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2017年3月24日 (金)

南朝尺と唐尺~勉強のためのメモ

【南朝系】南朝尺(24.5cm)

中国の南北朝時代において建康に都を置いた宋・斉・梁・陳の4王朝。●=10年

宋・・・420~479年 ●●●●●●
斉・・・479~502年 ●●
梁・・・502~557年 ●●●●●
陳・・・557~589年 ●●●

【北朝系】「隋尺」・唐尺(29.6cm)

隋・・・589~618年 ●●
唐・・・618~907年 ●●●●●●●●●●●●●●●
             ●●●●●●●●●●●●●●

※ 武蔵国分寺の塔が,唐尺を使っていることは川瀬さんによって証明されてしまった。
(私がパンフレットの数値を信用し過ぎていた。グラフを描いてみるべきだった)
が,日本列島には南朝尺で作られた建物は1つもなかったのだろうか?それはあったのではないかと思う。
しかし,それは掘立建物の時代になりそうで,発掘状況はきびしいかもしれない。

※ 「関西例会」のやりとりを読むと,九州王朝は隋に遣隋使を送り,隋から学んでいる。
となると,建築の基礎となる「尺寸」も学んでいるだろうから,北朝尺の導入は7世紀初めの頃となる。
だから,基本的には北朝尺(隋尺・唐尺)の建物しか見つからないということができるだろう。
しかし,一部そうでないものもあるらしいので,南朝尺のことも頭の片隅に置いて考えていきたい。

※ 古賀達也の洛中洛外日記 ~ 第1356話 2017/03/18 ~ 九州王朝の大尺と小尺

本日の「古田史学の会」関西例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された
古代の「高麗尺」はなかったとするテーマで、九州王朝「尺」についてわたしとの質疑応答が続きました。
その討論を経て、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により
北朝尺(30cm弱)を採用したとの見解に収斂しました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)が
あげられます。しかしながら、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の
区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が「不明」で、引き続き、検討することになりました。
この点については、6月の「古田史学の会」会員総会記念講演会の講師・井上信正さん(太宰府市教育委員会)にもお聞きしようと思います。
 前期難波宮の条坊単位も北朝尺(30cm弱)によっているようですので、九州王朝は7世紀初頭から前期難波宮造営の7世紀中頃までは北朝尺で、大宰府政庁・観世音寺の新条坊エリア造営の670年(白鳳10年)頃にはそれとはやや異なった「尺」を用いたと考えられます。大宝律令の大尺と小尺は九州王朝が採用していた北朝尺と南朝尺を反映したものではないでしょうか。服部さんの発表と討論によって、九州王朝「尺」に対する認識が深まりました。

※ 遣隋使から学ぶまでの掘立建物時代には,南朝尺を使った時代があったかも。(尺の混在の可能性)

※ 年輪年代法により594年伐採の数値が出た法隆寺の心柱。この年代は「南朝滅亡後」ではあるが,
「遣隋使派遣以前」でもある。そこに法隆寺が南朝尺を使用していた可能性があったのだと思う。

※ 山田さんにより,法隆寺の「卍崩し」が南朝の文化(文様)であり,北朝(隋・唐)の立場のものが
それを受け継ぐものを作るはずがないというご指摘があった。もっともだと思った。

※ 川淵さんの論文の中に,「正倉院の所蔵の唐尺には,297mmのものと,296mmのものと2通りある」
と書いてありました。

※ グラフの改訂版
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2016/06/post-e523.html

「中国まるごと百科事典~中国の度量衡」というサイトにも「24.2cm」が出ていました。
http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

前期難波宮の内裏前殿の尺度
―見知らぬ“唐大尺”にされた「魏尺」-

今、古田学派では尺度が注目を集めているようです。
そこで、私も参戦してみました。
ちょとした「ボケ防止」のつもりです。
つかった史料(といえるかどうかわからないが)は手元にあった次の書籍です。

