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2017年3月26日 (日)

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』

上記の本(古田史学の会編・明石書店刊)がついに出版された。
「古代に真実を求めて・古田史学論集・第二十集」も兼ねる書籍である。
いわゆる「九州年号」と呼ばれるやつだが,
これまでの『市民の古代(第十集)』はすでに入手困難なので,
『九州年号の研究』(ミネルヴァ書房)と共に,
古田史学の会の編集で公刊される運びとなった。

P3250088

Ⅰ倭国(九州)年号とは
Ⅱ次々と発見される「倭国年号」史料とその研究

の大きく2つの章からなり,資料が巻末にある。
(「二中歴」「海東諸国紀」「続日本紀」を収録)

全体として簡潔でわかりやすくまとめられており,
18の論文と15のコラムから構成されている。

巻頭言の古賀さんの文章にも出て来るが,
「本書中,出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による
「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新た概念である。・・・」とのこと。
九州年号についてすでに興味をお持ちの方も,
新たな気持ちで読んでいただけるのではないか。
そういう意味で「九州年号」と言わずに「倭国年号」とし,
《大和朝廷以前》という「逆の押さえ」も効かせたものか。

倭国年号(九州年号)は多少異説はあるが,6世紀初頭~7世紀末にかけて,
だいたい以下のような流れで定められたものと言っていいだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

九州王朝説を支える有力な証拠の1つが,
517~700年の183年にわたって
連綿と続いていた31個の九州年号である。
それを紹介しておこう。

継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆
大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)

日本書紀によると,年号は大化(645)から始まり,
飛び石的に白雉や朱鳥があり,大宝(701)につながるというのだが,
およそ年号というものは「すき間なく続いている」ことに意義があるのであり,
それでこそ年代のモノサシ足りうるのだ。
その点,日本書紀に出てくる3つの年号は,そもそも「年号」としてのテイをなしていないのである。

また,当時朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の国々がそれぞれの年号を持ち,誇っていた。
倭国が年号を持っていておかしいことはないし,むしろその支配権を中国に認めてもらおうとした倭国が
逆に年号を持つことを遠慮していたとしたら,その方が当時の「アジアの常識」としておかしいのだ。

いくつかの年号にふれておく。
全体として「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」など仏教の影響が色濃く出ている。
この年号を定めた王朝は深く仏教に帰依していたものと思われる。
(九州の仏教受容年代はかなり早い時期のようである)

また,白鳳が23年間と圧倒的に長い。
その前半の白村江の戦いでの敗戦を受け,
長く改元することもままならなかった王朝の事情が表わされているのではないか。
(実際「薩夜馬」と呼ばれる九州のリーダーが捕虜になっており,後に送還されてきている)

江戸時代,九州年号については「邪馬台国」論争とともによく議論されたらしい。
しかし,明治時代になりこれらの年号は私年号として葬りさられてしまった。
その九州年号を発掘し,歴史の光を当てたのが,古田武彦氏と彼を支持する市民の人たちだったのだ。

九州年号についての最新の研究を「新古代学の扉」というサイト(古田史学の会)で見ることができる。
興味のある方はぜひのぞいて見てほしい。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

またまた思いつきです。
「年号『白鳳』の論証」です。先のは「国号『日本』の論証」でした。

年号に手を付けられなかった白江戦(敗戦)以降の白鳳年間、倭国は唐の統制下にあった。
これが「年号『白鳳』の論証」です。
そんなの知ってらい!と思いますか?
実は、意外に意味深なのです。

新羅は独自年号をもっていたけど撤回した(暦はそれ以前から唐のものを行用)。
倭国は白江戦に完敗したが完全に唐の支配下には入らなかった。
なぜなら、倭国天子は存命していたが捕囚となっていたので改元できなかった。
しかし、年号「白鳳」は使用し続けた。
もし、完全に唐の支配下になっていたのなら新羅のように唐の年号を用いたはず。

もう一つ、近江朝による改元(建元ではない)もあった。
近江朝は「改元」したということから「倭国」を継承したとしている。
近江朝年号を建元とすることができるか?
もし近江朝が建国したと仮定すれば、国号は何としたというのか?
近江朝が国号を「日本」として建国したとすると、
小国「日本国」が「倭国」の領土を合わせたという『旧唐書』を否定することになる。
それよりなにより、近江朝は滅んでしまうのだから、成り立つわけがない。
『旧唐書』を否定するするなら、『旧唐書』が誤っていたと論証しなければならない。

『二中歴』が倭国年号(九州年号)として「白鳳」を採っている。
このことから『二中歴』の編者は「倭国」が近江朝に継承されたという見解ではなく、
近江朝「倭国」とは別に白鳳「(正統)倭国」が存続していたという見解なのだろう(二朝併存)。
もし、近江朝「倭国」を正統としたなら近江朝年号「中元」「果安」などを採ったであろう。
『二中歴』にしたがうのであれば、太宰府に唐が進駐したときも、
近江朝「倭国」とは別に、「(正統)倭国」が存在していたとせねばなるまい。
近江朝の「(継承)倭国」と「(正統)倭国」があったことになる。

それはそれでよしとするが、そうだとすれば藤原朝(天武・持統)が問題になる。
近江朝の「(継承)倭国」を打倒して藤原朝(天武・持統)となった。
この朝廷は国号や年号をもたなかったのか、という問題が生じる。
藤原朝(天武・持統)は国号も年号も持たない朝廷なのだろうか。

いくらなんでも国号ももたない朝廷というのは考えられない。
矛盾のないのは藤原朝(天武・持統)を『日本』と考えることであろう。
年号はどうか?「(正統)倭国」が存在したと考えるしかないであろう。

「日本」を建国したとしても年号は「白鳳」のままなのであるから、
藤原朝は「(白鳳と改元した正統)倭国」の臣下と考えるしかない。
現に持統天皇の譲位日(文武天皇の即位日)は元嘉暦の八月一日(乙丑)である。

八月乙丑朔、天皇定策禁中、禪天皇位於皇太子(岩波 日本古典文学大系68『日本書紀 下』巻第卅)。

倭国の暦(「元嘉暦」)を使っている(正朔を奉じている)のは「倭国」の臣下である。
これは「『元嘉暦』の論証」です。

倭国残党近江朝を打倒した親唐路線の藤原朝「日本国」も「倭国」の臣下(配下)であったのです。

①白江戦の完敗後も、近江朝とは別に、倭国は存続した。
②壬申の乱で近江朝を倒した藤原朝が「日本」を国号とした。
③藤原朝は倭国の臣下であった。
④この当時、改元できない倭国は唐の統制下にあった。
⑤この当時、倭国・(その臣下)日本国は親唐路線であった。

