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2017年3月28日 (火)

「法隆寺は南朝系寺院」は誤りでした(山田さん)

山田さんのご希望で,以下の文章を掲載いたします。

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James Mac さんから頂いたご批判(ご指摘・ご教示)を受け、次にように述べた見解を撤回いたします。

>隋によって南朝が滅ぼされてしまったので隋・唐も中国王朝として扱われていますが、漢民族にすれば異民族王朝なのです。
つまり、北朝にすれば「漢式鏡」というのは南朝のものであり、北朝の伝統とは無関係なのです。
北朝がこの「方格規矩文様格子」を使うはずがないのです。
隋以降の時代、そしてわが国が隋や唐と親密な時代に、この漢式鏡の南朝の文様「方格規矩文様」が使われるはずがありません。
よって、この法隆寺金堂上重の高欄格子の文様は南朝の文様であり、法隆寺が南朝系寺院である証拠なのです。

上記を誤りとして撤回し、見解を次のように改めました。

多くの異民族は中国に入ると自ら漢文化に飲み込まれていく傾向があった。法隆寺金堂高欄格子が「方格規矩(TLV)文様」(漢式鏡の文様)で漢文化であったとしても、北朝の中でも南朝を滅ぼして統一した隋は漢文化には特に許容的であったので、北朝の影響が強くみられる法隆寺に漢文化(南朝系文化)がみられても不思議はない。よって「法隆寺が南朝系寺院である」とは断言できない。
さらに、James Mac さんの次のご教示は法隆寺の性格を的確に示唆されているものと思われます。

>この「TLV」模様が「南朝的」であったとするとある意味「隋代」という北朝として始めて南朝地域をその版図に収めた特殊な時代であることを背景として作られた・・・(中略)・・・「文化的折衷」というわけです。

このJames Mac さんのご教示によれば、法隆寺が南朝を滅ぼし統一した「隋代」の寺院である可能性が高いことになります。

「法隆寺が南朝系寺院である」という誤った見解が一人歩きしないように、特に肥さんにお願いして「肥さんの夢ブログ(中社)」に掲載していただくようにしたものです。なお、私がなぜ見解を改めたかのかが明確になるように、James Mac さんからいただいたご批判(ご指摘・ご教示)を項目式に私がまとめたものを掲げておきます。ご参考になれば幸いです。括弧〔〕内はすべて私の解釈や見解です。

①北朝の「北魏」は「親漢的」で「服飾制度」などを制度として取り入れ、氏名を「漢風」に変えさせるなど漢化施策を行っていた。

②「隋」は旧南朝地域を統一したが南朝の「尺貫法」を並列・継続したように「南朝」文化を全否定したわけではない。また、「仏教」は「煬帝」が南朝皇帝の弟の「天台智顗」に菩薩戒を受けるなど強く傾倒していた。

③「法隆寺」はその仏像形式、建築技法や瓦の文様及び焼成技法などの点で基本的には「北朝的」とされている。
 ③-a.「法隆寺」の瓦は、「南朝」式の「板付け技法」の「単弁紋瓦」と、「北朝」式の「紐巻付け技法」の「複弁紋瓦」とに分類される。
 ③-b.「北魏」の「洛陽城」遺跡から発見された「瓦」はその多くが「紐巻付け技法」の「複弁蓮華文瓦」である(「北朝」式)。
 ③-c.それに対し「四天王寺」や「若草伽藍(焼亡法隆寺)」(「夜半之後。災法隆寺。一屋無余。」『日本書紀』天智天皇九年(六七〇)四月癸卯朔壬申〔30日〕)にみられる「単弁蓮華文瓦」は、「百済」の影響が強いと云われている(『書紀』にも「百済から」人を招いたとある)。
〔『日本書紀』に百済から人を招いたとあるというのは、蘇我氏の「飛鳥寺」に関連する次の記事のこと(『』内の、「寺工」、「鑪盤博士」、「瓦博士」、「画工」。)です(『』は山田による)。〕
>崇峻天皇元年(五八八)是歳。百済国遣使并僧恵総。令斤。恵寔等。献仏舍利。百済国遣恩率首信。徳率益文。那率福富味身等、進調。并献仏舍利。僧聆照律師。令威。恵衆。恵宿。道厳。令開等。『寺工太良未太。文賈古子。鑪盤博士将徳白昧淳。瓦博士麻奈文奴。陽貴文・陵貴文。昔麻帝弥。画工白加。』
〔崇峻天皇元年(五八八)とされている年次(588年)は、「是歳」とだけあり、年干支が記載されていないので糊と鋏が使われた可能性が強く、疑ってかかる必要がある。記事を移動するのに年干支が邪魔だから。朔干支が記載されていない「是月」条も、同様に疑ってかかる必要がある。朔干支が邪魔なのである。〕
 ③-d.「百済」では「南朝」(特に「梁」)の影響を窺わせるものが多く出土している。〔独立した倭国とは違って百済は梁の冊封下にとどまった。大将軍の身分だし、(武寧王(斯麻王)が贖った)領土も(梁のおかげで)倭国から返還してもらったし。〕
 ③-e.「法隆寺」の「紐巻付け技法」の「複弁蓮華紋瓦」は、特徴が独特で他に類がなく「法隆寺式」と独立形式として呼称されている。〔「北魏」の「洛陽城」遺跡の「紐巻付け技法」「複弁蓮華文瓦」(「北朝」式)と同じ。〕
 ③-f.「同笵瓦」も確認されておらず「同型瓦」しかなく、それは「西日本」(特に「近畿」(明日香)と「筑紫」「肥後」)に偏って分布する。
 ③-g.その他「勾欄」などの部分や「仏像」「天蓋」など北朝の影響という評価がされているようです。(浅野清氏の書による)

④「列島」においては「単弁瓦」が先行し「複弁瓦」が遅れて登場することと「百済」からの仏教と寺院の建設が先行し、さらに「遣隋使」が送られることにより「北朝」からの仏教と寺院建築及びそれに付随する瓦技法が伝来するというのは歴史的な流れとして自然であり、これに沿って考える必要がある。

⑤「唐」は、「隋」(特に煬帝)に否定的であったから、「南朝」に対する考え方も変わったとみられる。「唐」は、後に南朝の発音を「呉音」と侮蔑する言い方をするようになる。
〔これによって、南朝漢民族の発音(本来ならこれが「漢音」)が「呉音」となり、北方異民族なまりの発音が「漢音」となった。仏教に関連する読みかたが「呉音」とされているが、これが南朝漢民族の発音であった。日本語にある「呉音」と呼ばれる漢字の読み方は「南朝」の発音(本来の漢音)です。わが国が南朝の音韻(と近いもの)を保存していたわけです。「密教」といい「本来の漢音」といい、日本列島ならぬ保存列島です。他にもいっぱい保存しているものがあるのではないでしょうか。シルクロードの終点とはいえ、ものもちがよい国民性です。〕

⑥後の新日本王権は「唐」に追従していたから「TLV模様」が国内にみられなくなったといえるかもしれない(可能性)。

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コメント

肥さんへ

お手数をおかけしました。ありがとうございます。

読者の皆さんへ

今頃気づいたのですが、James Mac さんのご批判の私の理解がずれているかもしれませんので、
James Mac さんのブログのアドレスを記載します。できればそちらをご覧ください。

古田史学とMe
http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/ca9b3a3df349df3dca788ac491a73753

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