『東アジアに開かれた古代王宮 難波宮』(積山洋著、新泉社、シリーズ「遺跡を学ぶ」095、2014年8月15日)

このP.36に図21・内裏前殿の礎石の配置図が載っています。
この図の説明文は次の通りです。

〉当時の倭国で最大・最高規格の建物。桁行の柱間寸法は中央が広く、両脇に行くにしたがって少しずつ狭くなるという高度な設計である。

別段この説明文に問題はない。問題はP.34の本文の方にあった。本文の記載は次の通り。

〉中国風の宮室プラン
前期難波宮の従来の王宮にない特質の第一は唐の宮室の設計思想をとりいれたことである。中心部の内裏・朝堂院、またその南の東西朝集堂、宮城南門にいたる配置は、ひと目でわかるように南北の中軸線を基準とする左右対称である。朝堂院は日本独自のものだが、内裏から南にのびる軸線上に王宮を統合する設計は、魏晋南北朝(三~六世紀)以来、中国の伝統であり、難波宮はこれをとりいれたのである。建築に際しての寸法も、一尺=二九・二センチ前後の唐大尺が採用されている。

このどこが問題か。
まず、目につくのは「唐の宮室の設計思想をとりいれた」としながら「内裏から南にのびる軸線上に王宮を統合する設計は、魏晋南北朝(三~六世紀)以来、中国の伝統であり、難波宮はこれをとりいれた」と南朝の伝統をとりいれたとして、また「寸法も、一尺=二九・二センチ前後の唐大尺が採用されている」としている。

これを読んだわたしは、南北を行ったり来たりしなければならず、めまいがした。
そんな私のめまいはどうでも良いが、問題は尺度です。「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺」。不覚にもこの「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺」という尺度は知りませんでした。

そこで、先に挙げたP.36にある図21・内裏前殿の礎石の配置図を調べてみることにしました。

その前に図21・内裏前殿に関する本文を紹介しておきます。

〉内裏前殿は南門を隔てて臣下の場である朝堂院に面した内裏のなかの公的な殿舎であり、重要な儀式などの際に大王が出御する宮殿の中心舞台である。
 その大きさは桁行総長三六・六メートル(九間)、梁行総長一八・八メートル(五間)で難波宮で最大規模(六八八平方メートル)である(「間」は、柱間のこと。たとえば柱が一〇本建っていれば、柱間は九間)。用いられた柱も直径六〇~七〇センチとたいへん太い。

読んでわかるとおり内裏前殿は桁行九間36.6m×梁行五間18.8mの建物です。
桁行九間36.6mと梁行五間18.8mの内訳は次の通りです。
桁行九間:3.8m+3.8m+4.09m+4.38m+4.52m+4.38m+4.09m+3.8m+3.8m=36.66m
梁行五間:3.8m+3.8m+3.8m+3.8m+3.8m=19.0m

どこがおかしいかわかりますよね。36.6m≠36.66m、18.8m≠19.0mです。
「なにもおかしくないじゃないか。端数が丸められているだけじゃないか」という声が聞こえてきます。お待ちください。尺度を考えるときは端数を丸めてはいけないのです。
これで私は確信しました。「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺」はありえないと。そんな尺度の実物は存在しないからです。端数を丸めているということ自体で適当に尺度をとらえているということがわかるのです。その確信を得たので突き止めるのは簡単でした。
この29.2cm前後とされている、しかも聞いたことの無い『唐大尺』(「唐小尺」とか「唐尺」とか「律令大尺」はもちろん知っていますよ)ですから、例の尺度マトリックスにかけてみました。案の定、出てきました。度量衡の世界では「魏尺」(魏朝の尺度かどうかは存じません)と呼ばれている24.3cmの1.2倍だったのです。24.3cm×1.2=29.16cm、これを「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺」と呼んでいたのです。もちろん唐とは何の関係もないことです。
24.3cmの「魏尺」の1.2倍の29.16cm、これを便宜的に“魏大尺”=尺と呼んでおきます。あくまで便宜的に呼ぶのです。この“魏大尺”で表せば桁行九間、梁行五間は次のようになります。
桁行九間:13尺+13尺+14尺+15尺+15.5尺+15尺+14尺+13尺+13尺=125.5尺
(3.7908m+3.7908m+4.0824m+4.347m+4.5198m+4.347m+4.0824m+3.7908m+3.7908m=36.5958m)
梁行五間:13尺+13尺+13尺+13尺+13尺=65尺
(3.7908m+3.7908m+3.7908m+3.7908m+3.7908m=18.9540m)

