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2017年8月 7日 (月)

「主語有無」の論証

昨日発表された川瀬さんの論文は,
大変わかりやすく,しかも日本書紀の解明をする上で,
画期的な論証であったと思う。

九州王朝の場合・・・主語なし
大和政権の場合・・・主語あり

これを「主語有無」の論証とでも呼んだらいいのか。
統計的な処理が可能で,誰でもその検証でき,
中学生にも理解可能な論証である。

これは本来古田武彦氏が使っていた論証といってよく,
もう1つ推し進めれば,
「それに立ち戻って」と川瀬さんは願っているのだと思う。

詳しくは,「書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査」まで。

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/08/post-c112.html

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 「主語有無の論証」ですか。見事なネーミングですね。
 でもこれは、「●書紀天武紀・持統紀宮関係の精査」で初めて明らかにした方法ではなくて、最初に明らかにしたのは「●孝徳の宮難波長柄豊碕宮はどこにあったか」でした。そしてこの発見に基づいて考察したのが「●磐井の乱を考える」です。
 この論証で書紀全体を考察してみようと思っています。
 とりあえずは、
①書紀孝徳紀の改新の詔群の再検討
②書紀天武紀の詔群の再検討
 この二つで九州王朝と白村江敗戦以後の九州王朝と近畿天皇家の関係がくっきりとあきらかになりますね。
 これに続いてやっておきたいことは、
③書紀仲哀紀・神功紀・応神紀の精査ー応神朝の成り立ちと九州王朝の関係
④書紀推古紀の精査ー近畿天皇家が九州王朝から自立を始めた時期
⑤書紀斉明紀・天智記の精査ー近畿天皇家と白村江との関係、そして近江朝の真実
⑥書紀天武紀上の精査ー壬申の乱の実態
 主語の有無で主体を明らかにする方法は、書紀全体に適用可能です。
 従来の古代史像が完全に一変します。

追伸:
 「日本書紀の解読方法」は、「●磐井の乱を考える」の冒頭にまとめてあります。是非ご一読を。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

いろいろな解読方法があるのですね。
勉強になりました。
また,この先にも「やっておきたいこと」がこんなにたくさんあるとは・・・。
でも,この際ですから,お付き合いいたします。
よろしくお願いいたします。
今日,岩波文庫版ですが,『日本書紀』を買ってきました。

肥沼さんへ
 古田史学の継承のためにのコメントにも書きましたが、『日本書紀』は是非原文の漢文でお読みください。現代語訳は『主語有無』をかなりあいまいに訳していますし、これしか読んでいないから、今までみなさん気が付かなかったのだと思います。
 岩波古典文学大系本は原文の漢文も掲載していますが、文庫版はどうなのでしょうか。私が持っているのは「国史大系」本。いつも参照しているのは、ネットで「日本書紀原文検索」サイトに全部あって、語句検索が便利だからです。
 サイトアドレスは、
 http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
 同じように「古事記」の全文検索サイトも「続日本紀」の全文検索サイトもあります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

岩波文庫版『日本書紀』は,読み下し文がメインですが,
各巻の後半には原文が付いています。

「日本書紀」天武13年春正月から12月までの全文を確認しましたが、川瀬さんの法則では、理解しかねます。当てはまるところも有りますが、そうとは言えないところもあるという感じで、法則化は、うーんというかんじです。

上城さんへ
 なぜ天武13年だけを全文読んでみたのでしょうか。私は天武紀(下)の全体を精査し、宮関係記事だけ抜き出したのに。なぜ天武13年だけを問題にしたのか。これが質問の1。
 そのうえで「川瀬さんの法則では、理解しかねます。当てはまるところも有りますが、そうとは言えないところもあるという感じ」とありますが、どこがどう疑問なのでしょうか。具体的にご指摘ください。
 具体的に「当てはまらない」と感じられた箇所の原文を示していただければ、私の読みを提示できますので。
 私はまだ全文の解読を提示していませんよね。
 とりあえず宮関係記事だけの解読を提示しただけです。理由はこの方が余計な箇所が省略されていて理解しやすいからです(孝徳紀も同じ)。

上城さんへ・追伸
 私の解読法で読むと、書紀全文の解釈の仕方が全く変わってきます。従来説が完全に否定されます。従来説による読みを是として私の読みを理解しようとしても理解できません。従来説はそもそも、近畿天皇家の事績と九州王朝の事績とが混在しているとは露とも考えていないのですから。
 このことはすでに「磐井の乱を考える」で示したことです。
 私の読み解いた磐井の乱は、従来説もそして古田さんの説も、さらに正木さんの説も否定していますからね。
 したがって天武紀でも、従来説で(古田史学の説でも)天武の事績と考えられてきた多くのことが九州王朝天子の事績になります。その中にはすでに天武の庇護下にある九州王朝天子に強制して行わせたというものも含まれるかもしれませんが。これは内容を精査しないと区別できません。