天武天皇は「大皇弟」と呼ばれている。「皇」のつくそれも「大」がつく方の弟だったのでしょう。
あるいは、「皇」のつく方の弟で一番年上だったかもしれません。
少なくとも身分は天智天皇とひけをとらない、むしろ上回る身分の者だあったでしょう。
この身分は天智天皇と比べて年上だ年下だに関係ないものでしょう。
妄想を言えば「(正統)倭国」の「皇」のつくお方の弟だったと考えるのが穏当です。
従来説(『書紀』のうけうり)は「大皇弟」=「(天智)天皇弟」と一本棒を足して(「大」→「天」)済ませた。
なぜなら、『書紀』に弟だと書いてあるからです。それだけを読めばそうでしょう。
これを天智天皇の弟にするかえたのが『日本書紀』のフィクションです。
しかし「年号『白鳳』の論証」がありますから、この当時「(正統)倭国」は唐の支配下にあったのです。

さて、ここで問題です。
『三国史記』新羅本紀に引かれた、倭国と日本国とを画す一線「六七〇年」(これは「国号『日本』のONライン」と呼びましょうか)の翌年に唐から(唐の政策の駒として)返された薩夜麻(捕囚となっていた倭国天子)はどこにあてはまるでしょうか?

山田さんへ
コメントありがとうございます。

今回入手した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』には,
正木裕さんの「近江年号」について数十ページが割かれています。
もしかしたら,そこに今回の山田さんの問題の答えがあるような気がします。

肥さんへ

ありがとう。まだ到着してませんが、月曜につくと思います。
読んでみます。

肥さんへ

本日、論集第二十集が午前中に届きました。午後書斎(ファーストフード店)で読む予定です。

会員番号順に送られることと、遠距離であることで遅くなるのだと思います。急いではいませんので、気になりません。

肥さんへ

わかったことだけでは面白くないので、わからないということも書こうとおもいます。
ー「太宰府」の謎ー
「太宰府」という呼び名の謎です。
「太宰(たいさい)」というのは、天子ではなく天子を補佐する役職、今でいえば内閣総理大臣で、その行政府が「太宰府」、今でいえば内閣府だと思うのですが、普通は天子の居所の地名をつけた○○宮、○○京などというではありませんか。帝都らしい名称ではない感じがするのです。帝都らしくないのは「都督府」などという名称にも感じられますよね。だとすれば、太宰府は帝都ではないのではないか、という疑問があるのです。名称だけからですが。どなたか説明していただけるとありがたいです。これは、ヤマトの「大宰府」のことではありません。倭国(九州王朝)の「太宰府」のことです。

正木裕さんの
「近江朝年号」の研究
の読後感想文


ほとんどが納得できるものでしたが、薩夜麻の帰国理由を巡ってうなずくことができない点がありました。

まず、「3.臣従した夷蛮の王は「都督」に任命され「都督府」に帰還する」という節において、百済、高句麗、新羅での例を掲げたうえで、
〉薩夜麻が他国同様「都督」に任命されたとすれば…(中略)…「筑紫都督」として送り返されてきたと考えるのが合理的だ。
とされている点です。

「とすれば」と仮定法で書かれたうえで「と考えるのが合理的だ」とされてらっしゃるので、仮定を前提とされているものに対して何とも論じられませんが、ひとつだけ申し上げれば、その仮定を成り立たせるためには、他国同様に倭国に「薩夜麻を都督として置いた」と書かれていないことの合理的説明がなされるべきではないかと考えます。他国がそう書かれていることをあげて、「倭国が書かれていない」ことを論じないのは片手落ちではないでしょうか。私は「倭国が書かれていない」のは「倭国に薩夜麻を都督として置いた事実はなかった」ので書いてないのだろうと考えました。つまり、「同様に書いてないのは同様ではない事実の反映」と考えたのです。「書いてないけど他国はそうだったからそうだろう」と考えるよりは多少記録寄りではないでしょうか?五十歩百歩でしょうか?古田先生はどちらをとるでしょうか、気になります。

ああも言えればこうも言えることなので、こうも言えるを言ってみます。

》「薩夜麻を都督として置いたと書ける事実はなかった」と仮定すれば、薩夜麻はその状況を打開するために送り返されてきたと考えるのが合理的だ。
このようにも考えられるのではないでしょうか。

次に「都督府」です。

〉都督の役所(府)は「都督府」だが『書紀』では天智六年(六六七)にこれが見える。

唐が直轄統治(つまり都督府型統治)を行おうとしたことは、唐の占領目的が唐の一部とすることだったのですから、これは確かなことだと考えられます。実際にそれが設置されたと考えていいのかもしれません。
では、『書紀』に薩夜麻の帰国記事で「大宰府」(「太宰府」ではない)と書いてあり、天智六年(六六七)に「筑紫都督府」と書いてあるということから、薩夜麻が筑紫都督として送り返されたと言えるのでしょうか。私には論理的にそうなるとは考えられません。もちろん推測ですからしかたがないことではあります。とすれば、筑紫都督府は「白江戦(白村江戦)」の直後(薩夜麻の帰国以前)に設置されていて、そこに薩夜麻が返されたという理解も可能だということになります。薩夜麻が「筑紫都督」として返されたとは断言できないということです。

ではどのように考えるのか。次のように考えます。
》この筑紫都督府は薩夜麻の帰国によって解消された。薩夜麻の下に「(滅亡した)倭国」を傀儡政権として「復活」させるためであった。

直轄領の中に「倭国」を復活させることはできません。また、「倭国」を復活させたとしても薩夜麻を元のような改元できる「天子」には戻せません。天子はこの世に唐の天子一人なのですから。「倭国」はもとからあったのですし、年号「白鳳」の継続は唐も目的達成のためには妥協するべき点でしょう。「白鳳」を継続しないと「復活した倭国」にはなれませんから、やむをえません。このように「白鳳」は継続することしかできない年号となったといえます。
もし、薩夜麻が「筑紫都督」であるなら、倭国内は唐の「麟徳甲子元暦」(六六五~七二八)を使っていたはずです。「日本国」の年号「大宝」を建元した文武天皇の即位日(厳密には持統天皇の譲位日、697年「八月乙丑朔」)も「元嘉暦」で書かれているのですから、そのような事実はなかったと考えるしかありません。

薩夜麻とともに大軍を送った記事があるのは、薩夜麻が確固たる勢力として政権を樹立するために必要であったからではないでしょうか。捕囚となって唐に屈従した元天子(すでに「近江朝」が存在します)が、国内で唐に対して抵抗運動を行っている最中に、身柄一つで唐の抑留から帰ってきた、大義名分のない元天子に何ができるというのでしょう。薩夜麻にも国内勢力を恫喝できる程度の手勢は必要なのです。「力の無い者には結集しない」のが政治的処世術です。


私は、直轄統治(つまり都督府型統治)が失敗に終わったから、政策転換によって筑紫都督府は無くなったと考えるのです。筑紫都督府は薩夜麻傀儡倭国とは入れ替わりになる、つまり、唐はこの直轄統治(都督府型統治)策に失敗した責任者(責任者が悪かったのかどうかは別の話として)を処分し、親唐政権の樹立という次善の策に政策を転換した。これが薩夜麻の帰国策となったと考えているのです。これが筑紫都督府の消滅理由です。

薩夜麻が筑紫都督として帰国したという説では、この筑紫都督府はいついかなる理由でなくなったのでしょうか。その説明に苦慮するのではありませんか?

