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2017年3月26日 (日)

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』

上記の本(古田史学の会編・明石書店刊)がついに出版された。
「古代に真実を求めて・古田史学論集・第二十集」も兼ねる書籍である。
いわゆる「九州年号」と呼ばれるやつだが,
これまでの『市民の古代(第十集)』はすでに入手困難なので,
『九州年号の研究』(ミネルヴァ書房)と共に,
古田史学の会の編集で公刊される運びとなった。

P3250088

Ⅰ倭国(九州)年号とは
Ⅱ次々と発見される「倭国年号」史料とその研究

の大きく2つの章からなり,資料が巻末にある。
(「二中歴」「海東諸国紀」「続日本紀」を収録)

全体として簡潔でわかりやすくまとめられており,
18の論文と15のコラムから構成されている。

巻頭言の古賀さんの文章にも出て来るが,
「本書中,出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による
「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新た概念である。・・・」とのこと。
九州年号についてすでに興味をお持ちの方も,
新たな気持ちで読んでいただけるのではないか。
そういう意味で「九州年号」と言わずに「倭国年号」とし,
《大和朝廷以前》という「逆の押さえ」も効かせたものか。

倭国年号(九州年号)は多少異説はあるが,6世紀初頭~7世紀末にかけて,
だいたい以下のような流れで定められたものと言っていいだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

九州王朝説を支える有力な証拠の1つが,
517~700年の183年にわたって
連綿と続いていた31個の九州年号である。
それを紹介しておこう。

継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆
大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)

日本書紀によると,年号は大化(645)から始まり,
飛び石的に白雉や朱鳥があり,大宝(701)につながるというのだが,
およそ年号というものは「すき間なく続いている」ことに意義があるのであり,
それでこそ年代のモノサシ足りうるのだ。
その点,日本書紀に出てくる3つの年号は,そもそも「年号」としてのテイをなしていないのである。

また,当時朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の国々がそれぞれの年号を持ち,誇っていた。
倭国が年号を持っていておかしいことはないし,むしろその支配権を中国に認めてもらおうとした倭国が
逆に年号を持つことを遠慮していたとしたら,その方が当時の「アジアの常識」としておかしいのだ。

いくつかの年号にふれておく。
全体として「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」など仏教の影響が色濃く出ている。
この年号を定めた王朝は深く仏教に帰依していたものと思われる。
(九州の仏教受容年代はかなり早い時期のようである)

また,白鳳が23年間と圧倒的に長い。
その前半の白村江の戦いでの敗戦を受け,
長く改元することもままならなかった王朝の事情が表わされているのではないか。
(実際「薩夜馬」と呼ばれる九州のリーダーが捕虜になっており,後に送還されてきている)

江戸時代,九州年号については「邪馬台国」論争とともによく議論されたらしい。
しかし,明治時代になりこれらの年号は私年号として葬りさられてしまった。
その九州年号を発掘し,歴史の光を当てたのが,古田武彦氏と彼を支持する市民の人たちだったのだ。

九州年号についての最新の研究を「新古代学の扉」というサイト(古田史学の会)で見ることができる。
興味のある方はぜひのぞいて見てほしい。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

またまた思いつきです。
「年号『白鳳』の論証」です。先のは「国号『日本』の論証」でした。

年号に手を付けられなかった白江戦(敗戦)以降の白鳳年間、倭国は唐の統制下にあった。
これが「年号『白鳳』の論証」です。
そんなの知ってらい!と思いますか?
実は、意外に意味深なのです。

新羅は独自年号をもっていたけど撤回した(暦はそれ以前から唐のものを行用)。
倭国は白江戦に完敗したが完全に唐の支配下には入らなかった。
なぜなら、倭国天子は存命していたが捕囚となっていたので改元できなかった。
しかし、年号「白鳳」は使用し続けた。
もし、完全に唐の支配下になっていたのなら新羅のように唐の年号を用いたはず。

もう一つ、近江朝による改元(建元ではない)もあった。
近江朝は「改元」したということから「倭国」を継承したとしている。
近江朝年号を建元とすることができるか?
もし近江朝が建国したと仮定すれば、国号は何としたというのか?
近江朝が国号を「日本」として建国したとすると、
小国「日本国」が「倭国」の領土を合わせたという『旧唐書』を否定することになる。
それよりなにより、近江朝は滅んでしまうのだから、成り立つわけがない。
『旧唐書』を否定するするなら、『旧唐書』が誤っていたと論証しなければならない。

『二中歴』が倭国年号(九州年号)として「白鳳」を採っている。
このことから『二中歴』の編者は「倭国」が近江朝に継承されたという見解ではなく、
近江朝「倭国」とは別に白鳳「(正統)倭国」が存続していたという見解なのだろう(二朝併存)。
もし、近江朝「倭国」を正統としたなら近江朝年号「中元」「果安」などを採ったであろう。
『二中歴』にしたがうのであれば、太宰府に唐が進駐したときも、
近江朝「倭国」とは別に、「(正統)倭国」が存在していたとせねばなるまい。
近江朝の「(継承)倭国」と「(正統)倭国」があったことになる。

それはそれでよしとするが、そうだとすれば藤原朝(天武・持統)が問題になる。
近江朝の「(継承)倭国」を打倒して藤原朝(天武・持統)となった。
この朝廷は国号や年号をもたなかったのか、という問題が生じる。
藤原朝(天武・持統)は国号も年号も持たない朝廷なのだろうか。

いくらなんでも国号ももたない朝廷というのは考えられない。
矛盾のないのは藤原朝(天武・持統)を『日本』と考えることであろう。
年号はどうか?「(正統)倭国」が存在したと考えるしかないであろう。

「日本」を建国したとしても年号は「白鳳」のままなのであるから、
藤原朝は「(白鳳と改元した正統)倭国」の臣下と考えるしかない。
現に持統天皇の譲位日(文武天皇の即位日)は元嘉暦の八月一日(乙丑)である。

