« 入学式&始業式 2017 | トップページ | 楽天が移籍の岸の好投で7勝目 »

2017年4月 9日 (日)

「前期難波宮」の内裏前殿は南朝尺で造られていた ―「前期難波宮」内裏前殿に使用された魏尺(正始弩尺)―(山田さん)

山田さんより,以下の論文の掲載希望がありました。
掲載させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「肥さんの夢ブログ(中社)」だったと記憶していますが(記憶違いかも)、
「前期難波宮の内裏前殿は「魏正始弩尺(せいしどじゃく、24.3㎝)」でつくられていた」という内容を発表したあと、
James Macさんから「魏杜虁尺(ときじゃく、24.175㎝)」をご教示いただきました。
どちらも「魏尺」ですが、「正始弩尺」と「杜虁尺」の値が極めて近いので、
発表した「正始弩尺」だという結論は早計であったと考え、
どちらであるかという結論は留保させていただきました。
その後検討した結果、結論として「やはり正始弩尺であった」ことを報告いたします。

前回の発表をご存知ない方もいらっしゃると思いますので、前回の発表と重複しますが、
最初から説明をさせていただきます。

大阪城の南西に「大阪歴史博物館」(通称「歴博」)があります。
その「歴博」の南東に「難波宮跡公園」があり、そこにある遺跡が「前期難波宮」と呼ばれる宮城遺跡です。
その遺跡が二期あることから「前期難波宮」と「後期難波宮」と呼んで区別されています。

「前期難波宮」は、東西・南北ともに六五〇メートルもあるそれまでにない大規模な王宮で
(もっと広いという説もある)、朝堂院とよばれる朝議をおこなう建物をもち、
重要な儀式などで天子が出御する王宮の正殿にあたる内裏前殿という中心舞台をもっていました。


この遺跡がなぜ重要かと言いますと、九州王朝説が説明しきれていない、
というよりはこの事実を突きつけられるとグウの音もでないという三つの事実のうちの一つとなっています。
古賀達也氏が指摘されている「九州王朝説に刺さった三本の矢」、その一つなのです。

【九州王朝説に刺さった三本の矢】(古賀達也氏の指摘)
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は
北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく
大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

この《三の矢》です。7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく
大阪市の前期難波宮(最古の朝堂院様式の宮殿)である、この事実です。
この《三の矢》を抜くことができる仮説が古賀達也氏の「前期難波宮九州王朝副都説」です。
この仮説が成り立たないと「九州王朝説」は「九州豪族説」にならざるを得ないのです。
九州王朝説にとって「致命的(fatal、死に至る)」となる可能性(危険性)がある遺跡なのです。
これを認めない方がいるとは思いますが、そんな“自己欺瞞”は世の中では通用しません。
“原発村”、“一元史観村”ならぬ“古田史学村”など作ってはなりません。

従来説(一元史観)では、この「前期難波宮」を『日本書紀』の孝徳天皇の遷都記事によって
「難波長柄豊碕」に充てているようです。次が『日本書紀』の原文です
(岩波古典文学大系68『日本書紀 下』、大化元年(六四五)十二月癸卯〔九日〕条)。

冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豊碕。老人等相謂之曰、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。

六四五年は「近江朝」以前、「白江戦(白村江の戦い、六六三年)」以前です。
日本国の最初の遣唐使(正しくは「遣周使」)は七〇二年です。
また、隋(五八一~六一八)の滅んだ後ですから、
従来説によれば「前期難波宮」造営に用いられた「ものさし(尺度)」は、
唐のものである可能性はないとは言えませんが、
基本的には隋以前の「ものさし(尺度)」が用いられたと考えるべきでしょう。

「前期難波宮」の造営に用いられた「ものさし(尺度)」が唐のものではないとなれば、
この宮城遺跡がヤマト王権のものではない可能性が高くなりますので、
九州王朝説にとって「致命的」とはなりません。