結語:著者積山洋氏は魏尺24.3cmの1.2倍であることを見落したのです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

魏尺24.3cmというのは,「南朝尺」の一種と考えてよろしいのでしょうか?
私の「グラフの改訂版」を拡大すると,
三国時代の寸が「2.42」cmとしてありますが,
尺に直すと「24.2」cmということになりますので・・・。

肥さんへ

24.3cmというのは実際のものさし(といっても魏の正始年号のついた弩に刻まれた尺度ですが)が現存しています。
2.42cmの三国時代の寸というのはどこから出たものですか?(出典とか遺物、博物館蔵とかですが)
推測になりますが、南朝東晋から宋にかけての「晋後尺」さきの『法隆寺のものさし』ででましたよね、その24.5cm以前のものが「魏尺」なのではないかと考えれれますから、24.2cmはさらに短いので後漢末から魏初にかけての時代ではないでしょうか。
まあ魏・晋・宋・斉・梁・陳と六朝と総称されますから広い意味では「南朝」でしょうけど。

肥さんへ

「魏尺」の典拠は「正始弩尺」という魏王朝の「正始」という年号いりの兵器「弩(巨大な弓)」に刻まれたものです。
年号は入っているものの魏王朝が正式に制定したものさしかどうかは不明なのだと思います。
まあ年代の方は「正始」という年号入りなので確かそうですが。

肥さんへ

前期難波宮が唐尺で建てられているとはいえませんね。この一例があるだけで反証になっていますから。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

検索したサイトの名前がわかりませんが,
「軍印は南朝尺でできていた」という話題の時載せた一覧表を再掲載しますね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参考・・・【度(長さ) 時代・国別】

時代・国名
単位換算
メートル法

1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=16.95cm

1尺=10寸, 1寸=10分
1尺 =19.1cm
戦国
1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=23.1cm

1引=10丈, 1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=23.1cm

1引=10丈, 1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=23.1cm
三国(魏・呉・蜀)
1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=24.2cm
西晋
1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=24.5cm
東晋・十六國
1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=24.5cm
南北朝
1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
南朝:1尺=24.5cm ★1
北朝:1尺=29.65cm

1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分
1尺=29.6cm

1丈=10尺, 1尺=10寸, 1寸=10分


大尺:1尺=36cm ★2

小尺:1尺=30cm

PS 前に検索したサイトとは違うのですが,
「中国まるごと百科事典~中国の度量衡」というサイトにも「24.2cm」が出ていました。
http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841

【訂正】
15尺は4.374mであるところを、数字74を47と転倒して、4.347mと転記してしまいました。ごめんなさい。『』の部分です。
29.16cm/尺×15尺=437.4cm=4.374mです。

(正)桁行九間:13尺+13尺+14尺+15尺+15.5尺+15尺+14尺+13尺+13尺=125.5尺
(3.7908m+3.7908m+4.0824m+『4.374m』+4.5198m+『4.374m』+4.0824m+3.7908m+3.7908m=36.5958m)

(誤)桁行九間:13尺+13尺+14尺+15尺+15.5尺+15尺+14尺+13尺+13尺=125.5尺
(3.7908m+3.7908m+4.0824m+『4.347m』+4.5198m+『4.347m』+4.0824m+3.7908m+3.7908m=36.5958m)