薩夜麻を帰国させた目的は、薩夜麻による都督府型統治を失敗させた反唐勢力の掃討です。都督府型の直接統治が失敗した原因は、近江朝という倭国残党の指導のもとに外国軍の占領統治を快く思わない人々が結集して唐に抵抗したからと考えます。唐としては自ら掃討戦を行えば「泥沼化」するか勝利してもその後の統治に支障がでる(懐柔が困難になる)と考えたのでしょう。それを避けるのが薩夜麻を使って「内戦」という形で掃討戦を行うという方策だったと考えるのです。

薩夜麻の帰国を巡る(今のところ)二つの説(「筑紫都督説」と「傀儡倭国説」)この二者の考え方の違いとは、「戦後の安定した統治を目指した」と考えている説と、「内戦」を偽装するために薩夜麻を返したとする説の違いだと考えます。

どちらの説にその証拠があるわけでもないのですが、どちらの説がその後の経過をふくめて良く説明できているかというのが判定基準となるでしょう。

前者なら筑紫都督府が近江朝を倒したということになり、筑紫都督府と薩夜麻はどこに消えたのかという問題がでるでしょう。
後者なら、親唐政権の樹立という目的が達せられたので唐は満足ということになります。その後の政権が「遣唐使」を唐にせっせと送って恭順の意を示し続けていることも説明できます。
前者では、日本列島は唐の一部となっていなければおかしいと考えます。唐・新羅戦争のどさくさまぎれに日本国を建国したとするか、あるいは唐の善意で国を返してもらったとするのでしょうか。どちらも不審な解釈となります。

以上、薩夜麻の帰国理由をめぐっての疑問でした。
私が一番疑問に感じたところは、百済、高句麗、新羅での例を掲げたうえで、次のように導く論法でした。

〉これらの例から見て、筑紫君薩夜麻も、彼らと同様に、「都督」として帰国したことが十分推測される。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

「会員番号順」や「遠距離」という条件があるとしても,
ずいぶん時間が掛かるものですね。

肥さんへ

発送する日が違うんです、たぶん。いっぺんに送れませんから。梱包してラベルを貼ったりして、手作業だから、多くは送れないでしょうね。

肥さんへ

―太宰府の謎―
うっかりしてました。
太宰府には〇〇宮がありました。
天満宮、これって神宮ではなく宮殿だったってこと?
ということならここは天満京。
でもここではなく紫宸殿というのがあったような・・・
やっぱりこの名称は・・・わからない。
なぜ帝都が行政府の名称なんだろう?


この夢ブログに正木裕さんの論文に対して読後感想文をコメント記載しました。
以下は私が自分のブログに載せた読後感想文の前文です。
私の気持ちを誤解されないように夢ブログにも記しておきます。
…………………………………………………………………………………………
「玉に瑕」の正木論文 ー 「近江朝年号」の研究 ー

古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店、二〇一七年三月二十五日)が届いた。

その中に近江朝は九州王朝系(3.「中元」年号が示す「近江朝は九州王朝(倭国)の流れを汲む政権」)という内容を含んだ正木裕さんの<「近江朝年号」の研究>という画期的論文が掲載されている。
これは「倭国は九州王朝である」という「九州王朝説」にとって「正木説以前・正木説以後」と九州王朝説が変化する文字通りの「画期的論文」であった。
その評価はどんなにしてもしすぎることはないと断言できるものであった。しかし、しかしである。そのなかに「玉に瑕」というべき論法が紛れ込んでいた。「自説に都合の良いところは取り上げても都合の都合の悪いところには一切触れない」という瑕である。惜しいことである。これを取り除けばもろ手を挙げて賛成できた。かえすがえすも残念なことである。
以下は「肥さんの夢ブログ(中社)」に読後直ちにコメントとして記入した感想文である。私の残念だという気持ちがきつい文章としてにじんでいることを読み取られたい。

正木論文の「玉に瑕」の原因を考える

正木論文の核心は近江朝が九州王朝系であるということではなかったのか。
だとすれば、薩夜麻が都督してであろうがなかろうが、論旨は成立していたではないか。
薩夜麻都督説は近江朝九州王朝系説には無関係なのである。
正木さんは薩夜麻都督説を別の論文で発表すればよかったのだと思う。

それとも私の読み違えで、
薩夜麻都督説に立たないと近江朝九州王朝系説はなりたないと
正木さんは考えられているのであろうか。
だとすれば近江朝九州王朝系説は成り立たないということはすでに指摘した。

薩夜麻が都督として帰らないと近江朝が九州王朝系ではなくなる
とでもいうのだろうか。そんなばかげたことはなかろう。

やはり薩夜麻都督説は蛇足(蛇の絵に足は要らない)だったのである。

それほど正木さんには薩夜麻都督説を入れたいという願望があったのだろうか。
それほど魅力のある説だろうか。それで歴史が正しく解釈できるだろうか。
九州王朝説に立っている方々が薩夜麻都督説に傾倒しているようである。
ならば、どこにその根拠があるのか明確に示していただきたい。
全ては史料を自説に都合よく解釈しただけに見えるからである。
それとも私がその根拠を知らないだけなのだろうか。
だったら教えていただきたい。推測でない史料根拠を。
それが示されたら、その瞬間に薩夜麻都督説に私も立とう。

ただの推測であるとの断りがないのであれば学問的批判は免れない。
私もよく妄想を口にする。私のブログのキャッチフレーズは「妄想が暴走する」である。
自説に都合がよいことは取り上げ、都合が悪いことには触れないのなら、
それは根拠のない「妄想」とどこが違うというのだろう。

どうしても薩夜麻都督ということを根拠なしに主張したいのであれば、
「小説」をお書きください。教えてくだされば真っ先に購入します。
おもしろそうなことは内容を見なくても想像できますから。

「玉に瑕」の原因は、論文の主旨に無関係なものを付け足したことによる。
別論をたてればよいものを、「この際だから」と考えたかどうかはわからないが、
含めたからであると考えられる。的は一つに絞らないと「的を外す」ことになる。

皆さん、仮説の検証をあまりにもされませんね。正木説は古代逸年号の研究において、丸山晋司さんが、信用性皆無とした和漢年契にのみ出現する古代年号に基ずいた論であり、なぜそう言えるのかの検証がさきですよ。なんという学問の堕落でしょうか?

