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2017年4月 5日 (水)

今年度初めての職員会議 2017

思いもよらぬ「波乱の3学期」を経験し,
アパート建設という「怒涛の100日間」を越えて,
今年度は静かに始まった。

昨日は,職員会議が2コマに,
教科部会と学年会と会議続きで疲れたが,
ほぼ私の願っていた方向に進んでいると思う。

ただ,少々仕事は引き受け過ぎたので,
それにどう対処していくかが大切なところ。
自宅で楽天戦を観戦しながら仕事をするなんていうことも,
今年度はあるかもしれない。

具体的に何年生担当になり,どんな仕事をするかは
「企業秘密」なのでもう少し後で報告する予定です。

校庭の桜が,入学式・始業式めざして,
次々と咲き始めているとだけ書いておこう。(o^-^o)

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「教育」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

肥さんは現役なので「企業秘密」があったのですね。
そんな肥さんに対抗して私にも「私業秘密」があったのです。
「対抗する必要はない!」との読者の声が・・・。

何時に起きて、何時頃「書斎」(ファストフード店)に行き、
そこで何をして、何時ごろ帰るのか、という私業秘密です。
「それのどこに秘密があるんだ?!」という読者の声が…。

秘密を暴露しましょう。以後秘密ではなくなりますが。
実は、書斎で仕事をしているのです。
「仕事をしていることなど秘密ではない」との読者の声が。

その仕事というのが「肥さんの夢ブログ(中社)」のコメント作りというものです。
これは「秘密」に値しませんか?「しない!」という読者の声(断定)が…。

では、その「動機」は秘密に値しませんか?「何だ、言ってみろ」と促す読者の声。

では思い切って公開(バラ)しましょう。
「夢ブログ」をおもしろくするためです。
「おいおい、お前がいつおもしろいコメントを書いたんだ?!いい加減なこと言うな!」とのおしかりの声が。

「いいんです(サッカー解説者風に)!」コメントは「ないよりあった方がいいんです!」。
「そんなことはない。無い方がいいコメントを書いてるじゃないか!」との指弾の声が…。

いえいえ、有る方が良いか無い方が良いかは読んでからの判断です。
判断を要求しているということは、読者に頭を使わせているのです。
それだけでも価値があるのです。「頭が痛くなって来た」という読者も…。

ということで、これからも非難をあびつつつ妄想コメントを入れますので、よろしく。
「よろしく、じゃない!」という抗議をあびても、
すでにどんな妄想を書こうかと構想しているのでした、チャンチャン(☚「終り」の印です)。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

山田さんの「仕事」が「「肥さんの夢ブログ(中社)」の
コメント作り」だとは知りませんでした!
でも,そのおかげで,「夢ブログ」が面白くなり,
同時に読者のみなさんの頭も活性化し,
ひいては,山田さんの「妄想披露」の場所ともなるなら,
「一石三鳥」とも言うべきことです。
一本注文した焼き鳥で,三本分味わえるとしたら,
飲み代も3分の1になろうというものです。
(「ならないんじゃないの?」という読者の声。笑)

肥さんへ

「一石三鳥」ではないことに気づきました。
「ボケ防止」にもなりますので、「一石四鳥」でした。

つまり、一本注文した焼き鳥で、四本分味わえるのですから、
飲み代も4分の1になるわけです。
(「ならないんじゃないの?」という読者の声。笑)


肥さんへ

私の尊敬する嫌いな哲学者は、ヴィトゲンシュタインです。
その理由はといえば、
妄想が書けなくなる、と言うものです。
語りえぬものは、沈黙しなければならない、となれば人生の楽しみがなくなる。
「あなたの人生の楽しみはそれだけか?!」と読者の声が。

それがなにか?

山田さんへ
コメントありがとうございます

正確に言うと「飲み代」のうちの「食べ物(焼き鳥)」の部分は安くなるが,
「飲み物」の部分は安くならないので,全体としては3分の1になりませんね。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

その哲学者の方はよく存じ上げませんが,
「語りえぬものは、沈黙しなければならない」
というのがそういう意味なら,私も賛同できませんね。
たぶん「そういう意味」ではないのだと思いますが…。

肥さんへ

よくはわからないのですが
遥か昔に、つまり、かの哲学者以前に、孔子さんが既に曰っていたと思うんです。
論語 雍也第六の二十二 「鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし」と。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

論語の「鬼神を敬して・・・」というのは
そういうことだったのですか?

肥さんへ

孔丘さん(孔子)は「現実主義」とでも言うべきお方だと思います。
えたいのしれないもの(神様仏様ごめんなさい)は君子は語るべきではないということではないでしょうか?
かの哲学者も「沈黙しなければならない」と「沈黙すべき」と規範的言辞を述べています。
このような言辞は「哲学」の範疇ではなく「倫理学」に属するのでありませんか?
だとすると孔子の敬遠するのが「知と謂うべし」(知恵あるものはそうするべきだ)というのと、
私には同じように思われたわけですが、違ってますかね?

でも私は、孔子の教えに反して、「妄想を語っている」わけです。
もちろん、かの哲学者の忠告は無視しています。
「明らかに語りえないもの」を語るのが「妄想」ですから。

肥さんへ

先に述べたことは、

〉論語の「鬼神を敬して・・・」というのは
そういうことだったのですか?