肥さんへ

中華人民共和国系サイト「中国まるごと百科事典~中国の度量衡」に私のメールアドレスを入れて次の質問コメントを記入しました。返信ないし改良があればいいですが。

>「商尺」は伝安陽出土骨尺の17.00cmがあります。「魏尺」は正始弩尺の24.30cmがあります。
商の時代の1尺=15.8cm、三国(魏・蜀・呉)・西晋の時代の1尺=24.2cmの根拠として現存する遺物を教えてください。
その時代の尺度を証明する現存する「ものさし」の名称とその所在(所蔵博物館名など)、できれば小数点以下2桁までの記載があると助かります。よろしくお願いいたします。

肥さんへ

前期難波宮の内裏前殿が度量衡の世界で「魏尺」と呼ばれている24.3cmの1.2倍を基本単位としてつくられているというのは、私が示したもの以外には必要ないと考えますが、この24.3cm×1.2倍=29.16cmが前掲書籍のような“唐大尺”であるとか、九州王朝が使った尺であるとかいうのは厳密な論証が必要であると考えています。どんな尺度が使われているのかという尺度の問題において、「約」とか「およそ」と論じている話は信じない方がよいと思います。

肥さんへ

さきに書いた「約」とか「およそ」とかの話は信じないほうが良いという意味を説明しておきます。

そもそも「どんな尺度が用いられたか?」という問題は、
どれくらいの長さのものが用いられたか(How many length?)という問題なのではなくて、
どれが(Which scale?)用いられたかを特定する問題なのですから、
「約」とか「およそ」などの答えがでてくること自体がおかしいのです。
どの尺度が使われたかを特定する問題に新しい尺度を想定するというのが従来説の欺瞞だったのです。

たまたま「鐘」「琴」「尺八」について調べていた中で、明土真也氏の論(『法隆寺と正倉院の尺八の音律』)にであいました。この中で「尺」の変遷について書かれていますが、これは『隋書経籍志』に書かれた「尺」についての情報から計算したものであり、参考になると思います。この中では「魏尺」について「魏杜虁(とき)尺」が使用されていたとされ、それが「晋前尺」の「一尺〇寸四分七厘」であって実長としては241.75mmであるとされています。その「晋前尺」の実長は「劉歆銅斛尺」の実長と同じという記述によりそれを精密測定した数字として230.9mmを得たという小泉袈裟勝氏の論(『ものさし』法政大学出版局)によっているようです。24.2cmつまり241.2mmという数字の根拠はこの辺にあるのではないでしょうか。

難波宮に使用されている「尺」に関しては数年前(二〇一二年)に「筑紫都城」に関連して考察したものを投稿したのですが(古田史学会報)、ボツとなってしまっていました。それは今みるといたずらに長く、しかも不完全な論旨であり、薄弱な論理であったため不採用も当然なのですが、しかしその中で「難波宮」の尺は「唐尺」ではない、「29.2cm」という「尺」は他にみられず「唐尺」とはいえないとみて「南朝尺」の1.2倍であると考察した点は当たらずといえども…の世界のようです。
 当時考えたのは(論文の文章では)

