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2017年8月 2日 (水)

川瀬さんの願いが通じるといいな

以下の川瀬さんの論文は「古田史学の継承のために」のサイトに掲載されているのだが,
あまり閲覧者は多くなく,むしろそれが掲載されていることを「夢ブログ」でお知らせした方が,
関心のある皆さんの お役に立てるのではないかと思い,「はじめに」と「まとめ」の部分だけ
ここには載せさせていただき,読みたいと思われた方だけリンクから読めるようにしました。
ぜひ川瀬さんの願いが通じ,古田史学の継承に少しでも役立てれば幸いです。(肥さん)

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●古賀・大下論争を読み解く―「前期難波宮九州王朝副都説」について 川瀬健一

はじめに:

  「古田史学の会」の古賀さんによる「前期難波宮九州王朝副都説」については、
会員の正木さんや服部さん、さらには冨川さんによる、古賀説への補強的研究が展開され、
「古田史学の会」の「定説」の様相を呈している。
 その一方で、会員の大下さんからは、古賀さんの論は「前期難波宮孝徳期宮殿説」を展開する
大阪歴史博物館の見解を盲信したもので、その論は古田さんが確立した研究方法からみても
間違ったものとの厳しい批判がなされ、 今でも激しい論争が展開されている。
しかし論争を歴史的に振り返ってみると、そもそもこの論争は、2011 年の 2 月から
2012 年 4 月の「古田史学会報」上での論争で決着がついており、
古賀さんの論が成り立たないことは明白となっていて、
以後は、自説にこだわる古賀さんが、大下さんの批判をなかったことにして無視し、
次々と大阪歴史博物館によってなされる「新発見」を追認して
自説の証拠として示しているだけのものだ。
また論争を振り返ってみると、一方的に古賀さんが間違っているわけではなく、
批判し た大下さんの方にも、批判の不十分さや論点のずれが多々見られる。
 しかし古田史学の会の会員の中には、
多数の論争の意味すら分からない人がいるようであるし、
学問を深めるには、当該の論に関わる論争史を振り返ってみることは極めて有益であるので、
この問題を論争史として検証してみたい。
すなわち、論争史を振り返ってみると、論争の中の何が重要で、
論争の中でそれがどの程度深められたのかとか、
逆にどの点が深められずに忘れ去られたのかとか、
論争の中に、対立する意見を超えたところに真実があることもわかってくるのだ。
もちろん論争で解決 されなかった残された課題も出てくるのである。
そこで「前期難波宮九州王朝副都説」の歴史を振り返りながら、
古賀・大下論争を読み 解いていきたいと思う。

●古賀・大下論争を読み解く―「前期難波宮九州王朝副都説」について 川瀬健一

http://kawa-k.vis.ne.jp/2017730naniwa

まとめ:

「前期難波宮九州王朝副都説」を中心にした
古賀・大下論争の詳細な点検と批判は以上のとおりである。
論争は2012年の夏あたりから冷静さを失い、相互の非難応酬の様相を呈して、
2013 年 8 月 15 日の古田史学会報 117 号で、突然の終りを告げてしまった。
 論争が個々の論点に ついての批判・反批判のレベルではなく、
どちらがより正しく、古田さんの学説と方法論を継承しているのかという、
正邪論争のレベルに入り込んでしまったために、
論争ではな くて、会の運営権をも巡る権力闘争の様相を呈してしまったからであろう。
そもそも古賀さんが、大阪歴史博物館による前期難波宮は
七世紀中ごろの朝堂院様式の宮殿であるとの説に触れ、
これは古田さんの九州王朝説の根幹を揺るがしかねないものだと理解し、
これを九州王朝説から解釈することは可能かと問い始めたのが、始まりであっ た。
この古賀さんの危惧は正当なものであり、学問的にも意味のあるものだ。
だがこのスタートの時点で古賀さんには大きな躓きがあった。
古田さんの九州王朝説は単なる仮説などではなく、一次史料である中国の正史群の
記述に基づいて導き出された学説であり、同時代の国内史料で、
多くの一次史料を引用してはいるが、近畿天皇家一元史観で歴史を歪め偽造したものである
書紀や古事記によっても支えられるものである。
この学説が古代史学会で認められないのは、古田説がまだ証明されていないからではなく、
古田説が、明治以後の日本の国家構造を支える「万世一系の天皇 家」神話を
根幹から否定してしまう性格を持っているためであった。
だからこの古田さんの九州王朝説と根本から対立する性格をもつ
考古学説が出てきた場合には、九州王朝論者が取るべき道は、
第一に、その考古学説の基礎になっている考古学的事実を
真実か否かを検証することなのである。
前期難波宮七世紀中期造営説に対しては、発掘された考古学的事実から
真にこのように言い切れるのかどうかを、その発掘報告書や論争史を精査して確認し、
考古学的事実の解釈が誤っている可能性を探ることであった。
これを当初古賀さんが行うか、古賀さんの説に疑問を持つ人たちが、
「発掘報告書や論争史を精査して確認し、
考古学的事実の解釈が誤っている可能性を探ったのか」と古賀さんを批判し、
共に確認精査作業を進めていたら、
最初の段階から、この宮殿遺構が七世紀後半の天武期造営であるとの解釈も可能な
考古学的事実が多数あることがわかったことと思う。
またこれに絡んで、九州王朝が評制を七世紀中ごろに施行したとの史料が出てきた場合にも、
古賀さんのようにこの史料にあった「難波朝廷天下立評」を、
前期難波宮に都した九州王朝が評制を全国施行したと即断しないで、
元になった二次史料の内容を精査するとともに、
一次史料群である書紀記述の中に、この二次史料が示す事実の痕跡なりとも
存在しないのかとの観点から、書紀記述の精査を行っていたら、
もっと豊かな研究成果が出て来たものと思う。
古賀説を批判した大下さんらも、後世の二次史料だけでは確定できないと
批判するだけではなく、二次史料の精査と、書紀記述の精査を行い、
併せて古田さんがすでに、評制は倭の五王の時代に行われた可能性を示唆しているのだから、
この先行学説との整合性を史料に基づいて立証することができないか
との方向で論争を進めていたら、今のような水掛 け論にはならなかったものと思う。
そして正木さんが古賀さんの「前期難波宮九州王朝副都説」
「難波朝廷七世紀中ごろ天下立評説」を支えるようにして
「書紀記事」の精査に入ったこと自身は学問的姿勢としては間違いではない。
古賀さんの説は考古学説と後世の二次史料に基づいたものなのだから、
一次史料群である書紀記述の中にそれを支える史料や痕跡なりとも存在しないのかと
考察を進めることは正しい方法である。
ただ正木さんはこれを行うに際して、古賀説と合うからとの理由で、
史料根拠もなく書紀記述を次々と34年遡らせることが可能だとの恣意的解釈を
行ってしまったところに間違いはある。そしてこれを批判した大下さんらが、
恣意的解釈だと批判したことは正しいが、
詳細な書紀記述の史料的事実に基づいた批判を行わなかったし、
では正木説とは異なって書紀記述はどう読むのが正しいのかを提示しなかったことによって、
ここも論争が水 掛け論になってしまったのである。
論争の当事者双方が、古田さんの学問の方法を正しく理解してはいなかったのではないか。
そして古田さんの学問の結論もまた正しく理解していなかったのではないか。
双方ともに古田さんを崇めるだけで、その学問の方法論に基づいて古田説を理解し、
その正誤を点検するとともに、古田さんが見つけられなかった歴史の真実を
見つけていこうとする姿勢に欠けていたのではないかと思う。
双方ともに、古田さんの学問の方法への理解が浅いまま、
古田説をいかに防衛するかとの観点で動いていたように思えるのである。
このため考察すべき道筋が正しく理解されず、
明らかにされるべきところが明らかにされないまま、
論争が、古田説とその方法論を正しく継承しているのかという、
正邪論争のレベルに入り込んでしまって、学問的論争ができなくなったというのが、
この論争の真相 であったと私は考える。
私のこの「論争を読む」を読んでいただき、もう一度論争の原点に立ち戻り、
学問的論争に戻って行くことは可能だろうか。
「古田史学」の成果を継承するためにも、ぜひもう一度、
学問的論争に戻ってもらいたいと切に希望している。 (2017年7月29日)