八月乙丑朔、天皇定策禁中、禪天皇位於皇太子(岩波 日本古典文学大系68『日本書紀 下』巻第卅)。

倭国の暦(「元嘉暦」)を使っている(正朔を奉じている)のは「倭国」の臣下である。
これは「『元嘉暦』の論証」です。

倭国残党近江朝を打倒した親唐路線の藤原朝「日本国」も「倭国」の臣下(配下)であったのです。

①白江戦の完敗後も、近江朝とは別に、倭国は存続した。
②壬申の乱で近江朝を倒した藤原朝が「日本」を国号とした。
③藤原朝は倭国の臣下であった。
④この当時、改元できない倭国は唐の統制下にあった。
⑤この当時、倭国・(その臣下)日本国は親唐路線であった。

天武天皇は「大皇弟」と呼ばれている。「皇」のつくそれも「大」がつく方の弟だったのでしょう。
あるいは、「皇」のつく方の弟で一番年上だったかもしれません。
少なくとも身分は天智天皇とひけをとらない、むしろ上回る身分の者だあったでしょう。
この身分は天智天皇と比べて年上だ年下だに関係ないものでしょう。
妄想を言えば「(正統)倭国」の「皇」のつくお方の弟だったと考えるのが穏当です。
従来説(『書紀』のうけうり)は「大皇弟」=「(天智)天皇弟」と一本棒を足して(「大」→「天」)済ませた。
なぜなら、『書紀』に弟だと書いてあるからです。それだけを読めばそうでしょう。
これを天智天皇の弟にするかえたのが『日本書紀』のフィクションです。
しかし「年号『白鳳』の論証」がありますから、この当時「(正統)倭国」は唐の支配下にあったのです。

さて、ここで問題です。
『三国史記』新羅本紀に引かれた、倭国と日本国とを画す一線「六七〇年」(これは「国号『日本』のONライン」と呼びましょうか)の翌年に唐から(唐の政策の駒として)返された薩夜麻(捕囚となっていた倭国天子)はどこにあてはまるでしょうか?

山田さんへ
コメントありがとうございます。

今回入手した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』には,
正木裕さんの「近江年号」について数十ページが割かれています。
もしかしたら,そこに今回の山田さんの問題の答えがあるような気がします。

肥さんへ

ありがとう。まだ到着してませんが、月曜につくと思います。
読んでみます。

肥さんへ

本日、論集第二十集が午前中に届きました。午後書斎(ファーストフード店)で読む予定です。

会員番号順に送られることと、遠距離であることで遅くなるのだと思います。急いではいませんので、気になりません。

肥さんへ

わかったことだけでは面白くないので、わからないということも書こうとおもいます。
ー「太宰府」の謎ー
「太宰府」という呼び名の謎です。
「太宰(たいさい)」というのは、天子ではなく天子を補佐する役職、今でいえば内閣総理大臣で、その行政府が「太宰府」、今でいえば内閣府だと思うのですが、普通は天子の居所の地名をつけた○○宮、○○京などというではありませんか。帝都らしい名称ではない感じがするのです。帝都らしくないのは「都督府」などという名称にも感じられますよね。だとすれば、太宰府は帝都ではないのではないか、という疑問があるのです。名称だけからですが。どなたか説明していただけるとありがたいです。これは、ヤマトの「大宰府」のことではありません。倭国(九州王朝)の「太宰府」のことです。

正木裕さんの
「近江朝年号」の研究
の読後感想文


ほとんどが納得できるものでしたが、薩夜麻の帰国理由を巡ってうなずくことができない点がありました。

まず、「3.臣従した夷蛮の王は「都督」に任命され「都督府」に帰還する」という節において、百済、高句麗、新羅での例を掲げたうえで、
〉薩夜麻が他国同様「都督」に任命されたとすれば…(中略)…「筑紫都督」として送り返されてきたと考えるのが合理的だ。
とされている点です。

「とすれば」と仮定法で書かれたうえで「と考えるのが合理的だ」とされてらっしゃるので、仮定を前提とされているものに対して何とも論じられませんが、ひとつだけ申し上げれば、その仮定を成り立たせるためには、他国同様に倭国に「薩夜麻を都督として置いた」と書かれていないことの合理的説明がなされるべきではないかと考えます。他国がそう書かれていることをあげて、「倭国が書かれていない」ことを論じないのは片手落ちではないでしょうか。私は「倭国が書かれていない」のは「倭国に薩夜麻を都督として置いた事実はなかった」ので書いてないのだろうと考えました。つまり、「同様に書いてないのは同様ではない事実の反映」と考えたのです。「書いてないけど他国はそうだったからそうだろう」と考えるよりは多少記録寄りではないでしょうか?五十歩百歩でしょうか?古田先生はどちらをとるでしょうか、気になります。

ああも言えればこうも言えることなので、こうも言えるを言ってみます。

》「薩夜麻を都督として置いたと書ける事実はなかった」と仮定すれば、薩夜麻はその状況を打開するために送り返されてきたと考えるのが合理的だ。
このようにも考えられるのではないでしょうか。

次に「都督府」です。

〉都督の役所(府)は「都督府」だが『書紀』では天智六年(六六七)にこれが見える。

唐が直轄統治(つまり都督府型統治)を行おうとしたことは、唐の占領目的が唐の一部とすることだったのですから、これは確かなことだと考えられます。実際にそれが設置されたと考えていいのかもしれません。
では、『書紀』に薩夜麻の帰国記事で「大宰府」(「太宰府」ではない)と書いてあり、天智六年(六六七)に「筑紫都督府」と書いてあるということから、薩夜麻が筑紫都督として送り返されたと言えるのでしょうか。私には論理的にそうなるとは考えられません。もちろん推測ですからしかたがないことではあります。とすれば、筑紫都督府は「白江戦(白村江戦)」の直後(薩夜麻の帰国以前)に設置されていて、そこに薩夜麻が返されたという理解も可能だということになります。薩夜麻が「筑紫都督」として返されたとは断言できないということです。

ではどのように考えるのか。次のように考えます。
》この筑紫都督府は薩夜麻の帰国によって解消された。薩夜麻の下に「(滅亡した)倭国」を傀儡政権として「復活」させるためであった。

