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2017年8月19日 (土)

『日本書紀』の書名の「書」の字について(中小路駿逸氏)

ようやく探していた論文を,見つけることができた。
上記の論文である。
(山田さんには,特にお目にかけたかったもの)

もとは「孤独な散歩者の閑感妄想・記」というブログに掲載され,
のちに追手門学院大学の文学部紀要(1988年)に収録された
中小路駿逸氏の論文を読めるようにリンクしてみた。

結論としては,「書」の字は,“複数王朝中の一王朝についてのみ書かれた
紀伝体史書”という意味だということである。

これって,ヤバイ書名ではありませんか?
ONE OF THEM (ワン・ノブ・ゼㇺ)ということですよ!
「名は体を表す」という言葉があるが゜,
「書名は体を表す」ということかな?

『日本書紀』の書名の「書」の字について(中小路駿逸)

http://s.webry.info/sp/5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

中小路駿逸先生の論文を探し出していただき
ありがとうございます。
流石、我が尊敬する肥さんです。
座布団100枚くらいに値します。

ななめ読みしただけで重要な論文であることがわかります。
じっくりと読ませていただきます。
読後感想は必ず書かせていただきます。
重要な論文ですので、読後感想はお時間を頂戴します。

まずは、とりあえず、
中小路駿逸先生の論文のご紹介にお礼を申し上げます。
ありがとうございます。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

「座布団」も久しぶりですね。
今「断捨離」中なので,もらう訳にはいきませんが,
気持ちだけいただいておきます。
論文お読みになったら,コメントいただけたらと思います。

肥沼さんへ

 さっそく貴重な論文を見つけてくださった。私も熟読してみます。
 ちなみに 追手門学院大学期間リポジトリ 中小路駿逸の論文 一覧 です。

 http://www.i-repository.net/il/meta_pub/sresult

他の論文の中にはpdfファイルで読めるものがありますね。

「複数王朝中の一王朝についてのみ書かれた紀伝体史書」=「日本書紀」
 なるほど。
 でも山田さんの推論の方が簡潔にして要を尽くしていると思います。
 中国の正史は、(国名・王朝名)+書。だがこれは天子の事績の本紀を中心にしてそのあとに膨大な「志」と「伝」でなりたつ。でも日本の古代王朝の史書は「本紀」だけ。
 そこで近畿天皇家は「日本書」にしたのだが本紀だけなので「日本書紀」。
 簡潔明瞭です。
 付け加えればすでに、九州王朝が「日本紀」を出している。これも「日本」という王朝の歴史書=「日本書」のうちの本紀だけという命名。
 これがすでに出てしまっているので使えないから、「日本書紀」とした。
 ちなにみ「続日本紀」は、最初の王朝の正式な史書を継ぐという意味。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

はじめの頃,古田さんと中小路さんは仲良くやっていた感じなのですが,
その後はどうもあまりうまくいかなかった?
その事情はわかりませんが,
この論文の存在は知っておくべきだと思いました。

山田さん,素晴らしい。
「山田さんの推論の方が簡潔にして要を尽くしている」と
川瀬さんに言っていただきましたね。

それにしても,中小路さんと山田さんの共通点。
「妄想」が付いていることかな。

PS 最近中小路さんの遺稿集が出ていたようです。
本屋で見かけました。

追手門学院大学研究紀要へのリンクが違っていましたね。

 http://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000145OTEMON

 ここにはいって中小路 駿逸 の検索をすると論文が出てきます。まだまだ一部しか見られないのが残念です。

追伸:この論文は追手門学院大学の研究紀要に1988年に掲載され、それを肥沼さんが引用したブログ主さんがわざわざ図書館に読みに出かけてコピーされて2012年にネットに掲載。それを再掲したものですね。

肥沼さんへ

引用などが長くなりましたので
ブログ記事にしました。
よければ覗いてください。
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/

山田さんへ
コメントありがとうございます。

貴サイトの論文,読ませていただきました。
私の「One of them(ワン・ノブ・ゼム)」的理解は,浅いものでした。
皆さんにもぜひ読んでいただきたいです。
中小路駿逸氏の論文を,紹介させていただいた甲斐がありました。

肥さんへ

ブログの閲覧およびコメントありがとうございます。
ひとえに肥さんが論文を見つけ出して下さったおかげです。

>私の「One of them(ワン・ノブ・ゼム)」的理解は,浅いものでした。
この肥さんの興奮でわたしはかなり考えたことを告白せねばなりません。
いい「頭の体操」になりました。ありがとうございます。

なんといっても「肥さんの夢ブログ」はわたしの必需品です。
これからもよろしくお願いいたします。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