肥さんへ

上田市の吉村さんから電話をいただきました。
信濃国分寺についていくつかのことと、
『法隆寺のものさし』についてご教示をいただきました。

多元への原稿は最終チェック段階だとのことでした。
脱稿したらメール添付で送ってくださるとのことで、
ご了解を受けられれば、肥さんにも転送したいと思います。

電話をいただけて良かったです。

肥さんへ

1080000アクセスおめでとうございます。
吉村さんの電話報告がそれだと思います。
吉村さん、ありがとうございます。
肥さんになりかわってお礼申し上げます。
(いつからあなたのブログになったんだの声が)

山田さんへ
コメントありがとうございます。

お二人の間に何か電話連絡があったのでしょうか。
お陰様で108万アクセス達成です。
ご愛読&たくさんのコメント,感謝いたします。

山田さんへ 上城さんへ
コメントありがとうございます。

コメント読んでいるのですが,
議論が難しくてコメントできません。
不勉強ですみません。
(読んではいます)

肥沼さん。私はどんな説も唱えるのは自由だとは思っていますが、古田武彦が親鸞研究において呈示した実証を積み重ねた論証こそが大事だと考えています。最近は後代資料にだけしか記載されていない年号によって、推論と想像で、論を述べること、それで良しとする傾向があり、それは古田武彦が、(学問でなく、小説の世界)と評したものです。もう一度、古田武彦が親鸞思想で呈示した学問の方法を確認して下さい。難しいという言葉で終わらせ、間違った仮説のたてかたを拡散するのはどうなのでしょうか?今のままなら古田史学を学んでいませんよ❗

上城さんへ
コメントありがとうございます。

う~ん,耳が痛いところです。
自分では古田先生に学んでいると思いながら,
それが古田先生の学問の方法を崩してしまっているとしたら,
怖くて「研究」などできなくなってしまいそうです。
いったいどうしたらいいのでしょう・・・。

肥さんへ

古田史学を正しく学んだ方が、今問題にされていることに対して、手本となる古田史学の適用方法を示していただく。私たちはそのお手本から正しい古田史学の適用方法を学ぶ。これなら、どうすれば良いかという悩みは解決できそうです。
期待することにしましょう。

古田先生の晩年10年間、月に2ー3回電話で2時間位教えて頂いていました。今でも忘れられない事が2つ有ります。1つは前期難波宮九州王朝副都説について先生の意見を聞いていたとき、私が(前期難波宮)という呼び方を使用した時です、(何故前期難波宮)という名称を使うのかと言って長時間叱られました。理由はお考え下さい。もう1つは柿本人麿の最後についてです。突発的事故で死んだ人間の辞世の歌が残るのですか?と質問した時です。この時も長時間叱られました。これも理由をお考え下さい。ここに学問の方法の入口が有ります。

上城さま

古田先生との大変貴重なお話を教えていただきありがとうございます。
一瞬ですが「前期・後期」だのというのは今の時代の考古学者がそう呼んでいるので、
当時「前期難波宮」と言ったのか、というところではないか。
「突発的事故で死んだ」という話を「頭っから信じ込んでいる」からではないか、
と思いましたが、もう少しじっくり考えてみたいと思います。
ただ、「自分の頭で考えていない(疑ってみることをして)いない」という点が共通しているのかなと思ったのですが、
じっくり考えてからお答えしたいと思います。

古田先生のお言葉、この上のない何よりのご教示です。
心からお礼申し上げます。ありがとうございました。

上城さんへ
大変貴重なお話をありがとうございます。

古田先生はとても優しいお人柄の方だと思いますが,
学問については大変厳しい方だと思います。
だからこそ,大和一元史観を乗り越え,
多元的古代というものに至られたのですから…。
生前に「古代道」や「国分寺」について,
質問できなかったことがとても残念です。

 正木さんの論文を読んでいない身で言うのもなんですが、どうも古田史学に集う人たちの中に、古田さんのおっしゃったという「実証より論証」ということば(出典はどこだろうか?)の意味を誤解されている方が多いように思います。
 科学としての歴史学は、研究者が出した説(仮説)が真実であったと認められるのは、史料による実証が不可欠です。それもできるならば同時代の一次史料による証明が。
 ただし歴史学が扱う史料は、当時の事情を示す史料がすべて残っていて明らかになっているわけではありません。これは私の東洋史の師匠から教えられたことですが「今見ている史料の多くは、意図的に残されたものか、ほんの偶然に残ったものしかない」という認識です。意図的に残されたものの多くは政権によって編纂された後代史料。当時の一次史料に基づいていたとしても、編者の編集意図という偏見でまとめられている。編纂資料を扱うときは、元になった一次史料と編者の解釈を分別する作業が必要だと。そして偶然残った史料も含めて、それらを論理的に組み合わせていくことで、失われた史料の存在を仮定し、歴史を復元するのが歴史学だとも。
 つまりある説を実証しようにも、それを直接的に示す一次史料が存在しないことがある。
 ではその説は証明できないのか。
 ここに論証という作業が入ってくる。つまり直接その説を証明してはいないが、同時代の関連史料を論理的に組み合わせることで、一つの仮説を導き出し、その仮説を導き出したときに使わなかった他の同時代史料とも、その仮説が齟齬を生じない場合においてのみ、この仮説は論証された、と判断するのです。
 私は古田さんがおっしゃった「実証より論証」を、こう理解しています。ある説を証明する一次史料がない場合においてのみ使われる方法だと。これは古田さんが批判した、自説に都合の良い史料だけ取り出して論を展開したり、自説に都合の悪い史料は、自説に整合するように改ざんする、古代史学者の方法とは正反対のものです。
 今ここで論争されている、「近江年号」ですが、これが本当の近江朝の年号と、当時の一次史料で証明できるのかどうか、できない場合も、他の関連史料の存在からみて、そう考えるしかないと判断できるのか。ここがまず大事です。この実証なり論証がない状態で、そうに違いないから近江朝は九州王朝系だとするのでは、先に近江朝は九州王朝系だとの仮説があって、これを導入しての結論になってしまい、歴史学的な実証でも論証でもなくなります。私の理解が正しいかどうかわからないのですが、古田史学の会のサイトの論を読んでいてこう感じました。まだ思いつきのレベルにすぎないのではないか。思いつきのレベルなら例会などで口頭発表したりブログ上で論じるのは構いませんが、学会の機関紙に掲載するレベルではないように思います。
  また「薩夜麻都督説」については、山田さんがおっしゃるようにこれは蛇足であり、しかも一次史料で証明もされず、さらに関連史料でも論証もされていない、単なる思い付きのレベルだと思います。
 自分自身の研究である近代史の研究に没頭したいのでしばらくコメントを控えていましたが、どうもおかしな方向なので一言コメントさせていただきました。

人間の認識の問題が1つ。資料に書かれていることを自分の推論だけで否定してはいけないこと。名称化することによって正しい思考が停止すること。例えば古賀さんが二中歴細注を九州王朝系資料と呼称していますが、それに対する検証はみんなされていますか??