直轄領の中に「倭国」を復活させることはできません。また、「倭国」を復活させたとしても薩夜麻を元のような改元できる「天子」には戻せません。天子はこの世に唐の天子一人なのですから。「倭国」はもとからあったのですし、年号「白鳳」の継続は唐も目的達成のためには妥協するべき点でしょう。「白鳳」を継続しないと「復活した倭国」にはなれませんから、やむをえません。このように「白鳳」は継続することしかできない年号となったといえます。
もし、薩夜麻が「筑紫都督」であるなら、倭国内は唐の「麟徳甲子元暦」(六六五~七二八)を使っていたはずです。「日本国」の年号「大宝」を建元した文武天皇の即位日(厳密には持統天皇の譲位日、697年「八月乙丑朔」)も「元嘉暦」で書かれているのですから、そのような事実はなかったと考えるしかありません。

薩夜麻とともに大軍を送った記事があるのは、薩夜麻が確固たる勢力として政権を樹立するために必要であったからではないでしょうか。捕囚となって唐に屈従した元天子(すでに「近江朝」が存在します)が、国内で唐に対して抵抗運動を行っている最中に、身柄一つで唐の抑留から帰ってきた、大義名分のない元天子に何ができるというのでしょう。薩夜麻にも国内勢力を恫喝できる程度の手勢は必要なのです。「力の無い者には結集しない」のが政治的処世術です。


私は、直轄統治(つまり都督府型統治)が失敗に終わったから、政策転換によって筑紫都督府は無くなったと考えるのです。筑紫都督府は薩夜麻傀儡倭国とは入れ替わりになる、つまり、唐はこの直轄統治(都督府型統治)策に失敗した責任者(責任者が悪かったのかどうかは別の話として)を処分し、親唐政権の樹立という次善の策に政策を転換した。これが薩夜麻の帰国策となったと考えているのです。これが筑紫都督府の消滅理由です。

薩夜麻が筑紫都督として帰国したという説では、この筑紫都督府はいついかなる理由でなくなったのでしょうか。その説明に苦慮するのではありませんか?

薩夜麻を帰国させた目的は、薩夜麻による都督府型統治を失敗させた反唐勢力の掃討です。都督府型の直接統治が失敗した原因は、近江朝という倭国残党の指導のもとに外国軍の占領統治を快く思わない人々が結集して唐に抵抗したからと考えます。唐としては自ら掃討戦を行えば「泥沼化」するか勝利してもその後の統治に支障がでる(懐柔が困難になる)と考えたのでしょう。それを避けるのが薩夜麻を使って「内戦」という形で掃討戦を行うという方策だったと考えるのです。

薩夜麻の帰国を巡る(今のところ)二つの説(「筑紫都督説」と「傀儡倭国説」)この二者の考え方の違いとは、「戦後の安定した統治を目指した」と考えている説と、「内戦」を偽装するために薩夜麻を返したとする説の違いだと考えます。

どちらの説にその証拠があるわけでもないのですが、どちらの説がその後の経過をふくめて良く説明できているかというのが判定基準となるでしょう。

前者なら筑紫都督府が近江朝を倒したということになり、筑紫都督府と薩夜麻はどこに消えたのかという問題がでるでしょう。
後者なら、親唐政権の樹立という目的が達せられたので唐は満足ということになります。その後の政権が「遣唐使」を唐にせっせと送って恭順の意を示し続けていることも説明できます。
前者では、日本列島は唐の一部となっていなければおかしいと考えます。唐・新羅戦争のどさくさまぎれに日本国を建国したとするか、あるいは唐の善意で国を返してもらったとするのでしょうか。どちらも不審な解釈となります。

以上、薩夜麻の帰国理由をめぐっての疑問でした。
私が一番疑問に感じたところは、百済、高句麗、新羅での例を掲げたうえで、次のように導く論法でした。

〉これらの例から見て、筑紫君薩夜麻も、彼らと同様に、「都督」として帰国したことが十分推測される。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

「会員番号順」や「遠距離」という条件があるとしても,
ずいぶん時間が掛かるものですね。

肥さんへ

発送する日が違うんです、たぶん。いっぺんに送れませんから。梱包してラベルを貼ったりして、手作業だから、多くは送れないでしょうね。

肥さんへ

―太宰府の謎―
うっかりしてました。
太宰府には〇〇宮がありました。
天満宮、これって神宮ではなく宮殿だったってこと?
ということならここは天満京。
でもここではなく紫宸殿というのがあったような・・・
やっぱりこの名称は・・・わからない。
なぜ帝都が行政府の名称なんだろう?


この夢ブログに正木裕さんの論文に対して読後感想文をコメント記載しました。
以下は私が自分のブログに載せた読後感想文の前文です。
私の気持ちを誤解されないように夢ブログにも記しておきます。
…………………………………………………………………………………………
「玉に瑕」の正木論文 ー 「近江朝年号」の研究 ー

古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店、二〇一七年三月二十五日)が届いた。

その中に近江朝は九州王朝系(3.「中元」年号が示す「近江朝は九州王朝(倭国)の流れを汲む政権」)という内容を含んだ正木裕さんの<「近江朝年号」の研究>という画期的論文が掲載されている。
これは「倭国は九州王朝である」という「九州王朝説」にとって「正木説以前・正木説以後」と九州王朝説が変化する文字通りの「画期的論文」であった。
その評価はどんなにしてもしすぎることはないと断言できるものであった。しかし、しかしである。そのなかに「玉に瑕」というべき論法が紛れ込んでいた。「自説に都合の良いところは取り上げても都合の都合の悪いところには一切触れない」という瑕である。惜しいことである。これを取り除けばもろ手を挙げて賛成できた。かえすがえすも残念なことである。
以下は「肥さんの夢ブログ(中社)」に読後直ちにコメントとして記入した感想文である。私の残念だという気持ちがきつい文章としてにじんでいることを読み取られたい。

正木論文の「玉に瑕」の原因を考える

正木論文の核心は近江朝が九州王朝系であるということではなかったのか。
だとすれば、薩夜麻が都督してであろうがなかろうが、論旨は成立していたではないか。
薩夜麻都督説は近江朝九州王朝系説には無関係なのである。
正木さんは薩夜麻都督説を別の論文で発表すればよかったのだと思う。