今回の結論「魏尺(正始弩尺)が造営に用いられた」ということは「南朝尺」が用いられたということです。
また、「前期難波宮」が北に王宮を置く「北闕型」であること「大興城」と同じ様式で
「北朝式」であると考えます(王宮を中央に置く「周礼型」が南朝式)。
「南朝尺」と「北闕型(北朝式)」ということになると、
南朝を滅ぼして統一した隋の時代に現れる「折衷文化」と考えられますが、
隋の時代のものであるとの判断は早計と思いますので、時代の比定は後の研究に委ねます。

では、検証される方の為に「魏尺(正始弩尺)」という結論にいたった過程を説明します。

検討に使用した礎石配置図は、『東アジアに開かれた王宮 難波宮』(積山 洋 著、シリーズ
「遺跡を学ぶ」095、2014年8月14日、第1版第1刷)という書籍のP.36にある
「図21・内裏前殿」の礎石配置図です。
著者は大阪歴博企画広報課長代理、同学芸課長代理をへて2014年に退職された方です。
この著作に掲載されている図は発掘調査報告書から転載されたものと考えてこれを使用しています。
発掘調査報告書のデータではないと思われる方は、発掘調査報告書のデータを使用して、
私と同じ方法でご確認ください。同じ結論に至るはずだと思います。

現存する「ものさし(尺度)」として使用したのは次の尺度のです。単位はcmです。
商尺17.000、黄鐘笛管長17.650、“黄鐘尺(黄鐘笛管長の10/9)” 19.611、戦国尺23.000、
前漢尺23.300、後漢尺(「晋前尺」)23.090、「魏・杜虁尺」24.175、「魏・正始弩尺」24.300、
「晋後尺(元帝以後)」24.500、「宋氏尺」24.568、唐小尺24.690、梁尺29.500、唐尺(天平尺)29.630。
なお、「ものさし」が現存しない創造古代尺(“高麗尺”、“古韓尺”、“奈良尺”)は使用していません
(使うつもりもありません)。

私が用いた「仮説」は次のものです。
「わが国では、中国王朝が制定したものさし(尺度)を用いていた。」
仮説に根拠はいりません。事実に反していなければよいのです
(科学者や数学者で「排中律」や「ペアノの選択公理」や「連続体仮説」の根拠を示せという者はおりません)。
私が創造古代尺(“高麗尺”、“古韓尺”、“奈良尺”)を検討に用いないのは
この「仮説」を採用しているからです。
創造古代尺を用いる方々はこの「仮説」の否定形を「仮説」として採用していると思われます
(事実に反しているのに)。

私が検討した手順は次の通りです。
1.内裏前殿の礎石配置図の礎石間距離を採寸して、現存する「ものさし」の長さで割り算をして
完数(整数値)に近い値がでたものを、用いられた「ものさし(尺度)」の候補のめぼしをたてた
(参考を超えない)。前回はここで結論を急いで出してしまった。
2.採寸した礎石間距離の“実測値”(図の採寸の値をスケールで換算した推定値のことで
遺跡の実測値ではありません)同士の割り算をして、“実測値(推定)”間における相関関係を調べ、
強い相関関係が見られたものを信頼できる“実測値(推定)”とみなした。
また、強い相関関係が見られたもの同士の「相関関係」の内容から、用いられた基準単位を想定した。
3.前回で「魏尺(正始弩尺)」の1.2倍という基準単位が検出されているので、2.で検出された基準単位を1.の
段階で候補とした「ものさし」の1.2倍で割り算をして、完数(整数値)が得られるかどうか確かめた。
以上の手順によって「正始弩尺」が最も適合することが判明したわけです。

上記の手順に従って行ったことは次の通りです。

1-1.書籍の図を300%の拡大率でコピーした。

1-2.100円ショップのモノサシ(非JIS認定)でコピーを採寸した結果は次の通りです。
単位はmmです。
東辺(北から):25.75+25.25+25.5+25.5+25.5=127.25
西辺(北から):25.25+25.5+25.5+25.75+25.5=127.5
南辺(西から):25.5+25.5+27.25+29.25+30.25+29.25+27.25+25.5+25.5=245.75
北辺(西から):25.5+25.75+27.0+29.25+30.25+29.25+27.5+25.25+25.0=245.5