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「学問は実証より論証を重んずる」の出典ということですが,
古賀さんが「洛中洛外日記」第1313話の中で書いています。

http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/furuta-takehiko/post-3506/

4月1日の「古田先生の学問の方法を崩す」ということについて下記コメントします。
古田先生が亡くなられて、これからも全国の古田史学の各会が協調して研究を進めたい。このためには、「古田先生の学問の方法」を明確にして、これを共通の指針とし各会が活動のベクトルを合わせることが必要、と考え昨年の夏には大阪の「古田史学の会」で、秋には「東京古田会」で「学問の方法」についての報告をしました。小生は古田先生の晩年には、ご家族を除けば一番長く先生と接し、多くのことを直接に教えていただいたと思っています。その間に先生から教えていただいたことをまとめて皆さんに説明したものです。その内容は何も難しいことでなく、すべて先生の著作に書かれています。
 イ)自説を展開するときは、史料から出発する。自分の意見や思いから論を組み立ててはならない。
 ロ)仮説を立てることは重要だが、仮説の重層はいけない。
などです。先生の学問の基本は「実証」です。 詳しくは東京古田会での報告資料を送りますので住所を教えて下さい。

大下さんへ
コメントありがとうございます。

古田史学の継承のために,そのような努力が行われていることに敬意を表します。
私は休日部活動のためになかなか古田史学関係の例会に出られず,
そのような催しにも出ておりませんでした。
資料を読んで勉強したいと思いますので,よろしくお願いいたします。

4月2日の「実証より論証」について下記コメントします。古田先生は2013年の八王子セミナーの時、恩師である村岡典嗣氏が言われた言葉として「実証より論証」を初めて取り上げられました。今まで村岡氏が言ったことの意味がよくわからなかったが、今では”村岡氏が言った実証とは「他人が言ったこと」の意味で、実証より論証とは「他人の言ったこと」を鵜呑みにしてはいけない”ということではないか、と思い出のように語られたものです。
現在「古田史学の会」ではこの時の先生の言葉の字面だけを取り上げ、まず実証=証拠と意味付けをし、次に「実証より論証」とは「仮説から出発する論の展開方法」のこととし、そして「難波宮副都説」や「近江朝の九州王朝系」という仮説から展開している説は古田先生の方法に従っている、としているものです。
古田先生の学問の方法とは、川瀬氏が指摘されているような歴史学研究に使われている当たり前の普通の学問の方法です。それを最近の「古田史学の会」が日本古代史学会だけが使っている旧来の学問の方法に戻ってしまったので、混乱が生じているものです。 古田先生の学問の基本は「史料根拠に基ずく実証的な歴史研究」です。

肥沼さんの良いところでもありますが、他者の書いたものを無批判に信用されることは危険です。誰かが古田先生の書いたものを引用している場合でも、中略のところに重要な部分が有ったりして、引用者の主張と違う場合があるのですから!

上城さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんの良いところでもありますが、他者の書いたものを無批判に信用されることは危険です。
誰かが古田先生の書いたものを引用している場合でも、中略のところに重要な部分が有ったりして、
引用者の主張と違う場合があるのですから!

そうでした。川瀬さんに,「実証より論証」という言葉の出典を示そうすることに急ぐあまり,
しっかりした自分の努力を怠っていました。反省します。

大下さんへ
コメントありがとうございます。

〉 古田先生の学問の方法とは、川瀬氏が指摘されているような
歴史学研究に使われている当たり前の普通の学問の方法です。

〉 古田先生の学問の基本は「史料根拠に基ずく実証的な歴史研究」です。

つまり「原点に戻れ」,「史料根拠に基ずく実証的な歴史研究を進めよ」ということでよろしいのですね。

肥沼さんへ
「史料根拠に基ずいて実証的な歴史研究を進める」という古田史学の原点に戻ることが必要と思っています。

大下さんへ。
『最近の「古田史学の会」が日本古代史学会だけが使っている旧来の学問の方法に戻ってしまったので、混乱が生じているものです』と、おっしゃられた。
 やはりそうでしたか。「難波京副都説」や「近江朝の九州王朝系説」「近江年号説」などはとても魅力ある仮説ですが、厳密な史料批判に基づいた史料による実証も論証もされてはおらず、仮説に仮説を重ねているのではないかと違和感をもっておりました。この方々は古田さんの弟子を標榜しておりながら、古田さんの歴史研究方法をきちんと理解していないのではないかと、前々から感じていました。
 ご本人たちがこれに気が付いていないことが本当に困ったことだと思います。
追伸: 私が属している文芸同人の機関誌に、古田さん追悼のための「古田論」を二篇書きました。近日中に私のサイトで見られるようにしますので、お暇があったら覗いてみてください。肥沼さんと古賀さんには原本をお送りしてありますが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

『ペガーダ18』が届きました。
これから読ませていただきます。
まずは,お礼まで。

川瀬さんへ
コメント有難うございます。川瀬さんのサイトとは「学校を変えよう」製作者コアラさんですね。読ませていただきます。

現在の古田史学の会は、古田先生の学問の方法を、意識的に無視し、古田武彦の名前だけを利用している確信犯だと思います。この点、大下さんと、古田先生のお子さんである古田光河さんと、どうしたら良いのかを、協議中です。

大下さんへ
 私のサイト「学校を変えよう」のトップページの一番下に「文芸同人アニマの会の機関誌『ペガーダ』掲載の文書」というコーナーを新たに作りました。ここから入っていただければ、古田論の二篇はダウンロードできます。すべてpdfファイルです。

川瀬さんへ
長く九州へ行っていたので肥さんブログを開けるのが遅れました。早速『ペガーダ』掲載の追悼文を読ませていただきました。素晴らしい送る言葉で、古田先生も真のお弟子さんをもう一人見つけられたと喜んでおられたと思います。小生は専門が語学で定年後偶然に古田先生のエクアドル訪問ツアーに通訳として参加し、この旅行で古田先生のお人柄に触れたのが古代史の勉強を始めたきっかけです。古田先生は何も特別なことを言われていたのではなく、当たりまえのことを言われていただけです。本当の古田先生の学問を学びたいと思っている仲間は沢山います。これからも仲間と本当の勉強を続けていきたいと思っています。有難うございました。