それとも私の読み違えで、
薩夜麻都督説に立たないと近江朝九州王朝系説はなりたないと
正木さんは考えられているのであろうか。
だとすれば近江朝九州王朝系説は成り立たないということはすでに指摘した。

薩夜麻が都督として帰らないと近江朝が九州王朝系ではなくなる
とでもいうのだろうか。そんなばかげたことはなかろう。

やはり薩夜麻都督説は蛇足(蛇の絵に足は要らない)だったのである。

それほど正木さんには薩夜麻都督説を入れたいという願望があったのだろうか。
それほど魅力のある説だろうか。それで歴史が正しく解釈できるだろうか。
九州王朝説に立っている方々が薩夜麻都督説に傾倒しているようである。
ならば、どこにその根拠があるのか明確に示していただきたい。
全ては史料を自説に都合よく解釈しただけに見えるからである。
それとも私がその根拠を知らないだけなのだろうか。
だったら教えていただきたい。推測でない史料根拠を。
それが示されたら、その瞬間に薩夜麻都督説に私も立とう。

ただの推測であるとの断りがないのであれば学問的批判は免れない。
私もよく妄想を口にする。私のブログのキャッチフレーズは「妄想が暴走する」である。
自説に都合がよいことは取り上げ、都合が悪いことには触れないのなら、
それは根拠のない「妄想」とどこが違うというのだろう。

どうしても薩夜麻都督ということを根拠なしに主張したいのであれば、
「小説」をお書きください。教えてくだされば真っ先に購入します。
おもしろそうなことは内容を見なくても想像できますから。

「玉に瑕」の原因は、論文の主旨に無関係なものを付け足したことによる。
別論をたてればよいものを、「この際だから」と考えたかどうかはわからないが、
含めたからであると考えられる。的は一つに絞らないと「的を外す」ことになる。

皆さん、仮説の検証をあまりにもされませんね。正木説は古代逸年号の研究において、丸山晋司さんが、信用性皆無とした和漢年契にのみ出現する古代年号に基ずいた論であり、なぜそう言えるのかの検証がさきですよ。なんという学問の堕落でしょうか?

肥さんへ

上田市の吉村さんから電話をいただきました。
信濃国分寺についていくつかのことと、
『法隆寺のものさし』についてご教示をいただきました。

多元への原稿は最終チェック段階だとのことでした。
脱稿したらメール添付で送ってくださるとのことで、
ご了解を受けられれば、肥さんにも転送したいと思います。

電話をいただけて良かったです。

肥さんへ

1080000アクセスおめでとうございます。
吉村さんの電話報告がそれだと思います。
吉村さん、ありがとうございます。
肥さんになりかわってお礼申し上げます。
(いつからあなたのブログになったんだの声が)

山田さんへ
コメントありがとうございます。

お二人の間に何か電話連絡があったのでしょうか。
お陰様で108万アクセス達成です。
ご愛読&たくさんのコメント,感謝いたします。

山田さんへ 上城さんへ
コメントありがとうございます。

コメント読んでいるのですが,
議論が難しくてコメントできません。
不勉強ですみません。
(読んではいます)

肥沼さん。私はどんな説も唱えるのは自由だとは思っていますが、古田武彦が親鸞研究において呈示した実証を積み重ねた論証こそが大事だと考えています。最近は後代資料にだけしか記載されていない年号によって、推論と想像で、論を述べること、それで良しとする傾向があり、それは古田武彦が、(学問でなく、小説の世界)と評したものです。もう一度、古田武彦が親鸞思想で呈示した学問の方法を確認して下さい。難しいという言葉で終わらせ、間違った仮説のたてかたを拡散するのはどうなのでしょうか?今のままなら古田史学を学んでいませんよ❗

上城さんへ
コメントありがとうございます。

う~ん,耳が痛いところです。
自分では古田先生に学んでいると思いながら,
それが古田先生の学問の方法を崩してしまっているとしたら,
怖くて「研究」などできなくなってしまいそうです。
いったいどうしたらいいのでしょう・・・。

肥さんへ

古田史学を正しく学んだ方が、今問題にされていることに対して、手本となる古田史学の適用方法を示していただく。私たちはそのお手本から正しい古田史学の適用方法を学ぶ。これなら、どうすれば良いかという悩みは解決できそうです。
期待することにしましょう。

古田先生の晩年10年間、月に2ー3回電話で2時間位教えて頂いていました。今でも忘れられない事が2つ有ります。1つは前期難波宮九州王朝副都説について先生の意見を聞いていたとき、私が(前期難波宮)という呼び方を使用した時です、(何故前期難波宮)という名称を使うのかと言って長時間叱られました。理由はお考え下さい。もう1つは柿本人麿の最後についてです。突発的事故で死んだ人間の辞世の歌が残るのですか?と質問した時です。この時も長時間叱られました。これも理由をお考え下さい。ここに学問の方法の入口が有ります。

上城さま

古田先生との大変貴重なお話を教えていただきありがとうございます。
一瞬ですが「前期・後期」だのというのは今の時代の考古学者がそう呼んでいるので、
当時「前期難波宮」と言ったのか、というところではないか。
「突発的事故で死んだ」という話を「頭っから信じ込んでいる」からではないか、
と思いましたが、もう少しじっくり考えてみたいと思います。
ただ、「自分の頭で考えていない(疑ってみることをして)いない」という点が共通しているのかなと思ったのですが、
じっくり考えてからお答えしたいと思います。

古田先生のお言葉、この上のない何よりのご教示です。
心からお礼申し上げます。ありがとうございました。

上城さんへ
大変貴重なお話をありがとうございます。

古田先生はとても優しいお人柄の方だと思いますが,
学問については大変厳しい方だと思います。
だからこそ,大和一元史観を乗り越え,
多元的古代というものに至られたのですから…。
生前に「古代道」や「国分寺」について,
質問できなかったことがとても残念です。

