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2017年3月 1日 (水)

建築物の配置とその規模

斎藤忠『日本古代遺跡の研究・総説』(吉川弘文館)の中の,
「建築物の配置とその規模」を写真で転載します。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

斎藤忠著「日本古代寺院の研究 総説」の写真掲載ありがとうございます。

二一九頁から二二〇頁にかけて「国分二寺図」のことが書かれていて、
斎藤氏がこれ以前に造営が進行中のものが多かったと考えているようですね。
とすれば、斎藤氏は統一された「形式」にもとづかずに造営されている国分寺のなかから、
「様式(共通して現れる一定のありかた)」を抽出しようとしたと言えます。
私が指摘した「誤った方法論」によったことになるわけです。

しかし、もう一つの「ものの見方」も考えられます。
斎藤氏は「これが国分寺式だ」と主張したのではなく、「一般」と言ってますから、
単に「このようなものが多い」と言っているだけなのかもしれません。
だとすれば、斎藤氏説を「誤った方法論によった」と言うのは言葉が過ぎています。
これを取り上げて、斎藤氏説「国分寺式」だと強調することがおかしいのかもしれません。
以後、斎藤氏は「国分寺には、一般にこのようなものが多い」と言っていただけ、と認識を改めます。

斎藤忠さん、言いすぎました、お詫びいたします。

前のコメントに書き忘れがありました。
斎藤氏は「一般にこのような国分寺が多いとしただけ」と考えを改めた理由です。

斎藤氏は「国分二寺図」以前に進行中のものが多かった事実を知っていたわけです。
(国分寺の伽藍配置が様々で一定していないことを斎藤氏自身が表にしている)
斎藤氏が知っていたにも拘わらず「国分寺式」を抽出しようとしたと考えると、
斎藤氏は理性を持たない馬鹿者になります。
斎藤氏は「一般にこのような国分寺が多いとしただけ」と考えると、
斎藤氏が通常の理性をもった人間となります。
現に、斎藤氏はこのような研究論文を書いている頭脳をお持ちの方です。
そう考えると斎藤氏を馬鹿者扱いする方が馬鹿者なのです。
以上が私が考えを改めた理由です。


肥さんへ

まだ数も量も少ないですが、従来説を見て感じることは、
①国分寺の伽藍配置が一定していないこと
②「国分二寺図」以前に造営が進行中の国分寺が多かったこと
これを皆知っていたわけです。

では、どこで躓いたかといえば、“国分寺建立の詔”です。
「国分寺は聖武天皇によって造られたという思い込み」が「躓きの石」です。

これば肥さんが「(聖武天皇の詔に)国分寺はなかった!」と喝破されたものです。
従来説は、この国分寺という文言のない詔(七重塔一区を建てよだった)を、
“国分寺建立の詔”としてしまい、さらに「一元史観(皇国史観)」であるため、
大和朝廷以前に九州王朝の「国府寺」(国府附属寺院)が存在していて、
その国府寺を念頭において「七重塔一区を建てよ」とした詔であることに気づかず、
「国分寺の多くは国府寺を改造して七重塔を建てたもの」という視点を持てなかった。

肥さんの「国分寺はなかった!」が従来説の「躓きの石」であるなら、
多元的「国分寺」研究にとっては、それが研究の「要石(key stone)」となっています。
つくづく「国分寺はなかった!」の意義が大きいと感じています。

肥沼さんへ
 齋藤忠氏の本の掲載ありがとうございます。この本お持ちになっていたのですね。
 この中の伽藍の種類を論じた表の最後に、「国分寺特殊式」の項があります。この中に、「回廊が講堂にとりつく」形式があるとして、その例として信濃国分尼寺をあげています。
 もしかしてこの時にはまだ信濃国分寺の全容が明らかになっていなかったのかもしれません。

 ともかくこの表の記述で齋藤氏が、信濃国分寺や国分尼寺のように、中門から発した回廊が金堂をとりかこみ、さらに講堂に取り付いた形式もあるという認識を持たれていたことはわかりました。
 これを「国分寺式」として一般化した人が誰なのかはわかりませんが。
 信濃国分寺のように回廊が講堂に取り付いたものがどれだけあるのか。奈良文化財研究所のデータベースで確認したいものですね。尼寺も含めて。
 

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥さんの「国分寺はなかった!」が従来説の「躓きの石」であるなら、
多元的「国分寺」研究にとっては、それが研究の「要石(key stone)」となっています。
つくづく「国分寺はなかった!」の意義が大きいと感じています。

古田さんの「邪馬台国はなかった!」には及びませんが,
肥さんの「国分寺はなかった!」もなかなかやるでしょう。
おだてられても何も出ませんが・・・。
「裸の王様」に「王様はハダカだよ」と言った子どものような自然な気持ちなのです。
私にとっては「日本古代ハイウェー」の時の経験があって,
「誰が創ったと書いていないのに,突然変更記事が出て来る時は怪しい!」
というのがあったので,わりとすんなり「国分寺」という名称の有無から入れました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さんが前に紹介された時は,いまいち読めずにいました。
今回目を通してみて,関係ありそうなことが書いてあるぞと・・・。
いったい誰が「国分寺式」の名称を一般化したのでしょうか?

肥さんへ

いえいえ、肥さんは「王様はハダカだよ」と言った子どもではありませんよ。
「裸の王様」の話は、皆(大人たち)は王様が裸なのは知っていたのです。
ただ、子供は大人の思惑はもてないので言葉に出してしまった。

古田先生の『「邪馬台国」はなかった』も肥さんの『「国分寺」はなかった!』も、
気付いていなかったこと(あるいはそのように通説で思い込まされていること)を
そうではありませんよと覆すものなのです。目から鱗を落とすものです。

〉おだてられても何も出ませんが・・・。
よかった!また座布団10枚もらったら、返すきっかけを待ち受けなくてはいけなかった。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 よかった!また座布団10枚もらったら、返すきっかけを待ち受けなくてはいけなかった。

しまった!これは絶好の「座布団10枚を差し上げるチャンス」でした・・・。(笑)

※ この項は「多元的「国分寺」研究サークル」に移動します。
これ以降は,そちらにコメントをお願いいたします。

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