大下さんへ
 私の古田さん追悼の文を読んでいただきありがとうございました。
 私も大下さんに刺激されて、大下さんの古賀説批判と古賀説そして正木説を詳しく読んでみました。古田史学会報117号の大下さんの論文「前期難波宮・九州王朝副都説批判 「史料根拠と考古学」について」は、古賀説・正木説の問題点をとても簡潔に分かりやすく示し、これが学問的にはまったく成り立たない架空のものであることを明らかにしていると確信しました。こうなると古賀さんや正木さんには、二つの対応しか選択肢がないと思いました。一つは全面的に自説の非を認めて撤回する。もう一つは、あくまでも自説にこだわり、大下さんの批判を無視する。この二つしかない。
 古田史学会報は大下論文以降が公開されていないので、それ以後の古賀さんのブログとそこに紹介された古田史学会報の各論文の標題を参考にして、古賀説に対する大下批判がだされた以後の古賀・正木両氏の対応を検証してみました。
 私の予想どおり、お二人は大下さんの批判をまったく無視し、いかに自分たちが古田さんの学問の方法を正しく継承しているのだと多言を弄する一方で、古賀さんは、大阪歴博のその後の「新発見」を次々と鵜呑みにするだけで批判的に検討せずに自説が正しいと述べ、正木さんは次々と書紀の記事は34年動かした盗用だとの自説をますます広げているだけだと見受けました。その上、古賀・正木説を前提にした様々な仮説を出す論者が次々と出現している。
 なぜ古田史学の会でこんな暴挙がまかり通るのか。なぜ古賀・正木両氏は間違った方法論に踏み込んでしまったのか。ここが知りたくて、古賀ブログを過去にさかのぼって精査する一方、古田史学会報も過去にさかのぼって精査しているところです。
 思うに古賀さんのいう九州王朝説に刺さった三本の矢という認識そのものが間違っていると思います。
 九州王朝説は、日本・韓国・中国の一次史料を精査して見出された確固たる学説です。九州王朝説を無視する古代史学界は、彼らが信奉する政治的イデオロギーを崩壊させる力が九州王朝説が持っているから、排除しているのであって、どんなに学問的に反論しても、イデオロギーはそれ自身が崩壊しないかぎり、九州王朝説を受け入れることはありません。
 これを否定するかのような考古学の学説があるとすれば、その考古学説そのものが間違っている可能性は極めて高い。九州王朝説を否定するかのような考古学の学説そのものを精査して、考古学者の認識そのものが間違っていることを明らかにすれば済むことです。かつて古田さんが巨大古墳の最密集地域が北九州ではなく畿内だから畿内こそ日本列島の中心だとの説に対して、巨大古墳がなぜその地域でその時期に作られたのかを考察しないで、巨大古墳=強力な権力の存在証明とする考古学者を批判されたようにです。
 難波宮の下層の宮殿遺構。これを7世紀中期とする大阪歴博見解にたいして7世紀末の天武期との見解があるのだから、この天武期ならば九州王朝説否定にならないことから、この説に依拠して歴博説を批判的に検討してみれば、この難波宮下層の宮殿遺構の年代を7世紀中期とする説の問題点が明らかになったと思います。そしてその問題点を精査していけば、九州王朝の遷都や副都説など出てくるはずはなかった。
 私は国分寺について研究してみて、7世紀の寺院の最密集地が畿内であって北九州ではない、という考古学的認識が間違いであることを確信しました。古代寺院の建立年代を確定するのは極めて難しい。絶対年代が出てくるのは文献資料に掲載された寺院だけ。それも7世紀を示す文献資料の第一は近畿天皇家が編纂した日本書紀なのですから、畿内の近畿天皇家が建立した寺院の記述は詳しくなされても九州王朝のそれは完全に除外される。その当時の文献で創建年代がわかる7世紀の寺院は近畿が多いに決まっている。そして瓦という重要な遺物の場合も、近畿中心で考えられて編年されるから、九州はどうしても畿内に比べて後の年代になるし、伽藍形式の変遷でも伽藍形式の意味を考察しない限り、文献での絶対年代がわかる畿内中心に伽藍形式の変遷が考察されるから、どうしても九州は除外される。
 国分寺を研究してみて、国分寺の多くは、その伽藍形式から8世紀後半ではなく、8世紀前半や7世紀後半、いや7世紀前半ではないかと思われる寺院を多く見つけましたし、続日本紀の記事の精査から、聖武の国分寺建立詔は、すでに各国府に存在した官立寺院(国府寺とおもわれる)に七重塔を造れとの詔にすぎないことを確認し、これが国分寺と呼ばれるようになったのは、この詔の少し前に、諸国の国府の官立寺院に金光明経を書写して配布したから、これを持っている官立寺院を、「国分の金光明経を持っている寺院」という意味で、「国分金光明寺」と呼び、この略称として「国分寺」という名称が出てきたことを確認しました。「国分金光明寺」「国分寺」という名称は、それ以前の九州王朝時代にあった各国府の官立寺院、おそらく国名+寺と国名+尼寺という名称であったと思われる(たとえば武蔵寺と武蔵尼寺)ものを、歴史から抹消するためのものであったのでしょう。国分寺遺跡の状況からも、続日本紀という一次史料の分析からも、全国の国府に九州王朝時代から僧寺と尼寺があった可能性が大きいことと、これを入れてみれば、九州にも7世紀の寺院が数多くあったことは証明できると考えています。
 九州王朝説を維持するために、間違った考古学的認識に基づいて、一次史料の解釈を変更する、もしくは恣意的に解釈するなどやってはいけない。
 古田さんは、思い付きやアイデアは大事だが、それはかならず史料で裏付けられていなければいけないと。つまり史料で実証されている、史料に基づいたアイデアや思い付きでなければ、学問上の仮説ではなく、その仮説は、他の周辺の史料とも整合性があって初めて学説として認められると。
 なぜこんな簡単な当たり前のことを古田史学の会の人が気が付かないのでしょうか。
 「本当の古田先生の学問を学びたいと思っている仲間は沢山います。これからも仲間と本当の勉強を続けていきたいと思っています。」との大下さんのお言葉。百万の味方を得た思いです。
 私の歴史学の主戦場は近代史です。ご関心があれば、私のサイトもご覧ください。「齋藤修一郎研究」と「徹底検証新しい歴史教科書」研究です。こちらに精力を集中する必要上、古代史にはあまり深入りできませんが、乗りかかってしまった国分寺研究を通じて、少しは古田さんの本当の学問の方法を広めていくお手伝いができればと思っています。