「…「大宰府政庁」や「観世音寺」などの「建物」の建設された時期を「難波宮殿」と比較すると、上で見たように「大宰府政庁第Ⅰ期」(筑紫宮殿)は明らかにそれに先行するものであり、また「観世音寺」は「難波宮殿」に「やや遅れる」と推定され、これらについての基準尺が「南朝尺」であるならば、「難波宮殿」においても「営造法式」が適用され、「南朝」の「一尺」が基準寸法として採用されているという可能性が高いものと考えられます。
 この「前期難波宮」が「九州倭国王朝」の副都であったとすると、その建設の主導的役割も「筑紫」の官僚が主体となって行ったものと考えられ、そうであれば使用された「基準尺」が、首都である「筑紫宮殿」に使用されたものと同様ではないとすると、少なからず不審であり、そうであれば「遺跡」の「回廊」部分から求めたとされる「29.2cm」は「唐尺」ではなく、「南朝尺」である「24.5cm」の「1.2倍」の数字なのではないかと考えられるものです。これを「難波宮」の各部の寸法で確認してみると、たとえば、「朱雀門」から「内裏後殿」の背面までの「難波宮の縦方向最大値」で「唐尺」だと「一七五〇尺」ですが、「南朝尺」だと「二一〇〇尺」となります。(以下いずれも尺数としては「概数」です)基本設計としてはその「最大値」としての「幅」と「大きさ」を決める必要があり、敷地の大きさとも言うべき「帯方向」と「横方向」についてはより「完数値」が得られるものと思料され、「南朝尺」であると考える方が整合的であると思料します。
 また、「八角殿院」の一辺は「36.8m」ありますが、これは「唐尺」では「一二六尺」となるのに対して南朝尺で「一五〇尺」となります。また「内裏前殿区画」は東西114.6mであり、これは「唐尺」では「三九二尺」ですが、「南朝尺」では「四七〇尺」となります。さらに、「八角殿院」の最外周の柱位置は「唐尺」だと回廊から「二十五尺」の位置ですが、「南朝尺」であれば「三十尺」となります。これらの数字から考えて、「南朝尺」により「難波宮殿」が作られている「蓋然性」が高いのではないでしょうか。…」

というものでした。このとき考慮した「南朝尺」は単純に245.0mmであり、精密さと時代的変遷を考慮していない点で全く不十分です。今みてみると「南朝尺」としては「宋氏尺」(245.68mm)を想定すべきだし、さらにそれ以前の「魏尺」(魏杜虁(とき)尺)(241.75mm)も想定すべきでした。それらを考慮すると事情はもっと複雑となりますが、少なくとも「29.2cm」という数字を「唐尺」として採用しているのは不審であることは間違いないと思います。

James Macさま

さっそくのご教示まことにありがとうございます。
明土真也氏の論(『法隆寺と正倉院の尺八の音律』)
『隋書経籍志』の史料情報並びに
「魏杜虁(とき)尺」=「晋前尺」×「一尺〇寸四分七厘」=241.75mm
の情報ありがとうございます。
小泉さんの「ものさし」はもっていましたが、もう数年以上目を通していませんでした。
やはり、何度も読み直すことが必要だと実感しました。ありがとうございました。

James Macさま

James Macさまの先行論文(「南朝尺」の1.2倍)を存じあげませんでした。
私がそれを知らずに同じ結論に至ったことを考えると、
James Macさまと私の結論が間違いないという確信を持てました。
ありがとうございます。

申し遅れましたが、南朝尺の1.2倍とすでに見ぬかれていたこと、
流石にちがうなあと改めて思いました。

〉「南朝尺」としては「宋氏尺」(245.68mm)を想定すべきだし、さらにそれ以前の「魏尺」(魏杜虁(とき)尺)(241.75mm)も想定すべき

これについては、多元的「国分寺」研究サークルでの武蔵国分寺跡の検討において、
「魏尺」(魏杜虁(とき)尺、241.75mm)は勿論のこと「宋氏尺」(245.68mm)すらやっておりませんでした。
考えが全くたりませんでした。肥沼さんが24.5cmを挙げてくれていたにも拘わらずでした。恥ずかしいです。
mm単位の小数点2桁の数値、ありがとうございます。