この最頻値などから南辺の礎石が正しい数値を示していると考えられました。
つまり、使用されている柱間距離は次の①~④の四つであると推定しました。

①25.5mm、
②27.5mm、
③29.25mm、
④30.25mm、
⑤桁行9間:245.75mm、
⑥梁行5間:127.5mm。

さらに、礎石がない東北隅は、東に0.25mm、北に0.25mm移動した位置にとるべきではないか、
このために北辺と東辺におかしな数値が現れているのではないかと考えられました。
この補正をすると次のようになります。

桁行9間:25.5+25.5+27.25+29.25+30.25+29.25+27.25+25.5+25.5=245.75
梁行5間:25.5+25.25+25.5+25.5+25.5=127.5

1-3.図にあるスケールは300%拡大では20mが134.5mmでしたので、1mは6.725mmとなります。
これで①~⑥を換算した“実測値(推定)”は次の通りです。

①25.5mm=3.7918215613…m
②27.5mm=4.0892193309…m
③29.25mm=4.3494423793…m
④30.25mm=4.4981412639…m
⑤桁行9間:245.75mm=36.54270929…m
⑥梁行5間:127.5mm=18.959107807…m。

なお、補正した数値0.25mm=0.031747211…mですので、
東北隅の礎石位置はあと東と北に約3.175cmづつ、
つまり3.175cm×√2だけ東北にずらして想定する方が良いのです。

1-4.これらの“実測値(推定)”同士を割り算して得た強い相関関係が認められたのは次の通りです。
①25.5mm=3.7918215613…m➡該当なし。
②27.5mm=4.0892193309…m➡「魏・杜虁尺」24.175の16.951倍。
③29.25mm=4.3494423793…m➡「魏・杜虁尺」24.175の17.991倍。

④30.25mm=4.4981412639…m➡「魏・正始弩尺」24.300の18.511倍。
⑤桁行9間:245.75mm=36.54270929…m➡黄鐘笛管長17.650の207.041倍。
⑥梁行5間:127.5mm=18.959107807…m➡「魏・正始弩尺」24.300の78.021倍。

以上から、魏の「杜虁尺」24.175cmと「正始弩尺」24.300cmの二つの「ものさし(尺度)」が
候補として浮かび上がりました。
ここまでが、「杜虁尺」24.175cmを知らず、早計に「正始弩尺」24.300cmとして結論して撤回したという
前回の経緯でした。

今回は次の検討を行っています。
2.“実測値(推定)”同士の割り算をして、強い相関関係が見られたものは
次の二つの“実測値(推定)”でした。
②27.5mm=4.0892193309…m➡「魏・杜虁尺」24.175の16.951倍。
④30.25mm=4.4981412639…m➡「魏・正始弩尺」24.300の18.511倍。
これが、②×1.1=④という関係にあります。この関係から、つぎのことが考えられます。
(1)②と④は信頼できる数値である可能性が高い。
(2)④-②=(1.1×②)-②=0.1×②=40.892193309cmが単位寸法またはその何倍かの可能性が高い。

3.前掲著書で「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺が採用されている」とされているのは、
「魏正始弩尺24.3cmの1.2倍=29.16cmということを見落としたもの」ということが前回にわかっていたので、
この0.1×②=40.892193309cmを、「杜虁尺」24.175cm×1.2=29.01cmと
「正始弩尺」24.300×1.2=29.16cmで割ってみたら、次の通りでした。
「杜虁尺」:40.892193309cm÷29.01cm=1.409589566…
「正始弩尺」:40.892193309cm÷29.16cm=1.4023385908…
以上から「正始弩尺」の方がより1.4倍により近いということから「正始弩尺」と結論しました。
ただ、40.892193309cmを1.4で割った29.208709506cmという数値1.1や1.2とかの準完数で
除してでる長さの尺度を知らなかったという可能性は否定できない
(「杜虁尺」のように)ので、その可能性も残されているということは付言しておきたいと思います。

「正始弩尺」であるとして復元すると次の数値となります。
基準寸法:「正始弩尺」の1.2倍の29.16cm、これを1単位とすると次のようになります。
①25.5mm=3.7918215613…m➡13単位=3.7908m
②27.5mm=4.0892193309…m➡14単位=4.0824m