川瀬さんへ
小生の論文の検証をし、また理解していただき本当に有難うございます。古賀さんの三本の矢も川瀬さんのご指摘の通りで、自明のものを古賀さんが勝手に問題として取り上げているだけのものと思っていました。
古田先生の学問の方法につては「古田史学の会」関西例会で発表しその内容を会報投稿しましたが、会報掲載を拒否されました。一方東京では古田会が先生の学問の方法論を勉強したいということで小生に声がかかり、その時は多元の会からも幹部の方に参加いただきました。その時の講演内容が古田会ニュース172号に掲載されています。川瀬さんのブログ「学校を変えよう」のメール欄を利用し添付ファイルでお届けしました。

小生は史料根拠から歴史事実を学ぶとはどうのようなことか実践しようと、地元豊中の古文書講座に参加し、豊中に残された江戸時代の庄屋文書を読んでいます。ここでも学校で学んだ歴史とは違った姿が見えてきました。中世、近世史にも興味をもっています。『徹底検証新しい歴史教科書』1,2巻はすでに発注しました。到着を楽しみにしているところです。
私たちの豊中の会では現在『日本民衆倫理思想史研究』などを書かれた布川清司さんに来ていただき連続講座を受けています。
単に古文書を読むだけでなく史料の見方なども教えてもらっているところです。

大下さんへ
 送付された諸資料を先ほど受け取りました。ありがとうございます。
 「古田史学の会」は大下さんの古賀説批判の投稿文を掲載拒否したのですか。末期現象ですね。言論の封殺に出るとは。広く会員に知られることを恐れたからでしょうね。古賀さんたちはここまで堕落腐敗しているのですね。大下さんの古賀批判を読んだあと、おそらく居直ると予想しましたが、これほど酷いとは思いませんでした。これでは古田さんの説を排除した古代史学界とまったく同質です。
 この批判文を東京古田会が会報に掲載されたとのこと。古田さんの衣鉢を継ぐ者の中にも、しっかり問題を見据えようとする方がおられることは少し安心しましたが、関西の古田史学の会はどうなってしまったのでしょうね。
 じっくり読ませていただいたあとで感想をお送りします。

大下さんへ
 送付された資料と、参考にされた古田さんの著書の該当部分を読みました。大下さんの古田さんの学問の方法論についての要約は、まことに的確で、付け加えることはありません。
 また東京古田会の機関誌に掲載された、古田さんの方法論に基づいて古賀説を批判したものも、一部の隙もなく、完璧に古賀説が学問的にはなんの根拠もないものであることを論証したものと判断します(大下さんは古賀説を「作業仮説でしかない」とされましたが、仮説どころか、根拠となる事実を全く持たない、空理空論だと思います)。これはすでに「古田史学会報」の117号に書かれた大下さんの古賀批判で十分なされていたことですが、今回は古田さんの学問の方法に照らして古賀説を検証した結果、古賀説は古田さんが否定した古代史学界の方法論に逆戻りしていることを論証したすばらしものでした。
 一点だけ付け加えれば、古賀さんが前期難波京九州王朝副都説を批判するのなら、考古学的事実を持ってしろと言っていたことに、たいしてお答えすることだけです。
 古賀さんの「洛中洛外日記 第524話 2013/02/10七世紀の須恵器編年」に書かれていたことですが、大阪歴博の、前期難波宮を7世紀中ごろとする説を批判する小森説を批判した部分で、小森説は、前期難波宮の整地層からわずかに出てくる須恵器杯Bを根拠にして、これは7世紀後半の天武期のものとしたことは誤りであると論じ、整地層から最もたくさん出てくる須恵器杯はBよりも古いHとGであると指摘し、この須恵器杯が示す年代は7世紀中ごろなのだとしています。おそらく大阪歴博の見解を踏襲しているのだと思いますが、整地層が作られた年代を判定する際の根拠は、通常はその中の最も年代の新しい遺物を持ってするものなので、前期難波宮の整地層は、7世紀後半以後と判断できるのです。ただしこの際注意が必要なことは、その層の上層を後世に道路や溝や耕地整備などで攪乱した結果として、後世の土器が下層に紛れ込むことがありますので、ここだけ注意が必要です。したがってもっとも新しい須恵器杯Bを前期難波宮整地層形成時期を判断する基準から排除するには、「数が少ない」からではなく「上層の土器が後世に紛れ込んだ」と判定されたときだけなのです。
 しかし古賀さんはこの「後世の土器が紛れ込んだ」ではなく「数が少ない」だけしか挙げていないので、須恵器杯Bを排除して年代判定する方法そのものが間違いであることは明白です。
 前期難波宮はしたがって7世紀後半以降の宮殿遺構であります。
 また「洛中洛外日記 第511話 2012/12/30難波宮中心軸のずれ」でも古賀さんは、本人は気づいていないのですが、前期難波宮が天武期のものであることを示す事実を学芸員・李陽浩(リ・ヤンホ)さんが話したことを紹介しています。それは、後期難波宮遺跡は前期難波宮遺跡の方位をほぼ正確になぞっており、さらに前期難波宮の焼け跡の柱穴跡を慎重に避けて新たな礎石を置いているという事実です。
 これは後期難波宮を造営した8世紀中ごろの聖武朝のときに前期難波宮の焼け跡の柱穴が残っており、それを聖武朝の人々は大切に保存しかつ、それを破壊しないようにして前期難波宮の朝堂院中庭部分にすっぽり入るように大極殿と朝堂院を作っているということを示すと、古賀さんははっきり書かれています。その意味は論じていないのですが。
 聖武朝がこれほど前期難波宮の旧跡を大事にしているという事実は、前期難波宮が、聖武朝がその直系の先祖としてあがめる天武朝のものだということを示しています。 聖武朝は天武朝の直系王朝です。そして聖武にとって男子の継承者がいないということは、ここでもって天武朝が断絶する危険に直面したということです。聖武朝はなんとしても天武系を続けようと奮闘した王朝ですから。
 最後に一点。古田さんが間違った方法論に依拠した古賀説(正木説も同じく)に対して反論をしていなかったのだろうかと疑問に思っていました。今公開されている古田史学会報の最後の部分に、古田さんが学問の方法について書かれていることを発見したとき、この続きに古賀説批判があったのではないかと想像していました。しかしそうではなく「私の学問の方法に戻れ」という論文があったということを初めて知りました(「切言」)。読んでみたいと思います。
 できましたら添付ファイルでお送りください。
 それにしても古賀・正木両氏の古田さんに対する対応は失礼極まりないものであり、古田さんが体調不良で反論できなくなり、そのまま亡くなられたのを良いことにして、自分たちこそが古田史学の正統であるかのごとく振る舞い、これを批判した大下論文の掲載を拒否するとは。完全に古田さんが批判した古代史学界主流そのものに成り下がった堕落腐敗したものなのですね。何でこんなところに踏み込んでしまったのか。 
 九州王朝論に刺さった三本の矢に明確なように、彼らは古田さんの学問の方法を理解せず、表面的に真似ているだけであったということなのでしょう。ここを公開された資料を基に考察しているところです。