今回の川瀬さんの解読方法の是非は、その方法の是非が成立するのかどうかに掛かっています。方法論として成立するには、「日本書紀」の全てに適用可能であると認められることが重要だと思います。そうでないと、論者の任意に委ねられてしまうからです。例えば天武14年冬10月の「巳丑、伊勢王等亦向干東国。因以賜衣袴」も主語がありません。このような記事は随所に有ります。それゆえに、いまだ、私は考慮中です。

「巳丑、伊勢王等亦向干東国。因以賜衣袴」
 伊勢王等また東国に向かう。これによって衣袴を賜う。
 「賜」の語を使っており、主語が省略されているのですから、伊勢王等に衣袴を支給したのは九州王朝の天子です。従来説はこれを天武と理解した。これは恣意的な読み。
 
 今問題なのは、私の解読法が適用可能か否かではありません。
 たとえば持統紀の吉野宮への行幸記事で「幸吉野宮」という記述と「天皇幸吉野宮」の記述とがある理由を合理的に説明できるか否かです。
 従来説は説明できないので無視です。どちらも持統とした。私の理解は主語が省略されているときは九州王朝天子、天皇と主語明記のときは持統です。
 なぜこうした表記の違いが出たか。
 九州王朝の史書、おそらく「日本紀」は、中国の正史の本紀(天子の事績を記した巻)の記述法に従って天子の言動は主語を省略して記述したあった。書紀編者はこれをそのまま引用。持統の行動は近畿天皇家の史料にあったのでしょう。この時点では持統は天子(天皇)ではないので、書紀編者は主語を明記した。ただあくまでも書紀編纂時点では持統は天皇なので、主語として「天皇」と記した。
 これ以外の説明はできますか。
 できないと思います。だから私の解読法が正しい。

 ちなみに近畿天皇家が文字通りに天皇になってからの史書『続日本紀』では、天皇の言動はすべて主語省略の形で記述されています。

そうでしょうか?「賜」が有っても、天皇ではないのですか?主語が明らかな場合、及び、直前に行動主体が書かれていたり、あるいは、直後に書かれているときは、主語は省略されているので、川瀬さんの方法は強引に見えます。

古田先生の「古代史の十字路」「壬申大乱」で示された「万葉集」の歌も同時代の歴史史料として見るという立場で持統天皇の伊勢御行を考えると、古田先生が指摘したように「中皇命」という九州王朝の天子の長期航海による伊勢行きの盗用であるというのが分かります。そして、「日本書紀」の持統紀には、この伊勢御行は、主語が省略されずに盗用されています。このことからも川瀬さんの方法論は納得しかねます。

私は一般論として「主語が省略されているときは九州王朝天子」とは言っていません。「天皇の言動とみられる箇所で」という限定付。書紀は天皇の事績を記述したものなので、天皇に臣下が言上したり献上したりの記事もある。でも天皇以外の人の言動のときはかならず主語が明記されます。
 「巳丑、伊勢王等亦向干東国。因以賜衣袴」
 これは「賜」という特殊な用語、位の上のものが下の物に何かを与えるという用語。だから天皇の行動です。でも天皇と書かないから、九州王朝天子と判断しました。
 上城さんは書紀のそれぞれの天皇紀において、同じ天皇の言動と見える記事でも主語が書いていないときと「天皇」と主語が書かれているときの記述の違いをどう説明されるのですか。
 ここが書紀読解の肝です。
 従来の古代史学界も古田さんも古田史学の会も、ここを説明しようとはしませんでした。説明できないからです。
 私の読解法なら読めます。
 そしてこの読解法の基礎は、中国の正史の天子の事績を示す本紀の記述法は、天子の場合は主語を省略し、天子以外の時は主語を明記するという記述になっています。書紀編者はこの本紀の記述法で書いたのではないかというのが、私の仮説です。

※そして、「日本書紀」の持統紀には、この伊勢御行は、主語が省略されずに盗用されています。
 これはどの記述なのか。お手数ですが持統紀の何年のいつの伊勢行幸なのかお示しください。
 ⑮六年三月辛未、天皇不從諫遂幸伊勢。
 ⑯六年三月乙酉、車駕還宮。
のことでしょうか。なぜこれが「中皇命」の伊勢行幸なのですか?
 そして持統紀の吉野行幸には盗用はないのですか?

追伸:上城さんへ
 ここは肥沼さんの「夢ブログ」です。議論は「古田史学の継承のために」の方でやりましょう。今後はこの続きを。

川瀬さんへ
RE:「書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査」の飛鳥浄御原宮について

「主語有無の論証」による日本書紀の新しい解釈という大胆な仮説を提示して頂き有難うございます。特に飛鳥浄御原宮は古田先生が小郡市の三井高校のところで気球を上げ、地形を調べられた場所でもあり(古田武彦「生涯最後の実験」『古田史学会報88号、2008年10月』)興味深く読ませていただきました。
飛鳥浄御原宮については日本書紀以外に同時代の史料が残されています。これら史料と川瀬さんの仮説が一致するのか調べてみました。