③29.25mm=4.3494423793…m➡15単位=4.374m
④30.25mm=4.4981412639…m➡15.5単位=4.5198m
⑤桁行9間:245.75mm=36.54270929…m➡125.5単位=36.5958m
⑥梁行5間:127.5mm=18.959107807…m➡65単位=18.954m

以上から、著書にある桁行と梁行は次の数値が詳しいものとなります。
桁行9間(36.6m)➡桁行9間(36.5958m)
梁行5間(18.8m)➡梁行5間(18.954m)

以上によって、前掲著書で「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺が採用されている」とされているのは、
「魏正始弩尺24.3cmの1.2倍=29.16cmということを見落としたもの」であり、
「一尺=二九・二センチ前後の基準寸法は南朝尺(魏正始弩尺)の1.2倍が採用されている」
と訂正されるべきと考えられます。
また、1.2倍というのは六寸を一単位としてその2.4倍を採用したとも考えることもできて、
そう考えると15.5単位とした箇所は31単位という完数となります。
この考えも捨てがたいところです。
いずれにせよ、内裏前殿の造営に用いられた「ものさし」は「魏・正始弩尺」であり
「唐大尺」ではなかったという結論は動かないものです。
「営造方式」が考慮されていないのは、いかなる等級の「材・分」を用いようとその木材を裁断するときには
「ものさし」を使用したはずであり、とすれば必ずその尺度(目盛り)は
遺跡のどこかに現れると信じているからです。
もし、「材・分」で証明できるのであれば、この内裏前殿の礎石で
その証明を示していただけば良いことだと思います。
私は別に「材・分」を否定しているのではありません。誤解のないようにお願いいたします。

「使用した史料が発掘報告書ではない」こと以外のご批判をお待ちしています。

« 入学式&始業式 2017 | トップページ | 楽天が移籍の岸の好投で7勝目 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

山田さんへ

 「使用した史料が発掘報告書ではない」こと以外のご批判をお待ちしています。これはおかしいですよ。
 前期難波宮の内裏前殿の礎石間距離がどの尺なのかを測定したいのならば、本に掲載された図面を図ってそれを縮尺でかけて求めるようないい加減な作業をやってはいけません。山田さんもどこかに書かれていましたが、数センチ違うだけで尺の判定が異なってくるのですから。
 ちゃんと発掘報告書にあたって、そこに示された数値で行うべきです。

 もう一つ。古賀さんの「前期難波宮九州王朝副都」説を証明するかのような作業ですが、その前にこの説が成り立つのかどうかご検証されたのでしょうか。大下さんが展開された批判を全部読んだうえで(ネット上にあるもの)古賀論文を読みましたが、まったくいい加減な論でした。
 そもそも九州王朝説に突き刺さった三本の矢そのものが間違いです。
 【九州王朝説に刺さった三本の矢】(古賀達也氏の指摘)
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
  ※これは古田さんご自身が解決しています。古墳の大きさが権力の大きさを示すわけではないと。そして権力の力を見せつけるものは、墳墓から寺院や宮殿に変化していると。だから巨大古墳の密集地が列島の中心地とは言えないと。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は
北部九州ではなく近畿である。
  ※これは古田さんは言及していませんが、寺院の、特に廃絶していて文献に創建年代がないものの創建年代を判定するのはとても難しいことです。それぞれの寺院の創建年代が本当に今判定されているもので正しいのかどうかの検証が先です。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく
大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。
 ※これは前期難波宮が7世紀中ごろの宮殿であるという大阪歴史博の見解の鵜呑みです。大下論文でいろいろ見ましたが、どう考えてもこの遺跡は7世紀後期のものです。天武朝。そして太宰府は宮殿遺構の周りに大規模な官衙遺跡があるので、ここまで含めれば当時では列島最大です。

 古賀説は、その前提になっている疑問そのものがおかしいと思います。
 僕も魅力的な説なので古賀説を鵜呑みにしていました。大下さんに指摘されて、古田史学の会の会報の公開されている範囲ですが、双方の論争文を読みました。古賀さん、そして正木さんの論は、古田さんが批判した、自分の仮説に会うように、史料や他の学者の研究成果を改竄して展開しているものです。大下さんのご批判に全面的に賛同します。そして大下批判に二人がほとんどまともに答えていないことも、古田説を無視した古代史学会と同類だと感じています。

