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2017年8月30日 (水)

日の神論争~アマテラスが照らした範囲は?(2)

先日の話題を,山田さんがご自分のサイトで取り上げて下さいましたので,
リンクしてご紹介したいと思います。

日の神論争~天照大神が照らした範囲
―『記・紀』では「皆既日食の範囲」―

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/08/post-36a0.html

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

リンク、ありがとうございます。
根拠までは長大になりますので、ブログにしておきました。
リンクまでしていただき助かりました。ありがとうざいます。

肥様

いつも楽しく拝見しております。いつかコメントを書こうと思いながら、本日になってしまいました。

下記アドレスが信用できるのかの検証はしておりません(と言うより、その能力がありません)が、参考になりませんか?

http://eclipse-navi.com/ichiran/nendai/1000before/index.html
この神話が出雲王朝時代の、「天照大神が対馬・壱岐時代」だと仮定すると、
BC1700年の金環日食が候補の一つでしょうか?
ただ、北日本に幅900Kmの金環帯だった様で、対馬・壱岐では観察されていないようです。
BC728年の皆既日食も日本列島を縦断しているようですが、九州では南部で観測されていますが、北部では観測されていません。

「天孫降臨後の皆既日食が、過去に遡って、天照大神の神話に挿入された」と言う、かなり無理な仮説を立てると、
AD1年も北海道のみ。
AD150年も観察される事は無さそうです。
AD168年の金環日食。こちらは、3千年間でナンバー3の金環日食との事ですので、立派な候補になるのではないでしょうか?
この地図では見づらいのですが、
http://eclipse-navi.com/ichiran/spot/10_kyusyu/fukuoka.html
のページにも福岡で観察されたとの事です。

この結果、(当ホームページが正しければ)以下の3つの仮説が成り立つと思われます。
①AD168年の金環日食が、過去に遡って、天照大神の神話に(恐らく、皆既日食として)挿入された
②この神話が生まれた時代は、BC1700年より前だった。
③天照大神とは違う土地の神様の神話が、天照大神の神話として換骨奪胎された。
例:BC1700年の北日本・北海道・シベリアやBC728年の日本各地の何れか

如何でしょうか。

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

「3千年間でナンバー3の金環日食」だと,かなり有力かもしれませんね。
ただ,私はあまり天文歴史学についてくわしくないので,
どなたかレクチャーしていただけると助かります。

通りすがりの素人さまへ
とても素晴らしいご教示、ありがとうございます。

教えて頂きましたサイトから、次の日食が最もモデルにふさわしいと感じました(感覚です)。この日食を神話に採用したのではないでしょうか。天照大神の時代の伝承ではなく、この時の記憶を神話として後付けしてものではないでしょうか。ふさわしいと感じたのは對馬海峡、出雲国、近畿地方、科野国などを通っており、どの地方にも説得力を持つであろうというものです(たんなる憶測です)。
………………サイトの説明………………………………
522年6月10日
本州で6分間の長い皆既日食
西暦522年に起きた皆既日食は、九州北部から北関東や東北南部まで、皆既帯が本州に沿うように走りました。このため本州を中心に広い範囲で皆既日食が見られました。しかも継続時間は最大食地点で6分28秒に達しました。日本でも中心線に近い長野では5分55秒の継続時間があり、6分にせまる長いものでした。
………………………………………………………………

【私の元嘉暦による計算】
ユリウス暦522年6月10日は、元嘉暦では次のデータとなっています。
辛丑年五月壬辰朔〔JDN 1911879〕、「去交分」(交点からの太陽の角距離)935、「交会」食尽時刻10時43分48秒(最も食が深い時刻)

《元嘉暦について》
元嘉暦は、「日食」といわず「交会」といっています(日食が起きない地域に配慮しているのかも)。
元嘉暦は、月食と「交会(日食)」に関しては、平朔法ではなく定朔法(月の移動速度の変化を考慮する計算方法、数表を使用している)で判定しています。
元嘉暦は、何承天が景初暦を改革して作った定朔法暦だったのですが、定朔法が受け入れられず、暦(こよみ)については平朔・平気法(月と太陽の位置を平均移動速度によって計算する方法)とした経緯があるのです。
元嘉暦では、食の存否の判定は「去交分」(交点からの太陽の角距離)で判定しています。
「去交分」というのは太陽の交点離角(黄道と白道の交点から太陽が離れている角度)のことです。黄道と白道の交点は二個あります(昇交点と降交点)。
元嘉暦は、交点から反対の交点までの角距離を「会月」といい、その角距離を939としています。
元嘉暦は食の起こる条件を「去交分」が859(「交限数」という)以上か、80(「合数」という)以下としています。「去交分」は、太陽の移動距離を「会月」(月の半周の移動距離)で割った余りとして計算し、0に近い方が月食、939に近い方が「交会(日食)」です。
辛丑年五月壬辰朔の去交分を会月で割ると935/939=0.99574014909ですので、かなり深い日食であることになっています。

