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2017年3月 7日 (火)

『法隆寺のものさし』

上田市の「信濃国分寺」を訪問し,吉村さんとお話していて,
川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)から学ぶ必要を感じた。

P3072535

川端さんは,法隆寺についての再建・非再建論争にからんで,
その塔の木材が594年に伐採された事実(年輪年代法により,2001年に明らかになる)により,
法隆寺が別のX寺(日本書紀も名前を隠すほど有名だった寺院)を移築したものであると指摘し,
建築のもとになる「ものさし」を,太宰府政庁や観世音寺などと同じ南朝尺とした。

これは九州王朝が中国の南朝の冊封体制のもとにあったから当然のことだったが,
白村江の戦いで敗戦・滅亡すると,それに取って代わった大和政権は唐尺を採用した。
そこで,多元史観の人には「南朝尺と唐尺」が混在しているように理解できるわけだが,
一元史観でしかものを考えられないと,長さの単位の混乱の整理がつかず,
挙句の果て実際には存在しない「高麗尺」という単位まで実在したとする「幻覚」にさらされるのだ。
(実は,私もそうだった(^-^;)

基本的な構造は,以下のようである。
九州王朝が政権を持っていた7世紀末まで・・・南朝尺(1尺=24.5cm)
大和に政権が移った8世紀以降・・・唐尺(1尺=29.7cm)

つまり法隆寺(X寺)は南朝尺によって作られたの建物だったのを,
日本書紀を信じて唐尺(挙句の果てに高麗尺)で作られた建物と考えたので,
いろいろな混乱(再建・非再建論争など)が生じてきたということだ。

しかし,これからは逆にこれを利用することが可能となる。
南朝尺が使われていれば,九州王朝の時代に建てられたもの(国府寺など)
唐尺が使われていれば,大和政権の時代に建られたもの

という理解である。
そのように考えた時,思いついたのが,
もしかしたら「武蔵国分寺」の塔は,南朝尺で建てられたのではないか?
というスタートラインに立った考えだった。以下,別項にて・・・。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

私が尺度にこだわっていたのは度量衡は権力と関係が密接だからでした。
あやしいのは「高麗尺」だけではないことは、以前にもお話しましたよね。
尺度を縦と横にマトリックスに並べてみて、割ってみると整数に近いものが出てきてわかります。

良い本をご紹介いただきありがとうございます。早速注文します。

あ、それと「東山道十五国」の謎を解いたというヨタ話ならぬヨタヨタ話を私のブログに書きました。
東山道に興味がおありだと思いますので、よろしければご覧ください。
法隆寺金堂の高覧文様は卍崩しではなかった、のようなコラム用みたいなものです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

お二人に導いていただきながら,ようやくスタート地点に戻れた気がしています。
こんなに短期間に古代史に集中的に取り組んだのはもちろん初めてで,
頭が痛くなったり,心が苦しくなったり,いろいろ大変でしたが,
「武蔵国分寺」で感じた最初の疑問(スタート地点)に思わぬところから立ち戻れて,
今は清々しい気分です。今日からまた,新たな気持ちで研究を始められそうです。

PS 「東山道十五国」の謎,楽しく読ませていただきました。
東山道は私の「第2のふるさと」だけに,うれしいプレゼントでした。
生きているうちにできそうなことが,まだまだたくさんありそうです。(o^-^o)

肥さんへ

清々しい気分、良かったですね。
『法隆寺のものさし』大手スーパーの系列書店に在庫がなく、版元に一冊だけあったのを注文で確保できました。肥さんのお陰です。ありがとうございました。この本への期待は、わたしの従来からもっていた見解が正しかったことが確認できるかもと、法隆寺金堂高欄の卍崩しではない「方格規矩格子(TLV格子)」がなぜそれ以降使われなくなったのかという問題の手がかりがつかめるかも、というものです。
なにか見つかったらまた報告します。なにせ、法隆寺は九州王朝との関わりが大きいですからね。

