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2017年4月14日 (金)

「洛中洛外日記」第1369話の転載

古賀達也の洛中洛外日記
第1369話 2017/04/12
武部健一著『道路の日本史』を読む

 武部健一著『道路の日本史』(中公新書、2015年)を読んでいます。
以前から書店で目にしていて、気になっていた一冊でしたので、今日、思い切って購入しました。
 著者の武部さん(1925-2015)は日本道路公団に勤務され、
高速道路の建設に従事されていたと紹介されています。
同書の出版は2015年5月25日で、著者が亡くなられたのが同年5月ということですから、
著者最後の一冊のようです。
同書で「交通図書賞」「土木学会出版文化賞」を受賞されたとありますので、
もしかすると物故後の受賞なのかもしれません。
著者の人生の集大成ともいうべき渾身の一冊ではないでしょうか。
 まだ読了していませんが、次の箇所が気になっています。
多元的古代官道研究を進める上でヒントになりそうです。

 「図に見るように、都の位置は京都の平安京である。
各道には、都からそれぞれ駅路が一本ずつ樹状につながった。
西海道だけは別で、大宰府を中心にネットワークを形成していた。」
 「西海道は特にネットワーク性が強く、一カ所が不通になっても
他の経路を使って迂回することが可能なように組まれていた。
当時の国家が外敵の侵入に備えて、不時の場合でも対処できるように
計画したものと推察される。」(45~46頁)

 こうした指摘は、九州王朝の存在を裏付けるように思われました。
 また、「古代道路は幅12メートルの直線路」という指摘もされており、
これなどは当時の「尺」単位が約30cmの「北朝系」であったことを指示しているのではないでしょうか。
それですと12m÷0.3m=40尺の道路となりますが、
「南朝系」の1尺約25cmでは、幅48尺道路となり、中途半端な数字です。
もし、幅12mの古代官道が九州王朝によるものであれば、
「北朝系」尺の採用を開始したと考えられる7世紀初頭以降ということになりそうですが、
今後の研究課題です。

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私を古代道の世界に導いて下さった武部健一さん。
(NHKの番組を観て,「日本古代ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」を書いた)
その武部さんの「最後の一冊」なら,当然読んでおかなければならない。
武部さんと生前お話しできていたら,とても馬が合ったと思っている。
なぜ12m幅なのかも,理由ができた。

PS 早速アマゾンで注文した。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

そうだったのですか。
私も注文しました。
自宅にいないことが多いので、大手スーパーの書店です。書斎のそばで、着くと連絡が来るので、受け取りが楽です。少し時間がかかっても自宅で待たなくて良いので便利です。コンビニが近くにないので、この方が便利なのです。

肥さんへ

今、東山道の道幅を調べているのですが、東山道とは断言できないものの「らしい」と推測されている遺跡(支道の支道を含めると)の幅は「約」と書かれてはいますが、6m、9m、12mなのです。
これは約3mが基準単位なのではないかと思われます。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

一番幅が広いところで12mですが,さすがに山岳地だと細くなるようで,
6mや3mの所もあるようですね。

「古代官道」の中で「八世紀末」から「九世紀初め」という時期に廃絶する「前期官道(駅路)」と呼称されるもののほとんどはその幅が12―13mほどありますが、これが「尺」によるものかは疑問に思っています。なぜならこの「官道」は「秦」の始皇帝が建設した「馳道」が「隋」でも倭国でも手本とされたと見られますが、その幅についての基準は「五十歩」とされており、また「駅間距離」も「三十里」とされるなど、「歩―里制」の元で作られていました。もしそれが「日本列島」でも継承されていたとすれば同様に「歩―里制」で作られたとみるべきではないかと思うわけです
建物などは「寸―尺―丈」というシステムで当然ですが、「土地」や「道路」などは「歩―里」というシステムが適用されたものではないかと思われ、そう見てみると「駅間距離」については「養老令」でも「延喜式」でも「三十里」とされていますから、これは「秦」の時代と同様の規格であることとなりますが、それなら「幅」が「尺」であるとすると整合しないのではないでしょうか。
(元来「歩―里」と「寸―尺―丈」という単位系は別個のものであり、中国で相互に換算するようになったのは「秦」以降と思われますが、「私見」では「倭国」ではその「換算」が成立していなかったという可能性があると思っています。いわゆる「六尺一歩制」は「隋代」に導入されたと思われ、それまで倭国内では「尺」と「歩」の両者は全く別個のものとして考えられていたと推察するわけです。)
さらにいえば幅が「五十歩」とすると、各地でみられる官道の幅が12mから13mであるところをみると、使用されているのは「短里系」なのではないでしょうか。(一歩約80m前後と考えると「五十歩」は13mほどとなります。)
この推論の流れから私は「隋」との交渉以前より「前期官道」が作られていたと考えており、「屯倉」の起源や「評」の起源と時期を一にするもので、いずれも六世紀半ばまで遡上すると考えています。(といってもまだ妄想段階ですが)

