断します。ただし大化二年に近畿天皇家が「評制⇒郡制移行」の改新の詔をだし、これを書紀が50年遡らせて孝徳紀に入れたとは考えません。孝徳紀の大化二年の詔は本来は常色三年の九州王朝の改新の詔。ここで全国的に評制を実施した。この改新の事実を近畿天皇家の乙巳の変の結果起きたことと書紀編者が歴史を偽造し、評を郡に書き改めたため、ここに入ったと考えます。だから実年代とは二年ずれている。
 この詔、詳細に内容を読むと、近畿天皇家の実施した大宝律令による国郡制とはかなり内容が違いますので。
 このあたりは別項で詳しく論じます。
 一つ訂正です。九州王朝天子が近畿天皇家の天皇と一緒にした宮としては、藤原宮は確実です。天武が作った難波宮に九州王朝天子が行った痕跡(行幸記事)は見られません。天武の時代に九州王朝天子がいた難波宮は、九州博多の難波宮です。お間違いなく。

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