肥さんへ

「東山道十五国」早速ご覧いただきありがとうございます。
ところが、訂正が入りまして訂正版を掲載しました。
でも、肥さんはご覧になっているので、訂正箇所だけ、
こちらに載せますね。いちいち見に行かなくてもいいですから。

【東山道十五国】(九州王朝の東山道)
豊前国、長門国、周防国、安芸国、『吉備国』、播磨国、摂津国、山城国、近江国、美濃国、『飛騨国』、信濃国、上野国、下野国、『武蔵国』。
以上が「東山道十五国」です。

〔訂正版の注〕
初版との違いは、『』部分の三国です。備後国、備中国、備前国の三ヶ国を吉備国とし、飛騨国、武蔵国を加えました。飛騨国と武蔵国を加えた理由は、東山道に属するこの二国を落とすと、飛騨国分寺も武蔵国分寺も東山道に関係がない存在になってしまいます。備後国、備中国、備前国の三ヶ国を吉備国とした理由は、数が合わなくなるという理由以上に、三ヶ国の駅の数が他の国の駅の数と比べると極端に少なく不自然であり、吉備国としてまとめると自然な数になるというものです。この十五国の構成を訂正したのは、私が依拠した仮説を提示された西村秀己さんが、このブログをご覧になって、次の点をご指摘・ご教示くださったことがきっかけです。

《西村秀己さんのご指摘・ご教示(私が要点式とし、〔〕内が私の判断)》
(1)吉備3国の並び(前中後)がヤマト視点。倭国時代、吉備は一国だった可能性あり。
〔確かに。九州からみれば、備後国のほうが先で、備前国は備後国だったはず。この三国の並び方はヤマト側が名付けたものだと言えるので、倭国時代吉備は一国というのは大いにあり得る。〕
(2)東山道に本来含まれていた飛騨国と武蔵国が抜けている。
〔確かに。飛騨国分寺も武蔵国分寺も東山道に無関係になってしまっている。〕
(3)各国の駅の数は、摂津5、播磨9(元は11)、備前4、備中4、備後3、(吉備は合計でも11)、安芸13、周防8(元は9)、長門5。
〔(1)と合わせて考えると、吉備は一国であったと考えた方が自然である。〕

以上のように、ご指摘・ご教示を私が検討して、考えが至らなかったと反省した結果、訂正に至ったものです。この訂正によって間違っていることになってもその責任は私にあります。私が訂正すべきと考えて行ったのだからです。もし、この改訂によって正解にたどり着いたならば、それは西村秀己さんのご指摘・ご教示のおかげです。

この記事とコメントを多元的「国分寺」研究サークルに移動します。
肥さん

肥さんへ

「東山道十五国」を巡る、ある大学教授と中学生の問答です。

教授「この東山道十五国というのは東国を意味しているんだよ。」

中学生「先生、東国を意味しているのなら、なぜ東国と書かずに東山道十五国と書いたんですか?」

教授「・・・・」

大学の教授ともあろうお方が中学生に質問されて窮するようなことを話されてるというのが不思議です。
それとも専門家でその道の権威になられると中学生以下のことを話しても認められるのでしょうか?
そんなことを言うこと自体恥ずかしいですよね、普通の感覚では。「不明です。」とすればいいものを。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

板倉聖宣さんもおっしゃっていますが,
プロ(職業研究者)ができない部分というのが
我々アマチュアの活躍できる場所ではないでしょうか?
「どうして?」「なぜ?」という中学生の直感を
いつでも忘れないでいたいです。

肥さんへ

》「どうして?」「なぜ?」という中学生の直感を
》いつまでも忘れないでいたいです。

全くその通りですね。

私が思うに、アマチュアの最大の強みは、
「出世」や「職を失う」などの心配はない、
というものだと思います。

一元史観の方々はこれに絡み取られていると思います。
「原発村」ならぬ「一元史観村」の住人ですから、大変でしょう。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』だったと思いますが,
「中学生でもわかる論理展開」をしていくということは,
私が中学生を相手に教えていることもあって,
割とすぐに受け入れられました。