 正木さんの論文を読んでいない身で言うのもなんですが、どうも古田史学に集う人たちの中に、古田さんのおっしゃったという「実証より論証」ということば(出典はどこだろうか?)の意味を誤解されている方が多いように思います。
 科学としての歴史学は、研究者が出した説(仮説)が真実であったと認められるのは、史料による実証が不可欠です。それもできるならば同時代の一次史料による証明が。
 ただし歴史学が扱う史料は、当時の事情を示す史料がすべて残っていて明らかになっているわけではありません。これは私の東洋史の師匠から教えられたことですが「今見ている史料の多くは、意図的に残されたものか、ほんの偶然に残ったものしかない」という認識です。意図的に残されたものの多くは政権によって編纂された後代史料。当時の一次史料に基づいていたとしても、編者の編集意図という偏見でまとめられている。編纂資料を扱うときは、元になった一次史料と編者の解釈を分別する作業が必要だと。そして偶然残った史料も含めて、それらを論理的に組み合わせていくことで、失われた史料の存在を仮定し、歴史を復元するのが歴史学だとも。
 つまりある説を実証しようにも、それを直接的に示す一次史料が存在しないことがある。
 ではその説は証明できないのか。
 ここに論証という作業が入ってくる。つまり直接その説を証明してはいないが、同時代の関連史料を論理的に組み合わせることで、一つの仮説を導き出し、その仮説を導き出したときに使わなかった他の同時代史料とも、その仮説が齟齬を生じない場合においてのみ、この仮説は論証された、と判断するのです。
 私は古田さんがおっしゃった「実証より論証」を、こう理解しています。ある説を証明する一次史料がない場合においてのみ使われる方法だと。これは古田さんが批判した、自説に都合の良い史料だけ取り出して論を展開したり、自説に都合の悪い史料は、自説に整合するように改ざんする、古代史学者の方法とは正反対のものです。
 今ここで論争されている、「近江年号」ですが、これが本当の近江朝の年号と、当時の一次史料で証明できるのかどうか、できない場合も、他の関連史料の存在からみて、そう考えるしかないと判断できるのか。ここがまず大事です。この実証なり論証がない状態で、そうに違いないから近江朝は九州王朝系だとするのでは、先に近江朝は九州王朝系だとの仮説があって、これを導入しての結論になってしまい、歴史学的な実証でも論証でもなくなります。私の理解が正しいかどうかわからないのですが、古田史学の会のサイトの論を読んでいてこう感じました。まだ思いつきのレベルにすぎないのではないか。思いつきのレベルなら例会などで口頭発表したりブログ上で論じるのは構いませんが、学会の機関紙に掲載するレベルではないように思います。
  また「薩夜麻都督説」については、山田さんがおっしゃるようにこれは蛇足であり、しかも一次史料で証明もされず、さらに関連史料でも論証もされていない、単なる思い付きのレベルだと思います。
 自分自身の研究である近代史の研究に没頭したいのでしばらくコメントを控えていましたが、どうもおかしな方向なので一言コメントさせていただきました。

人間の認識の問題が1つ。資料に書かれていることを自分の推論だけで否定してはいけないこと。名称化することによって正しい思考が停止すること。例えば古賀さんが二中歴細注を九州王朝系資料と呼称していますが、それに対する検証はみんなされていますか??

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「学問は実証より論証を重んずる」の出典ということですが,
古賀さんが「洛中洛外日記」第1313話の中で書いています。

http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/furuta-takehiko/post-3506/

4月1日の「古田先生の学問の方法を崩す」ということについて下記コメントします。
古田先生が亡くなられて、これからも全国の古田史学の各会が協調して研究を進めたい。このためには、「古田先生の学問の方法」を明確にして、これを共通の指針とし各会が活動のベクトルを合わせることが必要、と考え昨年の夏には大阪の「古田史学の会」で、秋には「東京古田会」で「学問の方法」についての報告をしました。小生は古田先生の晩年には、ご家族を除けば一番長く先生と接し、多くのことを直接に教えていただいたと思っています。その間に先生から教えていただいたことをまとめて皆さんに説明したものです。その内容は何も難しいことでなく、すべて先生の著作に書かれています。
 イ)自説を展開するときは、史料から出発する。自分の意見や思いから論を組み立ててはならない。
 ロ)仮説を立てることは重要だが、仮説の重層はいけない。
などです。先生の学問の基本は「実証」です。 詳しくは東京古田会での報告資料を送りますので住所を教えて下さい。

大下さんへ
コメントありがとうございます。

古田史学の継承のために,そのような努力が行われていることに敬意を表します。
私は休日部活動のためになかなか古田史学関係の例会に出られず,
そのような催しにも出ておりませんでした。
資料を読んで勉強したいと思いますので,よろしくお願いいたします。

4月2日の「実証より論証」について下記コメントします。古田先生は2013年の八王子セミナーの時、恩師である村岡典嗣氏が言われた言葉として「実証より論証」を初めて取り上げられました。今まで村岡氏が言ったことの意味がよくわからなかったが、今では”村岡氏が言った実証とは「他人が言ったこと」の意味で、実証より論証とは「他人の言ったこと」を鵜呑みにしてはいけない”ということではないか、と思い出のように語られたものです。
現在「古田史学の会」ではこの時の先生の言葉の字面だけを取り上げ、まず実証=証拠と意味付けをし、次に「実証より論証」とは「仮説から出発する論の展開方法」のこととし、そして「難波宮副都説」や「近江朝の九州王朝系」という仮説から展開している説は古田先生の方法に従っている、としているものです。
古田先生の学問の方法とは、川瀬氏が指摘されているような歴史学研究に使われている当たり前の普通の学問の方法です。それを最近の「古田史学の会」が日本古代史学会だけが使っている旧来の学問の方法に戻ってしまったので、混乱が生じているものです。 古田先生の学問の基本は「史料根拠に基ずく実証的な歴史研究」です。

肥沼さんの良いところでもありますが、他者の書いたものを無批判に信用されることは危険です。誰かが古田先生の書いたものを引用している場合でも、中略のところに重要な部分が有ったりして、引用者の主張と違う場合があるのですから!

上城さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんの良いところでもありますが、他者の書いたものを無批判に信用されることは危険です。
誰かが古田先生の書いたものを引用している場合でも、中略のところに重要な部分が有ったりして、
引用者の主張と違う場合があるのですから!