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コメント

良く調べられて、しっかり論じられていて、感服しました。以前古田先生が親鸞に関する講演会において、「私は親鸞を愛するものである」と述べられました。明石書店出版の「わたしひとりの親鸞」に収載されています。この言葉の背景にある古田先生の心様に感動したものです。今、「九州王朝説」に立つ者で「私は古田武彦を愛するものである」と発言できる人が何人居るのでしょうか。私は、古田先生の九州での目となり脚となろうと活動して参りましたので、先生が死去されれば、もう会に所属する意味もなく、退会致しました。「古田史学」を名乗りながら、古田武彦の学問と異質なものを発信し続けることに、強い違和感をもつているのです。またスポーツで言うなら、選手が審判を兼務しているような、論争の場のあり方にも不信の念が有ります。また、このような場所で書けないことも、数多く古田先生からお聞きしていることも、この背景にはあるのですが、これは仕方ないこととして、川瀬さんのご意見に沿うよう努力していきたいと思います。

 上城さんへ。
 私の論考をお読みくださりありがとうございます。
 「古田史学の会」を退会されたのですか。ちょっと性急すぎるとは思いますが、会の変質ぶりのあまりのひどさに、創設以来の(たしか一番)会員としては、そして「古田さんを愛する」弟子の一人としては、耐え難いものなのでしょう。
 古田さんが「いじめの法則」で書かれているように、論争の当事者が会の責任者を務めて会報の編集責任者を務めていたのでは、会の運営や会報の編集が中立であることは大変難しいことですね。
 肥沼さんが掲載してくださった「まとめ」の冒頭に、「論争ではな くて、会の運営権をも巡る権力闘争の様相を呈してしまった」との記述がありますが、ここについては大下さんから事実と違うと抗議されました(「古田史学の継承のために」の当該論考のコメント欄にあります)。自分にはそんなつもりはないと。
 もちろんその通りです。私の書き方があいまいだったとお答えしておきました。「会の運営権を独占するために会報編集を恣意的に行い、反対者を排除し、自らのブログでは自分の正統性だけを喧伝する」古賀さんらの動きを「権力闘争」と表現したものです。そしてこれは大下さんらが、古賀さんらの学問の姿勢もその論説も「古田説無視」「古田の学問の方法論の無視」だと論じたことで、古田さんを崇める性格の強い「古田史学の会」においては、この批判は「お前は正統ではない。異端だ。異端は排除されなければいけない」と言われたと、古賀さんらが感じたからだと思います。
 今後は古田史学の会の外で、古田さんの学問の方法論を継承して、日本古代史の真実の姿を明らかにする活動をされるとともに、古田史学の会を握っている人たちの間違いを、具体的に丁寧に批判する活動を続けていきましょう。これを続けていればやがて、会員の中にも気づく人も多くなると思います。
 「古田史学の継承のために」のブログへの投稿が滞っていますが、ぜひ今後も論争を続けましょう。

肥沼さんへ
 夢ブログに僕の論考を紹介して頂いてありがとうございます。
 「はじめに」と「まとめ」を掲載して頂いたので、僕の論考が何を言っているかが、中身を見ないでもわかる形になっているので、大変ありがたいです。
 できたら「古田史学の継承のために」の方も、「はじめに」と「まとめ」を掲載しておいてくださるとベストだと思います。
 よろしくお願いします。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

ご希望のようにさせていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。

川瀬さん。そうありたいと、思います。古田先生の晩年、私が先生に「先生が親鸞、古賀さんが蓮如みたいですか?」と質問したことが有ります。先生は答えられず。苦笑されました。晩年の10年以上は、古賀さんと、距離をおかれていました。その根底には、古賀さんの、今は故人となられた西村教授に対して発言された「和田家文書」寛政原本に関する発言がベースであったとお聞きしています。なにより、前期難波宮副都説をまだまだ発信し続け、そこから、九州王朝の近江遷都に展開していこうとする姿勢には、疑問しかありません。誠実な論争を期待しています。

追記です。正木さんの34年遡上説については多元115号において、正木さんが根拠とした「日本書紀」の記事を検証し、誤読に基づくものであると、論じています。

上城さんへ
 私の論考で使った資料は、「古田史学の会」のサイトから見られる範囲の論文と古賀さんのブログです。
 多元的古代研究会と東京古田会のサイトでは機関誌の内容は読めませんので。
 できたら多元115号の上城さんの論考を送っていただけると幸いです。

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