なので,授業プラン〈「邪馬台国」はどこだ!〉は,
1992年の作成です。もう25年も経ってしまいました。
(「邪馬台国」のありかを,考古出土物から推理していきます。
古田さんの論理展開と仮説実験授業を結びつけました)

肥さんへ

そうですね。
文献の記録(利害関係を持たない海外の史書)と考古学的出土物が一致しているということが何よりの証拠ですね。
一元史観はこれとは異なり、出土物を『日本書紀』や『続日本紀』の“正史”(お手盛り史書)で無理やり解釈する。
全く正反対で、地動説と天動説です。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

なるほど,天動説と地動説ですか。
その通りですね。

川端さんの本は判りやすいのですが、太宰府政庁とか観世音寺の尺度が南朝尺であることの確認がとれません。困っています。

上城さんへ
コメントありがとうございます。

〉 太宰府政庁とか観世音寺の尺度が南朝尺であることの確認がとれません。困っています。

そうなんですか。それは困りますね。

肥さんへ

『法隆寺のものさし』を読んで、法興寺、元興寺、法隆寺の関係を調べ始めたのですが、通説は次のようでした。

「元興寺」は「法興寺」と同寺院で、「法興寺」は「飛鳥寺」とも称した。「法興寺」は移設された平城京では「元興寺」と呼ばれ、飛鳥の「元興寺」は「本元興寺」と呼ばれた。

なんか、やりたい放題ですよね。名前が違えば別人と考えるのが普通ですよね。別名を持つ人がいるのも事実ですが。
二つの名を持つ寺院がある理由の一つが、次が天武の詔勅(抜粋)です。

「(天武)八年(六七九年)四月・・・・
夏四月辛亥朔乙卯。詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」

「定めた」というのは「権力によって(無理やり)変更した」という意味です。
寺院は天武天皇が名前を変更した(寺院側からいえば変えさせられた)ので二つの名があっても良いかもしれませんが、三つも四つもというのは普通ではありません。これらは説明がつかなくなると「同じ寺院である」という禁じ手を行使した結果です。

古田史学では、別の名前であれば別のものと考えるのが基本で、「同じ」という場合には厳密な論証が必要ですよね。
一元史観では、都合の良いように解釈してつじつまを合わせる、という常套手段がとられているようです。

中学生だって通説の説明を聞けば「なんじゃ、こりゃ~」(松田優作風に)というでしょう。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 「(天武)八年(六七九年)四月・・・・
夏四月辛亥朔乙卯。詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」

「六七九年四月」が正しいとすれば,筑紫大地震(前年の12月)から4か月後ということで,
それに乗じた措置ということも考えられるかもしれませんね。

肥さんへ

なるほど~!
筑紫大地震との関連を考えるとは。流石!肥さんです。
ほめたからといっても、座布団は既に10枚あるので、ご勘弁をm(..)m

しまった!

座布団を返すチャンスを逃した!
チャンス君は前髪しかなく、後ろ髪はつかめないそうです。
チャンス君は英国人ではなくて、お隣の国の人の名前のように聞こえます。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

移築や名称変更は,大地震という「非常時」こそふさわしいと思うのです。
しかも移築先の寺の伽藍配置を変えたり(法隆寺),似て非なる名称の使用(元興寺・法興寺)など,
かなり手も込んでいたのではないでしょうか。

肥さんへ

》移築や名称変更は,大地震という「非常時」こそふさわしいと思うのです。

たしかに!どさくさまぎれにというか、火事場泥棒的にというか、そんな感じですね。
世の中の人が、寺の名前どころではない非常時状態なら、抵抗感がなく容易にできると。
となると、確信犯というかかなり悪質ということになりますね、天武朝は。
思い返せば天武天皇というお方はあまり良いイメージがないですよね。
諸家の持っている歴史書を全部出させて「削偽定実」と言って歴史を改竄したりしてて。
なにかよほど都合の悪いことがあったのではないかと勘ぐりたくなるような・・・。
まあ、「下司の勘ぐり」と言われればそれまでのことですけれども。