そうでした。川瀬さんに,「実証より論証」という言葉の出典を示そうすることに急ぐあまり,
しっかりした自分の努力を怠っていました。反省します。

大下さんへ
コメントありがとうございます。

〉 古田先生の学問の方法とは、川瀬氏が指摘されているような
歴史学研究に使われている当たり前の普通の学問の方法です。

〉 古田先生の学問の基本は「史料根拠に基ずく実証的な歴史研究」です。

つまり「原点に戻れ」,「史料根拠に基ずく実証的な歴史研究を進めよ」ということでよろしいのですね。

肥沼さんへ
「史料根拠に基ずいて実証的な歴史研究を進める」という古田史学の原点に戻ることが必要と思っています。

大下さんへ。
『最近の「古田史学の会」が日本古代史学会だけが使っている旧来の学問の方法に戻ってしまったので、混乱が生じているものです』と、おっしゃられた。
 やはりそうでしたか。「難波京副都説」や「近江朝の九州王朝系説」「近江年号説」などはとても魅力ある仮説ですが、厳密な史料批判に基づいた史料による実証も論証もされてはおらず、仮説に仮説を重ねているのではないかと違和感をもっておりました。この方々は古田さんの弟子を標榜しておりながら、古田さんの歴史研究方法をきちんと理解していないのではないかと、前々から感じていました。
 ご本人たちがこれに気が付いていないことが本当に困ったことだと思います。
追伸: 私が属している文芸同人の機関誌に、古田さん追悼のための「古田論」を二篇書きました。近日中に私のサイトで見られるようにしますので、お暇があったら覗いてみてください。肥沼さんと古賀さんには原本をお送りしてありますが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

『ペガーダ18』が届きました。
これから読ませていただきます。
まずは,お礼まで。

川瀬さんへ
コメント有難うございます。川瀬さんのサイトとは「学校を変えよう」製作者コアラさんですね。読ませていただきます。

大下さんへ
 私のサイト「学校を変えよう」のトップページの一番下に「文芸同人アニマの会の機関誌『ペガーダ』掲載の文書」というコーナーを新たに作りました。ここから入っていただければ、古田論の二篇はダウンロードできます。すべてpdfファイルです。

川瀬さんへ
長く九州へ行っていたので肥さんブログを開けるのが遅れました。早速『ペガーダ』掲載の追悼文を読ませていただきました。素晴らしい送る言葉で、古田先生も真のお弟子さんをもう一人見つけられたと喜んでおられたと思います。小生は専門が語学で定年後偶然に古田先生のエクアドル訪問ツアーに通訳として参加し、この旅行で古田先生のお人柄に触れたのが古代史の勉強を始めたきっかけです。古田先生は何も特別なことを言われていたのではなく、当たりまえのことを言われていただけです。本当の古田先生の学問を学びたいと思っている仲間は沢山います。これからも仲間と本当の勉強を続けていきたいと思っています。有難うございました。