「夢ブログ」で載せたことをネタに,
いろいろ考えて書いて下さる方がいることは,
私にとって望外の幸せです。
だって,書いているだけでも結構幸せなのに,
さらにそれを膨らませて下さる方が
少なからず読者の中にはいるのです。
これを幸せと言わず,何を幸せと申せましょう。(o^-^o)

今後ともよろしくお願いいたします。
乱筆乱文,玉石混交お許しを!
(たまには玉も入っていますので・・・)(^-^;

山田さんによる中小路論文の理解は正確です。
 でもそのあとの「妄想」がよろしくない。山田さんはこう書いた。
「書名「日本書紀」の「書」の字は、中国における先例にもかない、その書物自体の記述内容にも対応し、持統朝以前の“わが朝”の歴史の骨格を、正直に告げているのであるが、なぜ『日本紀』でもよいものをそこまで厳密に書名を「日本書紀」としたのだろうか。それは唐朝(厳密には武周朝)に提出するため、唐の歴史書と内容体裁ともに整合したものとせねばならなかったからである。だから正規の(唐に提出した)書名が『日本書紀』であり、みなこれに従ったのだ。だから『日本紀』が通称となっているのだ(妄想です)。」
 まず「日本書紀」が唐朝に提出するためには中国史書の体裁に整合したものではなければいけなかったとのくだり。
 ここ何の史料根拠もないですね。だから「妄想」としているのでしょう。
 そして最後の、だから「日本書紀」が唐朝に出した時の正式名称で、「日本紀」が通称となったとのかしょ。
 ここではなぜ「日本書紀」編纂を「続日本紀」の記事では「日本紀」編纂と記述したのかという史料事実の解読がなされていません。
 書紀の「一書にいわく」の形式で書かれる注の中に「日本紀」にいわくというのがいくつかある。これは「日本紀」が「日本書紀」に先在する史書であることの証拠だ。そして万葉集の原注の中に引用された「日本紀」には朱鳥という九州年号で事件を記したものがある。
 これはつまり「日本紀」とは九州王朝の正史だということだ。ただし天皇の本紀だけ。
 したがって「続日本紀」において「日本書紀」編纂記事で「日本紀」編纂としたのは、すでに存在する史書である「日本紀」を近畿天皇家が編纂したのだという嘘であり、すでに存在する九州王朝史書「日本紀」と近畿天皇家の史書「日本書紀」とが同一の史書だと偽装するための工作であったと思われます。
 すでに「続日本紀」編纂の時代には、「日本紀」は廃棄されており、それを持っているものはほとんどいない(九州王朝系の官人の一部が隠し持っている可能性以外は)から、この偽装が成り立つのだと思います。
 このため「続日本紀」以後の時代においては「日本書紀」=「日本紀」との通念が生まれたので、書紀も含めて漢籍を自在に読みこなした紫式部が「日本紀の局」とあだ名されることになったのだと思います。
 「日本紀」は「日本書紀」の通称ではなく先在する王朝の史書であったのだが、それが廃棄され「続日本紀」に「日本書紀」編纂記事を「日本紀」編纂記事と偽装したことで、両者が同じものとされ、現実に存在する史書が「日本書紀」と銘打ってあるので、「日本紀」が「日本書紀」の通称となったのです。
 本当は近畿天皇家も自分の史書を「日本紀」と命名したかっただろうがすでに九州王朝編纂の「日本紀」が存在しているのだから、同じ名を使えなかったというのが実情だと思います。
 中小路さんの論文はとても刺激的でよく考え抜かれていますが、この書紀の通称問題を読み解いていないことが惜しまれます。
 そしてもう一つ、「日本書紀」という書名から、複数の王朝がある中の日本という一王朝の歴史を紀年体で記した史書とされましたが、当時この命名を行った人がこういうことを意識していたかどうかは疑問です。
 九州王朝が「日本紀」を編纂した時期にもすでにこの王朝は国名を「日本」としていました。それは私の見解ではすでに書紀継体紀の百済記の記述でわかります。そして「日本書紀」編纂の時点では、この国名は(九州王朝が国名を「日本」にした際にその旧名である「倭国」を継承した「大和」を中心とした近畿天皇家に引き継がれ、「倭」=「大和」との認識が広がっていたのですが)、「倭国」=近畿天皇家が引き継いでいました。
 だから「日本紀」「日本書紀」という名称は、単にその国名である「日本」王朝の歴史を天皇の事績を中心とした紀年体で記した史書という意味以上の物はなかったと思います。そしてどちらの史書も歴史の初め以来この列島の王者はわが王朝であるとの大義名分論に立っていたことは同じです。ただし「日本書紀」は九州王朝をなかったこととして、その事績を大量に「日本紀」から盗用して、近畿の天皇の事績としたことは、「日本紀」とはことなりますが。
 中小路さんの見解は、現在の近畿天皇家一元史観に対立する九州王朝論者という自己の立場に多分に引きずられた見解だと思います。

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