に対して、「そういうことだったのです。」ということではありません。
「私はそう受け止めた」くらいの意味です。
『論語』とかの哲学者の研究をされている学者さんに確認したほうが良いです(勿論、著作物でです)。
しかし、その学者さんの意見が正しいかどうかは自分で考えないと「哲学」にはなりませんね。

肥さんへ

私が、かの哲学者を無視して「妄想」を語っているのは、
「妄想」を語るのが好きだという私の性向が第一なのですが、
明らかに語り得ることを語っていては何も新しいことは発見できない、
という「いいわけ」を盾にしているわけです。

「明らかに語り得ること」をどんなに論理的に語っても、
それは壮大な「同語反復」(トートロジー)ですから、
新しい知見をもたらすことはありません(論理学で証明済み)。

それよりも「妄想」が何かのヒントとなって新しい知見をもたらすきっかけになるかもしれない、
という「淡い期待」もあって「妄想」を語っているわけです(もちろんこれは「いいわけ」です)。

仮説実験授業の提唱者・板倉聖宣さんは,
科学に至る過程の1つとして,哲学があると言っていたような気がします。
「妄想」と思われるようなことでも言うことができる自由な社会の中で,
科学は誕生するということでしょうか。

肥さんへ

〉「妄想」と思われるようなことでも言うことができる自由な社会の中で,
科学は誕生するということでしょうか。

鋭い問題提起ですね。

正しいかどうか分かりませんが、
逆に「妄想」ではないことですら言うことができない不自由な社会の中で、
科学は誕生するのかもしれませんね。「地動説」がそうだったように。

あるいは、そのような不自由な社会がほころび始めるとき、
科学は誕生するのかもしれないですね。

「哲学」が「本当にそうだろうかと徹底的に疑うこと」を基礎としていると考えれば、
板倉聖宣さんの「科学に至る過程の1つとして,哲学がある」という言葉のように、
科学は、みんながそうだと既存説を信じ込んでいるとき、
ほんとにそうなのか疑う者が生み出すのでしょうから。

科学は、少なくとも「信じる者からは生まれない」のは事実でしょう。
信じる者が生み出すのは、科学ではなく「宗教」でしょうから。
いや、「宗教」も「信じる者を生み出す」かもしれないが、
宗教の創設者自身(「祖師」「開祖」とも)は、「ほんとにそうなのか疑った者」なのかもしれません。

「考える」ということは、「疑う」ことを根底にもっているのでしょうね。
子供が「なぜ?」と聞くのは、子供自身が考えている証拠なのではないでしょうか。
なんの疑いも持たない者は「何故?」という質問はしないでしょう。

科学のもとである哲学の種は「何故?」という「疑い」であることは確かそうです。

ニュートンがその力学「ニュートン力学」(仮説「万有引力」、技法「流動率」)をあみだしたもとは
「りんごが落ちたのを見て気づいた」のではなかった、という説があります。

「リンゴは落ちるのに、なぜ月は落ちないのだろうか?」という疑問を解くため、という説です。
私はこの説を支持したいと思います。

「りんごが落ちたのを見て気づいた」というのなら、
ニュートン以前に大勢気づく者がいてもよさそうです。

「リンゴは落ちるのになぜ月は落ちないのだろうか?」と考える者は少ないでしょう。

リンゴと月を同じ原理で考えるという人は、多くないどころか「稀(まれ)」な存在だったと思います。
当時の普通の人は、「地上のリンゴ」と「天空の月」を同一視することはなかったはずですから。

私は、映画「ダヴィンチ・コード」を見ながらこの両説のどっちが可能性が高いか考えたことがありました。
「リンゴが落ちるのを見て気づいた」と言った人はあまりものを考えていない方ですね。
「りんごが落ちるのを見て疑った」と言った人の方がものを考えています。
哲学的に言えば、「それでは聞くが、なぜ気づいたのか?」と、ソクラテスはさらに問うと思います。
たぶん、この質問に窮するはずです。「気づいた説」の人は。
「なぜ疑ったのか」という質問には答えることができます。

「リンゴと月は高さ(正しくは「距離」)が違うだけだと考えたから」

とりとめのない話ですみません。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 「考える」ということは、「疑う」ことを根底にもっているのでしょうね。
子供が「なぜ?」と聞くのは、子供自身が考えている証拠なのではないでしょうか。
なんの疑いも持たない者は「何故?」という質問はしないでしょう。

その通りだと思います。
そこから出発して,面白い授業にできるか,
それとも「そういうことになっているの。余計なことを考えずに暗記しなさい」となるか,
私はぜひ前者にしていきたいと思っています。

肥さんへ

余計なことを考える、というのが「妄想の素」(「味の素」の「素」)だと思います(いいわけ)。
「余計なことを考えない」人は「妄想」などしない「優秀な人」ではないでしょうか。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

私もよくそう言われます。(笑)
すなわち「余計なこと考えず,目の前仕事をやってほしい」と。
そう言われると,なんだか自分の個性を
認められていないような気がして寂しくなります。

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