大下さんへ
 私の古田さん追悼の文を読んでいただきありがとうございました。
 私も大下さんに刺激されて、大下さんの古賀説批判と古賀説そして正木説を詳しく読んでみました。古田史学会報117号の大下さんの論文「前期難波宮・九州王朝副都説批判 「史料根拠と考古学」について」は、古賀説・正木説の問題点をとても簡潔に分かりやすく示し、これが学問的にはまったく成り立たない架空のものであることを明らかにしていると確信しました。こうなると古賀さんや正木さんには、二つの対応しか選択肢がないと思いました。一つは全面的に自説の非を認めて撤回する。もう一つは、あくまでも自説にこだわり、大下さんの批判を無視する。この二つしかない。
 古田史学会報は大下論文以降が公開されていないので、それ以後の古賀さんのブログとそこに紹介された古田史学会報の各論文の標題を参考にして、古賀説に対する大下批判がだされた以後の古賀・正木両氏の対応を検証してみました。
 私の予想どおり、お二人は大下さんの批判をまったく無視し、いかに自分たちが古田さんの学問の方法を正しく継承しているのだと多言を弄する一方で、古賀さんは、大阪歴博のその後の「新発見」を次々と鵜呑みにするだけで批判的に検討せずに自説が正しいと述べ、正木さんは次々と書紀の記事は34年動かした盗用だとの自説をますます広げているだけだと見受けました。その上、古賀・正木説を前提にした様々な仮説を出す論者が次々と出現している。
 なぜ古田史学の会でこんな暴挙がまかり通るのか。なぜ古賀・正木両氏は間違った方法論に踏み込んでしまったのか。ここが知りたくて、古賀ブログを過去にさかのぼって精査する一方、古田史学会報も過去にさかのぼって精査しているところです。
 思うに古賀さんのいう九州王朝説に刺さった三本の矢という認識そのものが間違っていると思います。
 九州王朝説は、日本・韓国・中国の一次史料を精査して見出された確固たる学説です。九州王朝説を無視する古代史学界は、彼らが信奉する政治的イデオロギーを崩壊させる力が九州王朝説が持っているから、排除しているのであって、どんなに学問的に反論しても、イデオロギーはそれ自身が崩壊しないかぎり、九州王朝説を受け入れることはありません。
 これを否定するかのような考古学の学説があるとすれば、その考古学説そのものが間違っている可能性は極めて高い。九州王朝説を否定するかのような考古学の学説そのものを精査して、考古学者の認識そのものが間違っていることを明らかにすれば済むことです。かつて古田さんが巨大古墳の最密集地域が北九州ではなく畿内だから畿内こそ日本列島の中心だとの説に対して、巨大古墳がなぜその地域でその時期に作られたのかを考察しないで、巨大古墳=強力な権力の存在証明とする考古学者を批判されたようにです。
 難波宮の下層の宮殿遺構。これを7世紀中期とする大阪歴博見解にたいして7世紀末の天武期との見解があるのだから、この天武期ならば九州王朝説否定にならないことから、この説に依拠して歴博説を批判的に検討してみれば、この難波宮下層の宮殿遺構の年代を7世紀中期とする説の問題点が明らかになったと思います。そしてその問題点を精査していけば、九州王朝の遷都や副都説など出てくるはずはなかった。
 私は国分寺について研究してみて、7世紀の寺院の最密集地が畿内であって北九州ではない、という考古学的認識が間違いであることを確信しました。古代寺院の建立年代を確定するのは極めて難しい。絶対年代が出てくるのは文献資料に掲載された寺院だけ。それも7世紀を示す文献資料の第一は近畿天皇家が編纂した日本書紀なのですから、畿内の近畿天皇家が建立した寺院の記述は詳しくなされても九州王朝のそれは完全に除外される。その当時の文献で創建年代がわかる7世紀の寺院は近畿が多いに決まっている。そして瓦という重要な遺物の場合も、近畿中心で考えられて編年されるから、九州はどうしても畿内に比べて後の年代になるし、伽藍形式の変遷でも伽藍形式の意味を考察しない限り、文献での絶対年代がわかる畿内中心に伽藍形式の変遷が考察されるから、どうしても九州は除外される。
 国分寺を研究してみて、国分寺の多くは、その伽藍形式から8世紀後半ではなく、8世紀前半や7世紀後半、いや7世紀前半ではないかと思われる寺院を多く見つけましたし、続日本紀の記事の精査から、聖武の国分寺建立詔は、すでに各国府に存在した官立寺院(国府寺とおもわれる)に七重塔を造れとの詔にすぎないことを確認し、これが国分寺と呼ばれるようになったのは、この詔の少し前に、諸国の国府の官立寺院に金光明経を書写して配布したから、これを持っている官立寺院を、「国分の金光明経を持っている寺院」という意味で、「国分金光明寺」と呼び、この略称として「国分寺」という名称が出てきたことを確認しました。「国分金光明寺」「国分寺」という名称は、それ以前の九州王朝時代にあった各国府の官立寺院、おそらく国名+寺と国名+尼寺という名称であったと思われる(たとえば武蔵寺と武蔵尼寺)ものを、歴史から抹消するためのものであったのでしょう。国分寺遺跡の状況からも、続日本紀という一次史料の分析からも、全国の国府に九州王朝時代から僧寺と尼寺があった可能性が大きいことと、これを入れてみれば、九州にも7世紀の寺院が数多くあったことは証明できると考えています。
 九州王朝説を維持するために、間違った考古学的認識に基づいて、一次史料の解釈を変更する、もしくは恣意的に解釈するなどやってはいけない。
 古田さんは、思い付きやアイデアは大事だが、それはかならず史料で裏付けられていなければいけないと。つまり史料で実証されている、史料に基づいたアイデアや思い付きでなければ、学問上の仮説ではなく、その仮説は、他の周辺の史料とも整合性があって初めて学説として認められると。
 なぜこんな簡単な当たり前のことを古田史学の会の人が気が付かないのでしょうか。
 「本当の古田先生の学問を学びたいと思っている仲間は沢山います。これからも仲間と本当の勉強を続けていきたいと思っています。」との大下さんのお言葉。百万の味方を得た思いです。
 私の歴史学の主戦場は近代史です。ご関心があれば、私のサイトもご覧ください。「齋藤修一郎研究」と「徹底検証新しい歴史教科書」研究です。こちらに精力を集中する必要上、古代史にはあまり深入りできませんが、乗りかかってしまった国分寺研究を通じて、少しは古田さんの本当の学問の方法を広めていくお手伝いができればと思っています。

川瀬さんへ
小生の論文の検証をし、また理解していただき本当に有難うございます。古賀さんの三本の矢も川瀬さんのご指摘の通りで、自明のものを古賀さんが勝手に問題として取り上げているだけのものと思っていました。
古田先生の学問の方法につては「古田史学の会」関西例会で発表しその内容を会報投稿しましたが、会報掲載を拒否されました。一方東京では古田会が先生の学問の方法論を勉強したいということで小生に声がかかり、その時は多元の会からも幹部の方に参加いただきました。その時の講演内容が古田会ニュース172号に掲載されています。川瀬さんのブログ「学校を変えよう」のメール欄を利用し添付ファイルでお届けしました。

小生は史料根拠から歴史事実を学ぶとはどうのようなことか実践しようと、地元豊中の古文書講座に参加し、豊中に残された江戸時代の庄屋文書を読んでいます。ここでも学校で学んだ歴史とは違った姿が見えてきました。中世、近世史にも興味をもっています。『徹底検証新しい歴史教科書』1,2巻はすでに発注しました。到着を楽しみにしているところです。
私たちの豊中の会では現在『日本民衆倫理思想史研究』などを書かれた布川清司さんに来ていただき連続講座を受けています。
単に古文書を読むだけでなく史料の見方なども教えてもらっているところです。

大下さんへ
 送付された諸資料を先ほど受け取りました。ありがとうございます。
 「古田史学の会」は大下さんの古賀説批判の投稿文を掲載拒否したのですか。末期現象ですね。言論の封殺に出るとは。広く会員に知られることを恐れたからでしょうね。古賀さんたちはここまで堕落腐敗しているのですね。大下さんの古賀批判を読んだあと、おそらく居直ると予想しましたが、これほど酷いとは思いませんでした。これでは古田さんの説を排除した古代史学界とまったく同質です。
 この批判文を東京古田会が会報に掲載されたとのこと。古田さんの衣鉢を継ぐ者の中にも、しっかり問題を見据えようとする方がおられることは少し安心しましたが、関西の古田史学の会はどうなってしまったのでしょうね。
 じっくり読ませていただいたあとで感想をお送りします。