〉少なくとも「29.2cm」という数字を「唐尺」として採用しているのは不審であることは間違いないと思います。

ご賛同ありがとうございます。これもまた「百万の援軍」です。

今後ともよろしくご指導くださるようお願い申し上げます。

読者のみなさんへ

【法隆寺金堂上重高欄の格子文様の呼び名の修正提案】

私は上記の格子文様(TLV文様)を「方格規矩文様」と呼びましたが、
厳密に言えば「規矩文様」と呼ぶべきでした。
漢式鏡のTLV鏡を「方格規矩鏡」と呼んでいるのは、
鏡の鈕(中央にある紐を通す部分)を囲んだ正方形(「方格」)が描かれているからです。
高欄の格子文様はTL(「規矩」)ですから「規矩文様」ということになります。
もちろんこの文様が「方格規矩鏡」にもあることは確かですが、
「どちらが先にあったか?」は「私にはわかりません」と答えるしかありません。

これらを考えあわせると「TLV文様」と呼んでおくのが無難(問題がない)と考えます。

「TLV文様」のほうが外国の方々にもわかりやすいと思いますし、
ガイドさんも「この文様は銅鏡にもあります。」と説明できるでしょうから。

私に命名権があるわけではありませんが、「TLV文様」と呼ぶのが良いと思いました。

読者のみなさんへ

わたしが「尺度マトリックス」と呼んでいるものを説明します。

尺度(ものさしの現物があるもの、“高麗尺”のような想定したものを全て含む)を
縦と横に並べてそれぞれを割り算しているものです(表計算ソフトを使うと便利です)。
こうすると、1.2とか1.25とか0.9とか0.8とかいう尺度同士の比が見えます。

前期難波宮の内裏前殿の尺度とされた“唐大尺”もこの中にいれました。
すると、「魏尺」と1.2という比がみえたわけです。

「どんな尺度が使われたか」という問題は「どの尺度がつかわれたか」なのですから、
現に遺存する「ものさし」の何倍(或いは何分の幾らか)であろうとも、
その基になっている尺度をつきとめることですから、
私はこのような「尺度マトリックス」を用いているわけです。

“高麗尺”のような「最も適合する尺度を新しく創設する」ことは
それがどんなにぴったりと合って遺跡をうまく説明できたとしても、
「どんな尺度がつかわれたか」には全く関係ないものです。

私にいわせれば、それは「児戯」(子供のお遊び)にすぎません。

James Macさま

奈文研の「全国遺跡報告総覧」データベースにある「飛鳥・藤原宮発掘調査概報7」に、造営尺が29.2cmに復原されている遺構が稲淵川西遺跡と前期難波宮跡の2つであるという興味深い記述がありました。

稲淵川西遺跡の調査
(昭和51年12月~昭和52年3月)
この調査は,飛鳥国営公園祝戸地区の駐車場建設に伴う事前調査として実施
したものである。調査地は,坂田寺跡の西方約200m,稲淵川を隔てた水田中
にある。冬野川との合流地点から上流へ約400m のこの付近は,北と西を通称
「フグリ山」の山塊に画され,稲淵川との間に狭い平坦地が南へ伸びている。
〔P.43、中略〕

建物配置と関連して,造営に用いられた基準尺の問題がある。SB004は桁行
15間柱間総長26.40m ,梁行4間柱間総長8.80m の建物であるが,桁行総長を現
尺で換算すると87.120尺となる。これを逆に90尺と仮定すると1尺=0.2933
mという数値がえられる。この数値を梁行総長にあてはめると30尺の完数がえ
られ,同様にSB003とSB004間の距離,SB002とSB004間の距離を換算すると
13尺がえられる。SB001については,前述したように柱間寸法が不明確なため
1尺=0.2933mの数値を検証しえないが,少なくともSB002~ 004の建物には
よく該当する。古代の造営尺については,各遺跡で復原が試みられてぃるが,
一般的に1尺は0.29mより大きい数値を示す。ただそれより小さい数値を示す
一例として前期難波宮跡の諸遺構がある。孝徳朝長柄豊碕宮かとも推測されて
いるこの遺構では,多少のばらつきはあるものの1尺=0.292mの造営尺が復原
されている。本遺跡と前期難波宮跡の2つの遺跡で0.295mより小さい造営尺が
復原できることは,両者の年代が近いことともあいまって興味深い問題といえ
よう。〔P.48〕