訂正です

》1-4.これらの“実測値(推定)”同士を割り算して得た強い相関関係が認められたのは次の通りです。
という部分の「“実測値(推定)”同士を割り算して得た強い相関関係が相関関係が認められたの」は
「“実測値(推定)”を現存するものさしで割り算して得た、尺度と強い相関関係が認められたもの」の書き間違いでした。

(正)1-4.これらの“実測値(推定)”を現存するものさしで割り算して得た、尺度と強い相関関係が認められたものは次の通りです。
(誤)1-4.これらの“実測値(推定)”同士を割り算して得た強い相関関係が認められたのは次の通りです。

> 「使用した史料が発掘報告書ではない」こと以外のご批判をお待ちしています。これはおかしいですよ。
 前期難波宮の内裏前殿の礎石間距離がどの尺なのかを測定したいのならば、本に掲載された図面を図ってそれを縮尺でかけて求めるようないい加減な作業をやってはいけません。山田さんもどこかに書かれていましたが、数センチ違うだけで尺の判定が異なってくるのですから。
 ちゃんと発掘報告書にあたって、そこに示された数値で行うべきです。

私にやり直しを要求するのであれば、その発掘報告書で行うと山田の説は成り立たないとか、
その通りであったいう方が学問の発展には役に立つと私は考えているのですが。
川瀬さんは違うようですね。「やり方が間違っている(学問の正しい方法でない)と言えば問題が解決する」とお考えなようです。
このような話がされるとことを予想して書いておいたのです。

川瀬さんは古賀さんの説を正しくお読みになりたくないようです。
》巨大古墳の最密集地
こう書いてあるのを巨大古墳があると読み替えられたか故意にそのように受け止められたか。
よくお読み頂きたいと思います。

川瀬さんへ

川瀬さんは「私の真の意図」を読み取れなかったのでしょうか。
話が「私の真の意図」と違う方向へ発展するといけないので、
真の意図を説明して終わらせます。

>「使用した史料が発掘報告書ではない」こと以外のご批判をお待ちしています。
誰でも気づくこちらだけ噛みついてもらえました。

ほかにも「読解の鍵」を置いてあるのに、気づかなかったのでしょうか。

>100円ショップのモノサシ(非JIS認定)でコピーを採寸した
こっちには食いついていただけませんでした。理科系なら必ず噛みつく部分なのですが・・・。
「100円ショップのモノサシ(非JIS認定)」とわざわざ書いたのに、残念です。
いや、そうではなく、これは気づいていて「いいかげんな作業」という言葉で一刀両断にされたのでしょうね。

でも、なぜこんなことを書いているのだろうとは思ってもらえなかったのでしょうね。
普通に考えれば、こんなことは書かないことくらいわかると思ったのですが・・・。

「正しい史料に基づいていないから思いつき程度のもの」と思ってもらって良いのですよ。

「そう思ってもらって良い」というよりも、「真の意図」を説明するには、
「そう思ってもらった方が都合が良かった」のです。

「真の意図」は、
「たとえそれが間違っていたとしても、仮説を提唱することには意義がある」
というものでした。

「間違っていた」という部分には、「正しい方法に基づいていない」ことも含みます。

だから言いましたよね。正しい方法ではないと指摘しても「問題」は解決しないと。
学問の進歩には「たとえ間違っていたとしても仮説の提唱は大事」だし、
「正しい方法ではない」と指摘しても「問題は解決しない」。
それなら、正しい方法でやればこうだと示す(問題を解決する)方が有意義だと。

つまり「真の意図」は
「お前のやり方は間違っている」と「強調する」暇があるなら、
(指摘してあげるのはとても良いことです。誤解のないようにお願いします)
「正しい方法でやればこうなる」と示すのが本来の学問の在り方でしょう、
というものです。そうでないものが多いと感じましたので。

川瀬さんは「天武朝」のものだとおっしゃった。
では、「天武朝」が「魏正始弩尺」を用いたことになるのでしょうか。
それとも、正始弩尺というのは「正しくない方法で得た間違った結論」で、
本当は「天武朝」が使った「唐大尺」(著者の見解)だった、というのでしょうか?
それとも「天武朝」が使ったのは「〇〇尺」だということをご存知なのでしょうか?
「前期難波宮」と通称されている遺跡はその「〇〇尺」で造営されたのでしょうか?
問題はこちらではないでしょうか?学問の関心はこちらになるのではありませんか?