肥様、山田様

ありがとうございます。

山田様の522年説ですが、私が取り上げなかった理由は以下の3点です。

①皆既日食の神話の素地が無ければ、この時点で新たに神話を創作するには新し過ぎる。
②当皆既日食は、善記への改元の切っ掛けではないか?
③九州年号が発布されていた時代、この神話を掲載したと思われる九州王朝の歴史書(日本紀?)も公表されていた可能性があるのではないか?(大和政権の年号と日本書紀の関係の巻き戻し)。

神話に匂いがするというのが、一番の理由で、根拠はないのですが・・

肥沼様
山田様
通りすがりの素人様(とてもそうは思えませんが)

話の舞台となったのがどの年次なのか、縄文なのか弥生なのかはたまた古墳時代なのか私はいずれとも決めかねていますが(ただし、「天孫降臨」は「弥生」の始まりとシンクロすると思っていますが、だからといって「天の岩戸神話」がそれ以前とも思いません。)ただ「古墳時代」以前の神話が「古墳時代」つまり「倭の五王」の時代になって「文書化」されたと思っており、文字化された時点でその時点の文化の影響を受けて変化(変質)したと思っています。それを示すように神話に登場する人物達の服装は明らかに南朝に特徴的な「裙襦」であり、それはまた「埴輪」などの服装も同様です。「機織り」などの技術も(もちろん元々倭国にはその技術はあったものの)「呉」から渡ってきた「機織り女」によって最新の技術が伝えられたであろうと思うと(この「呉」は南朝を示す『書紀』の常套用語です)、南朝との交渉が「倭の五王」に始まると見れば、この「天の岩戸」神話も含めて「五世紀代」にその形成時期を(完成時期と言っても良いが)、求めるべきではないでしょうか。それは必然的に「岩戸隠れ」のモチーフとなった日食も「五世紀」に求めることも想定範囲に入れなければならないことを示すと思われます。その場合適当な候補は「454年8月10日午前中」に熊本から長崎を通る皆既食が考えられます。この当時倭の五王の中心拠点は肥の国にあったと思われますから、まさにその王朝のど真ん中に起きた皆既食であり、当時の王権にとってある意味重要な現象であったのではないでしょうか。

想像を逞しくすると以下のことも考えられます。つまりこの「454年」という年次は「済」から「興」への交代時期であり、可能性としては「済」が死去した後「興」が後継の儀式の場で「日食」が起きたと言う事も考えられるでしょう。当時「王」の交代儀式は「もがりの場」(殯宮)内で「新王」が「前王」の亡骸と共に「隠る」とされていたようですから、その時日食が起き、「新王」が日食の終了と共に「もがり」から出てきたとすると「天の岩戸」神話に相似形となるのではないでしょうか。(ほとんど妄想ですが)

James Macさんへ
コメントありがとうございます。

日の神論争からスタートしたこの話題でしたが,
通りすがりの素人さんがワンタッチして下さり,
それを山田さんが見事にレシーブして下さり,
さらに通りすがりの素人さんがトスを上げて下さったものを,
James Macさんがスパイクで返球して下さるという形で,
バレーボールのラリーのようになりました。
読者の皆さんも興味を持たれたのではないでしょうか。
今後ともよろしくお願いいたします。

読者の皆様へ

上記のJames Macさまのコメントの内容を詳しく展開した論文が、James Macさまのブログ「古田史学とMe」に連続掲載されましたので、是非ご覧ください。

「神話」が国家によって造られた時期について(一)
http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/25b16441b268b7ee4649f6527927d640

「神話」が国家によって造られた時期について(二)
http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/d972e2a888a9fac3a336b64db8ac1ab8

「神話」が国家によって造られた時期について(三)
http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/261ca668ea20e598bdaf97778be76ec1

「神話」が国家によって造られた時期について(四)
http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/33974f139b604efbf56460d329bf5fb7

「神話」が国家によって造られた時期について(五)
http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/d4e045a48cbb5728e442fca1c7e143a9

James Mac様
ありがとうございます。

454年は完全に見落としていました。年代別と福岡だけをマークしていましたので・・
>文字化された時点でその時点の文化の影響を受けて変化(変質)したと思っています。
私もその様に考えております。その文化の影響を受ける前の素地になる皆既日食の下限が168年かな?と。或いは、どこかの別の地域の日食神話だったのではないか?と。

>「倭の五王」の時代になって「文書化」されたと思っており
私は、「文書化」された時代は、山田様が指摘された522年の皆既月食以降と考えておりました。454年を見落としていたのですから、当然です。本日、James Mac様のブログを拝見させて頂きました。

肥様が呈せられた、「天照大神が照らした範囲」と言う疑問ですが、当初は山田様の回答の「皆既日食になる範囲」としか言いようがないと考えていました。あえて加えるなら、その皆既日食は私では特定できないと。
今は以下のように考えています。「天の岩戸神話を公表した際の九州王朝が、己が権力を示したかった範囲」だと考えています。
もし、上記に加えて、「当該皆既日食が及ぶ範囲」が必要であれば、522年の方が広域だけに納得性が高いようには思えます。

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