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2017年3月 5日 (日)

「信濃国分寺」訪問記

昨日の午前中,Yさん(もう吉村さんでいいでしょう)に案内をお願いして,
「信濃国分寺」を訪問してきた。

午前9時過ぎ,上田駅前のコーヒー店で打ち合わせ。
村上和夫著『瓦当文様の謎を追って』(岩波ブックサ-ビスセンター,1990年)の中に入っている
「信濃国分寺址出土の蕨手文鐙瓦の研究」という論文に,興味深いことが書かれていたそうだ。

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長野県坂城町の土井の入瓦窯址で焼かれ,
込山廃寺で出土した「蕨手紋」の瓦と同じものが,
国分尼寺から出土しているのだが,
込山廃寺の場合礎石配置が3.10m離れているように,
国分尼寺のそれも3.10mなのだ。
実はこの長さは,九州王朝の使用した「南朝尺」にとってふさわしいもので,
(それまで尼寺は僧寺をサイズダウンしたものとされていたようだ)
それを導入すると,以下の疑問が氷解するというのだ。

吉村さんのお話とお手紙をまとめると,次のようになる。

(1) 中心線が2度異なっている(東偏3度と東偏5度)
(2) 僧寺と尼寺が近すぎる距離(40m)である
(3) それなのに両者の間に通路がない
(4) 瓦窯の位置が不自然である(尼寺は近く,僧寺は遠い)
(5) 出土した瓦は尼寺の方が古い
(6) 雨落溝の造作が,僧寺より尼寺の方が立派

本来国府寺として建てられたものを,
「国分尼寺」として活用したのではないか・・・。
あなたはどう思いますか?(文責は,肥沼)

※ 参考文献 川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)

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12時38分の新幹線に乗り,私は高崎サークルへと向かったのでありました。
吉村さん,ご案内ありがとうございました!m●m

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

吉村さん 肥沼さんへ

信濃国分寺訪問おつかれさまでした。
吉村さんのお説、私の抱いていた次の疑問を見事に解決してくれました。

Q1.しなの鉄道が僧寺・尼寺を横切っている。
これは現代の鉄道が信濃国分二寺より新しいものだから当然だ。
ならば、東山道が直線で尼寺の南西隅を横切っているのに、
尼寺中門を過ぎた辺りから僧寺を避けるように曲がっているのはなぜだろうか?
尼寺よりこの東山道が新しく、僧寺よりこの東山道が新しいのではないのか?
尼寺、僧寺、この東山道のそれぞれの時期がことなるのではないだろうか?
すくなくとも、この東山道をつくったとき、僧寺は生きていて尼寺は死んでいたと考えないと説明がつかない。
(ただし、尼寺中門は推定位置。古い東山道はもっと南にあったとされているようなのだが…)

Q2.中門からでた廻廊が金堂を取り囲み講堂に取り付く形は、
「金堂院」という形態で僧寺も尼寺も共通しているのだが、
次の二点が異なるのはなぜだろう?造営された時期が異なるのではないか?
①廻廊の縦横比。僧寺≒1.15:1、尼寺≒1.5:1(3:2)。
②金堂の位置(中門金堂距離/廻廊南北幅)。
僧寺≒0.53(少し北辺寄り)、尼寺≒0.39(中門にかなり寄っている)

吉村さんへ
信濃国分尼寺が「国府寺」であったかどうかはまだ検討していませんが、
私は尼寺とされているなかに国府寺を転用したものがあると考えており、
従来説より良く説明できる吉村さんの説は有力だと考えます。
ずっと抱えていた疑問を解決していただき、ありがとうございました。