これも「魏尺」の1.2倍と考えられるのではないでしょうか。

James Macさま

「晋前尺」とうのは通称「後漢尺」でしたね。光武帝の金印の「方一寸」。

まぼろしの創造古代尺
― 「奈良尺」も無かった ―

“高麗尺(こまじゃく)”はなかったとされている。
“高麗尺”は人によって長さが違う。
明治の建築史家東京帝国大学の関野貞は356.4㎜、法隆寺の解体修理工事報告書を担当した竹島卓一は359.7㎜という(川端俊一郎著『法隆寺のものさし』ミネルヴァ書房、2004年2月25日、P.93 表2-5に依拠した)。
しかし、計量史家の間ではとうに高麗尺は否定されている。小泉袈裟勝の『ものさし』(昭和五二年)は、高麗尺の実物はこれまでひとつも発見されていないこと、またそれが建築に用いられたという「痕跡のない」(七四頁)ことを指摘した。同じく「高麗尺はなかった」としながらも、その代わりに「古韓尺」なるものを想定したのは、新井宏の『まぼろしの古代尺』(平成四年)であるが、その一尺二六九㎜とは、実は一材のことであり、古韓尺が実存するわけではない。(前掲書『法隆寺のものさし』P.93)

“高麗尺”は小泉氏の『ものさし』の指摘通りである。名指しは控えていたが「あやしいのは“高麗尺”だけではない」と言っていたのは新井氏の“古韓尺”のことであった。
私のあやしいといった根拠は、川端氏の「一材」だというものではなく、“古韓尺”は隋の「開皇官尺」・唐尺(296.3㎜)の九割であるというものであった。

私は「尺度相関マトリックス」というものを使って、これらを見出している。
表計算ソフトを使って、あらゆる尺度(実在するもの、しないものを含む)を縦と横に並べ、それぞれの尺度で割った表である。