ただし「駅間距離」の「三十里」は「短里」では240m程度にしかなりませんが、実際にはそれほど短くはありません。(というより「延喜式」に規定する距離に合致する方が多いことは確かであり、明らかに当時国内で使用されていた「長里」によっています)
このように「駅間距離」に「長里」がみられる要因としては、もともと「前期官道」には途中に「駅」が設置されていなかったということも考えられるでしょう。なぜなら「日本列島」における「官道」の当初の存在意義が「軍事」に特化したものであることは疑えませんが、そうであるなら「邸閣」を兼ねた「屯倉」がその要所(というか末端)に置かれ、そこに兵力及び物資を輸送するのが当初の設置目的であるとみることができ、その場合途中には「駅」は必要ないこととなります。
道路幅が広いのは「前面兵力」を増加させるのがその目的でしょうから、かなり多量の兵力を送ることを目的としていると思われ、その場合「駅」などで収容できるボリュームを超えるのは明らかですから、存在意義がないこととなります。それよりは使者などの「往還」という使用目的に合致する制度とみられ、それは「官道」の性格変化という状況を踏まえたものであり、多分に後出的であり、後期的です。その意味で「駅間距離」が「延喜式」に合致するのは整合的といえるでしょう。
しかし「山陽道」について言うとその駅間距離はそれよりかなり短く「標準的」なものとして「12km程度」が措定されています。(もちろん地理的状況により伸縮はありますが)

上に見たように「古代官道」については三段階あると考えています。当初は「隋」との交渉以前に造られたものであり、その「幅」は「短里系」で造られていたものです。その後「隋」と交渉があり、その際「隋制」を多く取り入れた中に「歩―里制」があったとみられます。ただし「隋代」の「歩―里制」は南朝系システムを採用していたという説が有力であり、「里」については「唐小尺」つまり「南朝尺」(「宋氏尺」か)の1800倍という換算システムから計算して「440m」ほどとなり、これで「三十里」とするとおよそ「12km」ほどとなって、山陽道の駅間距離に整合します。この「山陽道」の機能が強化された時点が第二段階であり、それ以外の街道に「駅」が置かれるようになったのが「第三段階」と思えます。その「駅間距離」は「山陽道」に比して1.2倍の「530m」ほどが基準となっているのは明らかであり、これは「唐大尺」がその基準となっているものですが、これが一般に「里単位」として使用され始めるのは「盛唐」から「唐末」以降であり、その意味でも「後期駅路」に適用されていて自然です。その他道路幅の狭いものや支道もその多くが「後期官道」つまり「九世紀以降のもの」という見解もあり、それであれば「唐大尺」が基準でも不思議ではないと思えます。
(実祭にはまだまだ考えなければならないことが多く考察として不完全です。またこれらは「肥沼氏」の論に触発されたものであり、その意味で感謝しています)

James Macさんへ
コメントありがとうございます。

〉 またこれらは「肥沼氏」の論に触発されたものであり、その意味で感謝しています

過分のお褒めの言葉をいただき恐縮です。
私はとてもJames Macさんのように深く,幅広い考察などはできないのですが,
東山道武蔵路が地元の中学校の校庭を貫いて走っていることに興味を持ち,
NHKの番組に触発されて「日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」を書き,
武蔵国分寺と国分氏尼寺の間にその続きがあることを確認し,
武蔵国が東山道から東海道にコース変更になったという続日本紀の記事をみて,
「誰が創ったかはっきりさせていないのに,変更記事が出て来る時はチャンス」だと思い,
西村さんの「土佐国への行き方変更」記事の発見に喜び,今に至っています。
今回のJames Macさんの考察にも大いに刺激をいただきました。ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

James Mac さま

ご教示ありがとうございます。
①始皇帝が建設した「馳道」が「五十歩」、「駅間距離」も「三十里」つまり「歩―里制」
②「六尺一歩制」は「隋代」に導入されたと思われ、それまで倭国内では「尺」と「歩」の両者は全く別個のもの
③「屯倉」の途中には「駅」を置く必要はなく後出的であり、後期的。「駅間距離」が「延喜式」に合致するのは整合的。

「古代官道」については三段階
Ⅰ期、「隋」との交渉以前で、その「幅」は「短里系」
Ⅱ期、「隋制」を多く取り入れ「歩―里制」。「隋代歩―里制」は南朝系採用説が有力で、「里」については「唐小尺」つまり「南朝尺」(「宋氏尺」か)の1800倍という換算から「440m」ほど、これで「三十里」が「12km」ほどで山陽道の駅間距離に整合。
Ⅲ期、「山陽道」以外の街道に「駅」が置かれるようになった。「駅間距離」は「山陽道」に比して1.2倍の「530m」ほどが基準。これは「唐大尺」がその基準で、これが一般に「里単位」として使用され始めるのは「盛唐」から「唐末」以降で、その意味でも「後期駅路」に適用されていて自然。その他道路幅の狭いものや支道もその多くが「後期官道」つまり「九世紀以降のもの」という見解もあり、「唐大尺」が基準でも不思議ではない。

