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2017年6月11日 (日)

修学旅行 2017 (1日目)

昨日から,修学旅行が始まった。
その様子を略報してみよう。

早朝私はインターネットカフェへと向かった。
故障しているパソコンではできない,
更新作業をするためである。
(更新はできても,メールは受けられないので,
お急ぎのメールはコメント欄に書いて下さい。
表には出ないのでご安心下さい)

さて,私の動きを中心に,書いていくことにしよう。

午前8時半,東京駅丸の内南口の改札当番・・・大きな声は出せないので,
JR東海のCMをパクッて「そうだトイレ行こう」という札を作ってみた。
(ウケない人以外にはウケた。笑)

東大寺の班別行動。
いろいろな生徒たちや先生方のグループと話したり,離れたり,
最後は多元的「国分寺」研究的動きも少々。

というのも,赤門塾の皆さんたちとの奈良旅行をしてきた私にとって,
東大寺の塔が九重塔だったことはその法輪から知っていた。
そして,その他の塔といえば五重塔や三重塔だったわけで,
ある意味,七重塔がミッシングリング(なぞの輪)だったわけである。

九重塔→(   )→五重塔・三重塔

今考えると,「国分寺建立の詔」で「七重塔を建てよ」の言葉を見つけた時,
「これこそ探していたミッシングリングの七重塔だ!」という喜び方もあったというワケだ。

総国分寺→各国の国分寺→その他の塔(九州王朝が建てた国府寺)

という階層を作り,誰がこの国の支配者かを示すことにもなっただろうから。
ただ,聖武天皇に従ったのはそれほど多くなく(26/66),
実際に七重塔が現存するところはないのであるが・・・。

東大寺の東塔と西塔の跡にも行ってみた。
版築が施されているためか,1300年ほどたった今でも土台は良く残っている。
心礎や礎石はないものの,心礎が沈まないための敷石や瓦の破片がたくさんあった。
東大寺に行った際には,東塔跡と西塔跡も訪問してみてほしい。
土台の規模からいって,九重塔用のものといっていいと思った。

もうひとつ,東大寺で得た情報である。
なんと,戒壇院の四天王は,もとは法華堂(三月堂)にあったそうだ!
東大寺内にもいろいろ事情があったと見える。

「この日光・月光菩薩像と戒壇院の四天王像の塑像6体を本来の一具とみなし、
不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、四天王像が法華堂の本来の安置仏だった
とする説は古くからあった[14]。
前述のように、不空羂索観音像が立つ八角二重壇上の台座痕跡などから、
この壇上には不空羂索観音像を取り囲むように
日光・月光菩薩像と四天王像(現戒壇院)が安置され

壇の背後に執金剛神像が立つのが本来の仏像配置であったとみられる。」

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「教育」カテゴリの記事

コメント

 しばらく更新がないとおもったら、修学旅行が始まったからだったのですね。パソコンの故障と修学旅行が重なったわけだ。
 総国分寺:東大寺=九重塔、各国の国分寺=七重塔、その他の寺=五重塔。これは、「という階層を作り,誰がこの国の支配者かを示すことにもなっただろうから」。
 いい着想ですね。聖武としては、そして九州王朝から列島宗主権を奪った近畿天皇家としては、こうした階層を作ることで、だれが列島宗主権を持っているかを示したかったのでしょうね。天皇の資格を疑われていた聖武としては、「おれが天皇だ!」と示したいとの意図もあったでしょう。そしてこれは「俺の血を受けたものが永遠に日本の天皇だ!」と言いたいのでしょうね。すべての男系男子を失った彼としては、娘が今後生む男子に期待するしかなかったでしょうからね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「国分寺建立の詔には「国分寺」という言葉は出ていない」
という側面のほか,
「九重塔ー七重塔」体制を構築したかった
という側面が考えられると思いつき書いてみました。
本日,九重塔の土台の写真を記事にしてみますね。

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