今回、James Macさんから「宋氏尺」(245.68㎜)のご教示をうけたので、さっそく「尺度相関マトリックス」に入れてみたところ、「奈良尺」(294.85㎜、曲尺10/33cmの0.973倍)は、この「宋氏尺」の1.2倍であった。つまり、「奈良尺」とは「宋氏尺」の1.2倍を基本単位にして使用したものを誤認したのである。前期難波宮内裏前殿の尺度を292㎜前後の“唐大尺”としたことも同じ過ちである。これは「魏尺(正始弩尺)」(243.0㎜)の1.2倍、291.6㎜の誤認なのである。
薬師寺金堂を解体修理した大岡實建築研究所のホームページに次のような記載があった。少し長いが抜粋引用する。
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「最初に建築小委員会で話し合ったとき、まず気のついたことは、上層(一階を慣例にしたがって初層とよび、二階を上層とよぶ)の主要の柱が初層から通っていると考える必要は全然ないということであった。普通の二階造りの構造のように土居盤(柱受けの材)を置いて柱を建てれば二重目の平面の大きさは自由になるということである。更に考えて見れば、永祚元年八月十三日夜の暴風に縁起は「為大風被吹落也」とあり、今昔物語には上層が吹き上げられて講堂の前に落とされ、しかも「片瓦一木不損」と言って薬師三尊の徳をたたえている。これは明らかに一重と二重が別構造であったことを示しているのである。既に昭和初年の論文で「上層だけが吹き上げられたということは、二重二閣であった金堂の構造を暗示しているように思われる」と書いておきながら、二九年の時はそれを忘れて一重目の柱を通したために苦労したのである。特に初層の柱を上に通すと上層の奥行が非常に狭くなって困ったのであるが、上層の平面の大きさが自由になれば形がややとり易くなったが、それでも二重目の奥行は比較的狭く、形をとるのに苦心があった。
さて二重目の柱間寸法が自由になったと言っても、それをきめるのには何等かの基準がほしい。今回実際に復元設計をするに当たって種々検討の結果、柱間寸法の決定には或基準の単位寸法のあることが判った。昭和初年の復原研究のときに初層の裳階柱の本柱からの出は、礎石間の実測からどうしても奈良時代の尺度で六尺二寸五分になる(奈良時代の尺度は最近まで用いられていた曲金より稍縮んでいて薬師寺金堂の場合礎石間を実測して得た寸法から出した平均値は九寸七分三厘位が一尺であった)ところが奈良時代建物の柱間寸法の決定には完数の用いられるのが原則で、端数があっても五寸どまりであるのが一般である。それで裳階の柱間に六尺二寸五分という端数のあるのに不審をいだいたが、昭和初年のときは「やや端数に過ぎる感じがないでもないが、中の間十二・五尺の二分の一と考えると、そう不都合ではない」と書いているが今回の検討で金堂の東西方向(堂は南面する)の中央の三つの柱間が前記のように十二・五尺で、その十分の一の一尺二寸五分という寸法が、単位の基準寸法であることに気がついた。中央の三柱間の両脇各々二柱間は奈良尺の一〇尺で、これは一・二五尺の八倍。(南北方向の四柱間も一〇尺)裳階の出六・二五尺は単位寸法の五倍である。
これによって金堂の平面寸法決定の基本を把握することが出来た。それで二重目の柱間寸法も、この基本によるべきであることは当然である。内陣柱を通したのでは上層が小さくて困ることが既にわかっているのであるから、上層の外側の母屋柱筋は内陣柱筋より外に出さなければならないのは当然で、その出す寸法は基準の一・二五尺の倍数とすべきことも当然である。それで基準寸法の一倍、二倍、三倍という風に、出す寸法を変えた図面を数種類書いて、小委員会で相談した結果一倍の一・二五尺を前後、左右に出した案が最も適当であるとの結論に達した。上層平面の全体の大きさはこれで決定したが、その柱間の数を何間にするかについても何枚か図面を書いて検討し、結局東西方向五間南北方向二間に決定した。」
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このように奈良尺の1.25倍を基本寸法としてつくられているとされている。
つまり、薬師寺金堂は「宋氏尺」(245.68㎜)の1.5倍が基本寸法なのである。

以上のように、わが国で“創造”された古代尺、“高麗尺”、“古韓尺”、さらには不動にみえた「奈良尺」までもがまぼろしとなったのである。

これらの古代尺を“創造”された方々は、私が言っている次の言葉をかみしめてもらいたいものである。

「どんな尺度が使われたのか」という問題は、「どれだけの長さのものが使われたか」という問題ではなく、「存在する尺度のうちのどれが使われたか」という問題なのである。うまく説明できる新しい尺度を“創造”しても「問題に答えたことにならない」のである。

読者の皆さんへ

先の拙論
前期難波宮の内裏前殿の尺度
―見知らぬ“唐大尺”にされた「魏尺」-

において「魏尺」としている部分は、肥さんからの三国時代の尺24.2cm
つまりJames Macさんのご教示による「魏杜虁(とき)尺」241.75mmは、
24.3cmという「魏尺」と極めて近いことから、判別が容易ではないということに
気付きましたのでは留保したいと思います。

また、この「魏尺」か「魏杜虁(とき)尺」かの判断の留保は
まぼろしの創造古代尺
― 「奈良尺」も無かった ―
においても該当する部分は同様です。

ただし、奈良尺は無かったという結論については、
「宋氏尺」との関係であり、影響はありませんので、
その結論は変わりません。

うかつに結論を急いだことをお詫びいたします。

【訂正】
まぼろしの創造古代尺
― 「奈良尺」も無かった ―
において次の誤記がありましたので訂正いたします。
曲尺の単位がcmとなっていた。正しくはmです。

(正)曲尺10/33m
(誤)曲尺10/33cm

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