A)残されている他の史料
① 古事記序文:
712年に出来た古事記において、太安万侶は「天武が天皇位の即位し、居した宮は飛鳥の清原の大宮」としています。
この時点において天武の宮は清原の大宮と呼ばれていたことになります。

② 小野毛人墓誌:
京都の比叡山の麓、八瀬の里近くにある崇道神社に大野毛人の墓があり、そこから墓誌が出土しています。銘文には「飛鳥浄御原宮の天皇の時、大錦上の位にあった小野毛人が丁武6丑年(天年=677年)に死去したので墓をつくり即葬った」と記されています。
この墓碑銘を調査された古田先生の見解では、677年時点において九州王朝の飛鳥浄御原宮はすでに現在の小郡市の地に存在していたことになります(古田武彦「金石文の九州王朝」『なかった』6号、ミネルヴァ書房、2009年)。川瀬さんの朱鳥元(686)年に九州王朝が九州の地に飛鳥浄御原宮を作ったという説は成り立たなくなります。

③ 飛鳥宮発掘情報:
 大和盆地南端にある飛鳥宮の発掘は進んでおり、現在のところⅠ~Ⅲ期の遺構が確認されています。この中で第Ⅲ期とされるものが七世紀後半の遺構です。Ⅲ期遺構は、まず斉明天皇の時に後飛鳥岡本宮(656-660年)が造営され、その後、本殿はそのままでその東南側に「エビノコ郭」と呼ばれる、29.2×15.3メートルで四面庇付きの大型の掘立柱建物が増設されています。斉明の宮殿と天武が増設したエビノコ郭を合わせて飛鳥浄御原宮(672-694年)と呼ばれています。
 壬申の乱に勝利し、後岡本宮に凱旋した天武が、新しい政治を行うために「エビノコ郭」と呼ばれている建物を増築したもので、この宮を太安万侶が古事記に飛鳥の清原の大宮と記したと思われます。

B) 書紀記事の解釈
天武七(678)年12月に「筑紫国、大きに地動る。地裂くこと広さ二丈(幅6m)、長さ三千余丈(10km)」と筑紫国が大地震に襲われた記事があります。白村江の敗戦、唐軍の筑紫進駐による疲弊、そしてこの大地震により九州王朝の中枢部は壊滅し、九州王朝は急速に衰えこの時点において実質的な力を失ったのではないかと考えます。このため天武は在位十五年目に九州年号朱鳥を盗み朱鳥と改元し、宮名も九州王朝の宮名を盗用しそれまでの清原の大宮を飛鳥浄御原宮と改名した。これが朱鳥元(686)年7月の「仍名宮曰飛鳥淨御原宮」記事です。そして日本書紀執筆時にそれまで清原の大宮と呼んでいた宮殿名をすべて浄御原宮に書き換えたと考えられます。 
天武元年九月記事のあとにある「是年、宮室を岡本宮の南に営る。その冬、遷りて居す。是を飛鳥浄御原宮と謂う」は、本来は飛鳥の清原の大宮であった宮名を飛鳥浄御原宮と書き換えたと思われます。

朱鳥年号は一年だけ使われ近畿天皇家は再び年号のない時代となります。これは天武の死により、近畿天皇家が内紛状態に陥ったためで、持統もすぐに即位することが出来ませんでした。九州王朝がその後もしばらく命運を保ったのは、近畿天皇家の弱体化と白村江戦のあと日本列島に強い影響力をもった唐の何らかの意向が働いたのではないかと推定しています。

白村江の敗戦と筑紫大地震で壊滅状態に陥った九州王朝に、川瀬さんが指摘するような近畿まで進出する力や宮殿を新しくつくる能力はなかったと思われます。
そして天武・持統紀にある記事は基本的には近畿天皇家の記事だと思っています。

以上かなりラフな日本書紀記事解釈の提示となりましたが、検討よろしくお願いします。


大下さんへ
 飛鳥浄御原宮についての詳しい論証をありがとうございます。
 じっくり検討させて頂きます。

 ただ最後の方に私の論説の読み間違いがありました。
 「白村江の敗戦と筑紫大地震で壊滅状態に陥った九州王朝に、川瀬さんが指摘するような近畿まで進出する力や宮殿を新しくつくる能力はなかったと思われます。」
 九州王朝が近畿に進出したとは一言も言っていません。
 九州王朝の天子のために天武が、そして持統が近畿に都を作ったと言っただけです。誤解のないように。私もこの時期にはすでに九州王朝は衰微したと考えます。
 そして書紀天武紀持統紀は近畿天皇家の事績と九州天皇家の事績が混在しているというのが私の判断です。これは「主語有無」の論証の結論です。
 全体像はそのうちに、提示します。
 
 ※上城さんのコメントにも書きましたが、この議論は夢ブログではなく「古田史学の継承のために」の記事でやりましょう。

 上城さんのご質問に対する返答と、大下さんのご意見の検討結果は、「古田史学の継承のために」の中の「主語有無の論証」のコメント欄に書きますので、これをご覧ください。

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