この説は、今まで見いだしている事柄をとてもよく説明(というかこれ以上の説明には出会っていません)できています。
「実祭にはまだまだ考えなければならないことが多く考察として不完全」とおっしゃられていますので、
勝手に決めて失礼ではありますが、私は「最も有力な(仮)説」として受け入れたいと考えます。

私は以前「官家・屯倉」というのは漢字の意味だけでは「国軍の営舎・倉庫」であり「税の収納庫」というのは後世のものではないかと考えたことがあります。「漢字の意味だけ」からなので思い付きにもならないのですが、James Macさまの③「屯倉」の途中には「駅」を置く必要はなく後出的、というご教示にやはりそうだったんだ、と強く納得いたしました。『日本書紀』にでてくる百済におかれた「官家」(「内官家」といったような記憶が・・・)など初期に出てくる「官家・屯倉」は「軍の営舎・倉庫」(軍事的施設が本来のもの)でよいのではないかと再度思いました。
また、信濃国分二寺(僧寺と尼寺)の40mしかない間を通って(これは想定です)東山道と合流すると思われる二寺の北方にある道路遺跡(正方位だと思われます)が幅約6mでして、この道路は信濃国分僧寺の外郭区画西辺とほぼ平行に想定されています。この信濃国分僧寺出土の軒丸瓦は8世紀初頭とされている藤原不比等の建立した藤原氏の氏寺興福寺の出土瓦とよく似たもので、つまり「日本国」以後ですから、6mが「後期官道」(後期東山道の支道)であれば唐尺であることと矛盾はしないと思われました。

「古代官道」と「倭国の尺度」に関して頭の中がもやもやしていましたが、
James Macさまのお説を聞いてすっきり晴れた気持ちになれました。
古代官道と尺度」を改めて一から見直してみたいと思います。

いつもJames Macさまのご教示に助られております。
大変ありがたく感謝しております。
これからもご教示くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

肥沼様
古代官道については、肥沼様が提起しなければきっと今でもそれに対する考察は行っていないのではと思うほどです。眼前にそれを示されなければ認識できないというのは我ながら「うかつ」という以外なく、その意味で肥沼様の論は私にとってサーチライトのように対象物を浮き上がらせるものであったと考えています。改めて御礼申し上げます。

山田様
「官家」と「屯倉」はどちらも当初は「邸閣」の意義があったと見ており、この「邸閣」は(「倭人伝」にも出て来ますが)古田氏も指摘しているように「軍事施設」であり、中国では「漢代」より民衆から租として「倉」へ徴集した稲・穀を一時的に軍隊の糧米として供出する建物(施設)として存在していました。「官家」も「屯倉」もそれと同等のものと見るべきと考えます。この二つに差があるとすると「稲・穀」の王権へ直送する「始点」と「終点」の差と思われ、「屯倉」から「官家」へという物流の流れがあったと推定しています。(「宣化」の詔に明らか)

なお投稿したコメントはあくまでも自分なりの推論であり、可能性の一つとして提示しているものです。川瀬様のいわれるように他人の言説は批判的に摂取するという態度が肝要と思われますから、私の論も同様に取り扱っていただいて結構と思います。(というより自分の論に対しても客観性を保つ意味では「批判」を経過したものでなければならないのは当然ですが)その上でご同意いただくのであれば、コメントした意義もあろうかというものです。

これからもよろしくお願いいたします。

James Macさんへ
コメントありがとうございます。

〉 古代官道については、肥沼様が提起しなければきっと今でもそれに対する考察は行っていないのではと思うほどです。
眼前にそれを示されなければ認識できないというのは我ながら「うかつ」という以外なく、
その意味で肥沼様の論は私にとってサーチライトのように対象物を浮き上がらせるものであったと考えています。

うわー,もううれし過ぎて,スカイタワー(634m)にも登りそうです。
(肥さんもおだてりゃ・・・で)
でも,もう1つ「国分寺」で「サーチライト」にならないと,
死んでも死にきれないと思っています。
応援よろしくお願いいたします。

PS 『道路の日本史』の帯に,東の上遺跡の写真が載っています。
所沢市立南稜中学校の校庭です。

肥さんへ

帯は第何版第何刷かによって違うのではないですか?
私の入手したのは2016年12月30日3版ですが、
その帯には写真は無く「国を作ることは道を作ることだった」
でかでかと田中角栄さんばりのキャッチフレーズがあるだけでした。

「所沢市東の上遺跡」はP.38の図2-2として写真が載っています。
そして、P. 49 には東山道武蔵路の写真が図2-4として載っています。
さらに、P. 88には国分寺市の鎌倉街道の写真が図3-8として載っています。

なつかしかったです。肥さんにご案内いただきました。ありがとうございました。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

本当ですか?私のは,2015年5月25日発行です。
これが初版なのだと思います。
別項で写真を載せますね。

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