大下さんへ
 送付された資料と、参考にされた古田さんの著書の該当部分を読みました。大下さんの古田さんの学問の方法論についての要約は、まことに的確で、付け加えることはありません。
 また東京古田会の機関誌に掲載された、古田さんの方法論に基づいて古賀説を批判したものも、一部の隙もなく、完璧に古賀説が学問的にはなんの根拠もないものであることを論証したものと判断します(大下さんは古賀説を「作業仮説でしかない」とされましたが、仮説どころか、根拠となる事実を全く持たない、空理空論だと思います)。これはすでに「古田史学会報」の117号に書かれた大下さんの古賀批判で十分なされていたことですが、今回は古田さんの学問の方法に照らして古賀説を検証した結果、古賀説は古田さんが否定した古代史学界の方法論に逆戻りしていることを論証したすばらしものでした。
 一点だけ付け加えれば、古賀さんが前期難波京九州王朝副都説を批判するのなら、考古学的事実を持ってしろと言っていたことに、たいしてお答えすることだけです。
 古賀さんの「洛中洛外日記 第524話 2013/02/10七世紀の須恵器編年」に書かれていたことですが、大阪歴博の、前期難波宮を7世紀中ごろとする説を批判する小森説を批判した部分で、小森説は、前期難波宮の整地層からわずかに出てくる須恵器杯Bを根拠にして、これは7世紀後半の天武期のものとしたことは誤りであると論じ、整地層から最もたくさん出てくる須恵器杯はBよりも古いHとGであると指摘し、この須恵器杯が示す年代は7世紀中ごろなのだとしています。おそらく大阪歴博の見解を踏襲しているのだと思いますが、整地層が作られた年代を判定する際の根拠は、通常はその中の最も年代の新しい遺物を持ってするものなので、前期難波宮の整地層は、7世紀後半以後と判断できるのです。ただしこの際注意が必要なことは、その層の上層を後世に道路や溝や耕地整備などで攪乱した結果として、後世の土器が下層に紛れ込むことがありますので、ここだけ注意が必要です。したがってもっとも新しい須恵器杯Bを前期難波宮整地層形成時期を判断する基準から排除するには、「数が少ない」からではなく「上層の土器が後世に紛れ込んだ」と判定されたときだけなのです。
 しかし古賀さんはこの「後世の土器が紛れ込んだ」ではなく「数が少ない」だけしか挙げていないので、須恵器杯Bを排除して年代判定する方法そのものが間違いであることは明白です。
 前期難波宮はしたがって7世紀後半以降の宮殿遺構であります。
 また「洛中洛外日記 第511話 2012/12/30難波宮中心軸のずれ」でも古賀さんは、本人は気づいていないのですが、前期難波宮が天武期のものであることを示す事実を学芸員・李陽浩(リ・ヤンホ)さんが話したことを紹介しています。それは、後期難波宮遺跡は前期難波宮遺跡の方位をほぼ正確になぞっており、さらに前期難波宮の焼け跡の柱穴跡を慎重に避けて新たな礎石を置いているという事実です。
 これは後期難波宮を造営した8世紀中ごろの聖武朝のときに前期難波宮の焼け跡の柱穴が残っており、それを聖武朝の人々は大切に保存しかつ、それを破壊しないようにして前期難波宮の朝堂院中庭部分にすっぽり入るように大極殿と朝堂院を作っているということを示すと、古賀さんははっきり書かれています。その意味は論じていないのですが。
 聖武朝がこれほど前期難波宮の旧跡を大事にしているという事実は、前期難波宮が、聖武朝がその直系の先祖としてあがめる天武朝のものだということを示しています。 聖武朝は天武朝の直系王朝です。そして聖武にとって男子の継承者がいないということは、ここでもって天武朝が断絶する危険に直面したということです。聖武朝はなんとしても天武系を続けようと奮闘した王朝ですから。
 最後に一点。古田さんが間違った方法論に依拠した古賀説(正木説も同じく)に対して反論をしていなかったのだろうかと疑問に思っていました。今公開されている古田史学会報の最後の部分に、古田さんが学問の方法について書かれていることを発見したとき、この続きに古賀説批判があったのではないかと想像していました。しかしそうではなく「私の学問の方法に戻れ」という論文があったということを初めて知りました(「切言」)。読んでみたいと思います。
 できましたら添付ファイルでお送りください。
 それにしても古賀・正木両氏の古田さんに対する対応は失礼極まりないものであり、古田さんが体調不良で反論できなくなり、そのまま亡くなられたのを良いことにして、自分たちこそが古田史学の正統であるかのごとく振る舞い、これを批判した大下論文の掲載を拒否するとは。完全に古田さんが批判した古代史学界主流そのものに成り下がった堕落腐敗したものなのですね。何でこんなところに踏み込んでしまったのか。 
 九州王朝論に刺さった三本の矢に明確なように、彼らは古田さんの学問の方法を理解せず、表面的に真似ているだけであったということなのでしょう。ここを公開された資料を基に考察しているところです。

 追伸:私の著書をご注文いただいたとのこと。ありがとうございます。この本は私のオリジナルではなく、古代史・中世史を論じた多くの論考を読んで、私自身が、その方法論に納得した学説だけを使って書いたものです。古田さんの「私の学問研究の方法について」を読み直してみて、改めて、私が、「新しい歴史教科書」を徹底検証するときにつかった方法論の正しさを確認しました。ありがとうございました。
 追伸2:大下さんの古賀説批判を読んでいて、自分自身の問題を考えました。つまり、古賀説・正木説を批判するだけではなく、他山の石とするということで、国分寺研究において、後代史料を無批判に利用しているところがあるなと。九州王朝が全国の国府近傍につくった官立寺院を「国府寺」としてきましたが、これはずっと後世の史料にしかない言葉なので、正しくは不明とするべきものでしょう。あるいは「続日本紀」に、「筑紫観世音寺」と「筑紫尼寺」とがセットで出てくるので、九州王朝が全国の国府に作った官立寺院は、「国名+寺」「国名+尼寺」であったと考えていましたが、そうではなく、「国名+観世音寺」と「国名+尼寺」であったのかもしれないというアイデアが生まれました。それでもその総称はやはり不明ですね。近畿天皇家がこれらの寺に、金光明経と法華経を配り、それぞれを「国分金光明寺」「国分法華尼寺」と呼ばせ、その略称としての「国分寺」「国分尼寺」と呼ばせたことは、九州王朝が作った全国的官立寺院の痕跡を消すためであったことは確かだとは思いますが。九州王朝が作った全国的な僧寺・尼寺の総称を示す痕跡が、「日本書紀」と「続日本紀」にないのかどうか、今一度精査してみようと考えています。

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