吉村さんのご見解。信濃国分尼寺は本来国府寺であったものを転用した。
この説への疑問。
1:ということはこの寺には本来塔はなかったのだろうか?
2:国府寺はもともと一つだったのだろうか? 私は国府寺は僧寺尼寺の二つセットだったと思う。根拠は「続日本紀」冒頭の方に、観世音寺と筑紫尼寺などの寺封を停止するとの記事があって、この観世音寺は筑紫観世音寺と呼ばれるのだから、九州王朝時代の国府寺の僧寺の中心的寺院。そして筑紫尼寺が国府寺尼寺の中心的寺院と考えるからです。
3:国分寺の瓦を造った窯が、尼寺の方に近いことがどうして不自然なのか。僧寺に近くなくてはおかしいのか。そう考える根拠は如何に?
4:伽藍中軸線の傾きが異なることは造営時期が異なることを示しているに過ぎない。数十年以内の年数離れて二つ作られたと考えてはいけないのか。建設主体が同じであっても。
5:僧寺と尼寺が近接していてはいけないのか。二つの寺の南門の距離は200mほどあると思う。僧寺と尼寺が離れていなければいけないという根拠は何か。思い込みにすぎないのではないか。
6:出土した瓦は尼寺の方が古い(たしか金堂名の主要伽藍の基壇の作り方も尼寺の方古い)からこれが国府寺だと。尼寺ではないと。では国府寺でも国分寺でも尼寺が先に作られてはおかしいのか。そう考える根拠は何か。
7:尼寺の方が造作が豪華であってはいけないのか?単に造営時期の違いではないのか。

 以上の疑問から吉村説はあまりに雑だと思います。

信濃国分寺・尼寺のように、中門から出た回廊が金堂を囲み、その北の講堂に取り付く形の寺院。古いのを見つけました。それは藤原京の条坊内にある、紀寺(小山廃寺)。この寺はまさにその形で、金堂の東南に塔があったのではないかと推定されている。そしてこの寺は紀氏の寺ではなく、百済大寺を廃して(その寺籍だけを藤原京内にうつした)高市大寺ではないかと近年推定され、それが大官大寺と改称。しかし大きな伽藍でなかったので、別途のちに大官大寺を建立したと最近は考えられています。したがって建立年代は天武朝期。7世紀後半770年代。
 詳しくは以下の論文を参照。
 1:大和紀寺(小山廃寺)の性格と造営氏族
 http://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/11/18/11_18_93/_pdf

 2:古代寺院研究上の問題点 森郁夫
 http://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/25/025_zuisou_a.pdf

 したがって信濃国分寺はこの小山廃寺跡と同型の古い寺院である国府寺を、塔を回廊の外に移して改造したもの。尼寺は、国府寺尼寺をそのまま転用したものだと考えます。瓦は尼寺の方が古く僧寺の方が新しいのは、尼寺は古い寺院を転用、僧寺は改造に伴ってあちこち改築したからとも。そして僧寺改築は尼寺造営時期よりもずっとあとで財政難から、造作が雑駁になったとも。
 いかがでしょう。

さらに信濃国分寺の創建年代について興味深い説があります。
 3:国分尼寺の造営課程に関する基礎的考察
 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/19773/1/%E5%8F%B2%E5%AD%A660_3_%E6%A2%B6%E5%8E%9F.pdf

かなり後になってのもの、767年神護景雲元年以後とのこと。そして塔の大きさが基壇も塔身も小さいので五重塔ではないかとも。

 さららに山田さんご指摘の東山道の件ですが、発掘報告書に推定東山道の位置について興味深い説明がありました。
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/138

 二つの東山道が考えられているがどちらも推定値であって確かめられていないと。

※肥沼さんへ
 現地報告であっても、国分寺研究に関するものは、多元的国分寺研究グループのサイトに掲載した方が良いと思います。どうしてもコメントで議論を展開してしまいますから。二つのブログの内容を別にしたほうが良いと思います。

川瀬さんへ

>発掘報告書に推定東山道の位置について興味深い説明がありました。
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/138

 二つの東山道が考えられているがどちらも推定値であって確かめられていないと。

なるほど、大変興味深い説明ですね。推定した「東山道」が信濃国分尼寺を削って、
僧寺の西南隅を削る前に行き止まりで消えたか、急角度で曲がったと。
そう考えることも可能です。なんせ、全面発掘されたわけではないですから。
この道が「東山道」であったかどうかで私の疑問が解けるわけではなく、
吉村さんの「雑な」説明で解けました、まあ私の頭が「雑」なのかもしれませんね。

※ この項は「多元的「国分寺」研究サークル」に移動します。
これ以降は,そちらにコメントをお願いいたします。

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