肥さんへ

以前に、多元的「国分寺」研究サークルのブログに次のようなコラム記事を書きました。

法隆寺金堂高欄格子の文様は「卍崩し」ではなかった
―法隆寺に見る漢式鏡の文様―

このとき、なぜ法隆寺以降ではこの「卍崩し」(実は「方格規矩」)という文様が使われなかったのかが不明だと言いました。
その後もこの問題は心に引っかかっていました。

最近、肥さんから『法隆寺のものさし』をいう書籍を紹介され、読んで考えているうちに、あることに気が付きました。
「方格規矩鏡」、別名「TLV鏡(英語Bronze mirror with TLV pattern)」というのは「漢式鏡」なのです。
「漢」とは「漢民族」の建てた王朝なのであり、「南朝」の先行王朝であって、「北朝」には無関係なのです。

隋によって南朝が滅ぼされてしまったので隋・唐も中国王朝として扱われていますが、漢民族にすれば異民族王朝なのです。
つまり、北朝にすれば「漢式鏡」というのは南朝のものであり、北朝の伝統とは無関係なのです。
北朝がこの「方格規矩文様格子」を使うはずがないのです。

隋以降の時代、そしてわが国が隋や唐と親密な時代に、この漢式鏡の南朝の文様「方格規矩文様」が使われるはずがありません。
よって、この法隆寺金堂上重の高欄格子の文様は南朝の文様であり、法隆寺が南朝系寺院である証拠なのです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

「削偽定実」という言葉を初めて聞いたフツーの中学生は,
「偽りを削り,真実を決定した」天武天皇はえらい人だと思うかもしれません。
ところが多元的な古代史研究を進めていくと,
「何が偽りで,何が真実なのかは,俺が決定めるのだ」
という意味で「定」が使われていることがわかり,
結局「天武天皇に都合がいい史実」が「真実」であり,
そうでないものが「偽り」ということがわかってくるわけです。
“極端な主張には,ご用心”という歴史研究の経験則がそこにあります。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 最近、肥さんから『法隆寺のものさし』をいう書籍を紹介され、読んで考えているうちに、あることに気が付きました。
「方格規矩鏡」、別名「TLV鏡(英語Bronze mirror with TLV pattern)」というのは「漢式鏡」なのです。
「漢」とは「漢民族」の建てた王朝なのであり、「南朝」の先行王朝であって、「北朝」には無関係なのです。

なるほどなるほど,漢民族・漢式鏡・TLV鏡~「南朝」の文様≠「北朝」の文様というわけですね。

〉 隋によって南朝が滅ぼされてしまったので隋・唐も中国王朝として扱われていますが、漢民族にすれば異民族王朝
なのです。つまり、北朝にすれば「漢式鏡」というのは南朝のものであり、北朝の伝統とは無関係なのです。
北朝がこの「方格規矩文様格子」を使うはずがないのです。隋以降の時代、そしてわが国が隋や唐と親密な時代に、
この漢式鏡の南朝の文様「方格規矩文様」が使われるはずがありません。
よって、この法隆寺金堂上重の高欄格子の文様は南朝の文様であり、法隆寺が南朝系寺院である証拠なのです。

なるほど,「なぜ法隆寺以降ではこの「卍崩し」(実は「方格規矩」)という文様が使われなかったのか」という謎が
別な方向から解けたというわけですね。
私たちは中国というと漢民族の国と思いこんでいますが,実は多民族国家の最たるものの1つで,
何回も他民族の支配を受けてきたということを忘れがちですね。

PS 座布団5枚引き受けさせていただきます。我が家もあまり広くないので・・・。

肥さんへ

》私たちは中国というと漢民族の国と思いこんでいますが,実は多民族国家の最たるものの1つ

その通りですね。中国の戸籍欄には「民族」という項目があることでも多民族国家であることがわかります。
日本国の場合には、「民族」という項目はありませんよね。これも「一つの民族」というフィクション(虚構)なのです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 日本国の場合には、「民族」という項目はありませんよね。
これも「一つの民族」というフィクション(虚構)なのです。

なるほど,なるほど。
吉本隆明の著作に『共同幻想論』というのがありますが,
これもそのうちの1つかもしれませんね。

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