私は駄文で「問題」を提出しました。正しい学問の方法で「答え」を出されることを期待します。

念のために言います。「答え」は「真の意図」への反論ではありませんよ、お間違えないように。

問題は「前期難波宮内裏前殿は、どの尺度を用いて造られたのか?」というものです。
「どの尺度」という意味は、「どれだけの長さ」ということではありません。
「現存するものさし(尺度)のどれを使ったのか?」ということです。
「正しい方法でやればこうなる」とお示しください。
「こうなる」は単なる否定(「山田のやり方は間違っている、それは学問ではない」)ではありません。
学問の発展の手掛かり・足掛かりになる建設的結論(〇〇尺で建てられている)を求めます。
それが学問を発展させると私は信じているものですから。

「お前のやり方は間違っている」と「強調する」のが学問を発展させるとお考えであれば、
これは学問に対する理解が違うので、信念の問題と言えますので、「答え」は不要です。

真の意図を説明しましたので、私はこれ以上の議論はいたしません。
私の目的は達成されましたので、批判・非難はご自由にどうぞ。

山田さんへ

 あなたの方法が間違っているといったのです。もちろんその中には1㎜までしか測れない定規で、本に縮めて掲載された図面を図ったのでは誤差が大きすぎると言ったのです(そこまで書かなければわからないのかな?)。
 尺のそれぞれの長さは数センチの違い。
 礎石間距離の測定が数センチ違ってしまえば、どの尺を使ったかは判定できない。
たとえば縮尺1000分の1の図面なら1ミリ違えば⇒1000㎜=1m異なる。0.5㎜(これは測れない)なら⇒500㎜(50㎝)
たとえば縮尺250分の1の図面なら1ミリ違えば⇒250㎜=25㎝こちょなる。0.5㎜(これは測れない)なら125㎜(12.5㎝)

 実測した数値をさまざまな尺で割れば、かなり正しい計測ができますが、縮尺した図面から定規で測定したのでは、実測値との誤差が大きすぎて、どの尺を使ったのかは判定できません。
 だから山田さんの今回の試みは無意味だと言っただけ。

 前期難波京がどの尺で作られたかを判断したければ、発掘報告書にあたって実測値を調べるのが学問の基本です。
 学問の基本を無視しておいて、それを批判されると、自分でやれという。これを居直りと言います。
 以上、私の批判をまとめました。

尺度からの考察は難解です。大宰府条坊における井上説にたいする素朴な疑問としては、条坊は建物を内部に含むので、古〜新に変わったならば、古い建物群の痕跡が無ければオカシイと思うからです。それ故に井上説には、懐疑的です。全ての仮説において、さまざまな角度から考察してみないといけませんね😅

上城さんへ
 井上説。ネット上ではどうしても読めませんね。井上説に基づいての論考はいくつか読めますが。古賀さんは井上説をいろいろ自説の補強として使っていますが、一度も詳細な説明と、この説が正しいのかどうかの検討を、公開していませんね。他人の説に依拠するときは、それをわかりやすく詳細に説明し、その成否をきちんと再検証してやらないと、我田引水になってしまうと思いました。
 井上説に基づいた太宰府条坊についての論考をいくつか読んでみて、井上説というのも、まだ仮説なのであって証明されていないように思いました。井上説が、どのような考古学的な史料、発掘結果に基づいて出来上がった仮説なのか、そしてその仮説を作るにあたって、何か思い込みとかが入り込んでいないのかを知りたくなりました。

川瀬さんが書かれているように、私も井上説が分からないでいます。少なくとも90メートル四方の条坊区画が発掘で示されているわけではないことだけは、分かりますが。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 入学式&始業式 2017 | トップページ | 楽天が移籍の岸の好投で7勝目 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