 追伸:私の著書をご注文いただいたとのこと。ありがとうございます。この本は私のオリジナルではなく、古代史・中世史を論じた多くの論考を読んで、私自身が、その方法論に納得した学説だけを使って書いたものです。古田さんの「私の学問研究の方法について」を読み直してみて、改めて、私が、「新しい歴史教科書」を徹底検証するときにつかった方法論の正しさを確認しました。ありがとうございました。
 追伸2:大下さんの古賀説批判を読んでいて、自分自身の問題を考えました。つまり、古賀説・正木説を批判するだけではなく、他山の石とするということで、国分寺研究において、後代史料を無批判に利用しているところがあるなと。九州王朝が全国の国府近傍につくった官立寺院を「国府寺」としてきましたが、これはずっと後世の史料にしかない言葉なので、正しくは不明とするべきものでしょう。あるいは「続日本紀」に、「筑紫観世音寺」と「筑紫尼寺」とがセットで出てくるので、九州王朝が全国の国府に作った官立寺院は、「国名+寺」「国名+尼寺」であったと考えていましたが、そうではなく、「国名+観世音寺」と「国名+尼寺」であったのかもしれないというアイデアが生まれました。それでもその総称はやはり不明ですね。近畿天皇家がこれらの寺に、金光明経と法華経を配り、それぞれを「国分金光明寺」「国分法華尼寺」と呼ばせ、その略称としての「国分寺」「国分尼寺」と呼ばせたことは、九州王朝が作った全国的官立寺院の痕跡を消すためであったことは確かだとは思いますが。九州王朝が作った全国的な僧寺・尼寺の総称を示す痕跡が、「日本書紀」と「続日本紀」にないのかどうか、今一度精査してみようと考えています。

大下さんへ追伸3:
 前のコメントを書いた後、今朝になって古田史学の会のサイトを再訪し、古賀達也の洛中洛外日記を精査していましたら、古田さんの遺言とも慟哭ともとれる詩を見つけました。
 ●古賀達也の洛中洛外日記 第643話 2014/01/12賀詞交換会の御報告の中の古賀要約による、古田さんの講演の内容の最後です。
 わたしは明日死ぬかもしれないので、今のうちに言っておきます。わたしは早晩死んでいきますが、皆さんにあとをついでほしい。
(古田先生の詩)
 偶詠(ぐうえい) 古田武彦 八十七歳
竹林の道 死の迫り来る音を聞く (12/24)
 天 日本を滅ぼすべし 虚偽の歴史を公とし通すとき (12/23)

 表面的には古代史学界が古田説を排除したままのことを嘆いているように見えますが、真実は、古田史学の会の中に、古田さんの学問の方法を改竄して別物に変え、自分の思い込みに基づいて史料を勝手に改編したり、考古学の成果をゆがめて援用したりする人々が蔓延していることを嘆いたものだと思います。
 最後の詩にある「日本」は「古田史学の会」と読むべきでしょう。
 大下さんによる古賀説正木説の根源的批判が会報でもなされたにもかかわらず古賀さん正木さんとそれを支持する人々はこれを無視し続けている。これへの批判の想いと、でも弟子たちの中に真実の学問の方法にたって古田史学の会を正道に戻してくれると期待し信じておりながらも、同志と思ってきた人々に裏切られたことへの慟哭とがない混じったものと考えます。古田さんにここまで言わせてしまう、古賀さん正木さん彼らに同調する人々に怒りすら感じます。
 古田史学会報117号での西村さんの古田さんへの反論は論点をずらした酷いものでした。当然ふるたさんは118号での「古田史学の真実 -- 西村論稿批判」でこの辺りを痛烈に批判されたことと思います。この118号の古田さんの論説も読んでみたいと思っています。

 肥沼さん
 118号の古田さんの「古田史学の真実 -- 西村論稿批判」と119号の古田さんの「続・古田史学の真実 -切言-」を是非コピーして送ってもらえませんか?よろしく。
 

川瀬さん

「聖武朝がこれほど前期難波宮の旧跡を大事にしているという事実は、前期難波宮が、聖武朝がその直系の先祖としてあがめる天武朝のものだということを示しています」はご指摘の通りです。九州王朝説からは説明がつきません。
このために古賀さんたちは「天智・天武は九州王朝系(洛外日記第1167話)」のような、さらなる仮説をたて、典型的は「仮説の積み重ね」の泥沼に陥り始めています。

すでに内部において一部会員は気付かれています。多くのが会員が誤った方向に進まないように発信を続けていきます。

古田史学会報118、119号の古田先生の論文は別途メールしました。

川瀬さん

追伸
さきほどの投稿に記しました洛中洛外日記第1167話は天智・大友が九州王朝ということです。訂正します。ただ第692話で「藤原宮は九州王朝の宮殿」という仮説をだされています。

最終的には七世紀に東遷した「九州王朝」が701年に「日本国」を名乗った。そしてその王朝は現在の天皇家につながっている、との説になっていくのではと推定しています。

川瀬さんへ
追伸

いろいろ御指摘いただき有難うございます。今まで対話というものが出来なかったので本当に嬉しく思っています。

なお、ご指摘いただきました須恵器編年については古田史学の会関西例会で説明した資料を別途メールしました。大阪府近つ飛鳥博物館の白石氏すら大阪歴博の年代観について疑問を呈しています。

ただ土器の実年代については決定的なものがないので、これから土器と瓦の年代、とくに九州の土器・瓦の実年代について集中的に調べたいと思っているところです。

ポイントは三方五湖で発見され、現在C14年代測定の世界基準となっている「年縞」です。この年代の物差と出土物のC14を比較すればかなり正確は実年代が算出できるのではないかと思っています。日本の古代史学会は無視を続けていますが。

さらに壱岐では弥生時代、すでに帯方郡の陶質土器が作られていたとの情報もあります。
現在九州と近畿での土器・瓦の編年は同じ時代のものと考えられていますが、九州のほうがかなり早いようで、これを明らかにすることがまず必要と思っています。

大下隆司

大下さんへ
 お送りくださった古田史学の会会報118と119の資料、じっくり読ませていただきました。
 古田さんは常に自分自身の研究成果についても再考し深め、旧説の訂正や補足、さらには新たなる説の提示へと進化し続けています。そしてそれはご自身の研究方法にも向けられている。「言素論」はその一つですね。
 古田さんの本を斜め読みして感動しただけで、その方法論を理解していない人は、古田さんの論証過程を無視して結論だけを覚えてしまいます。そういう読者にとっては、古田さんが旧説を大幅に変更したり、新たな方法論を開発したとき、「?」となってしまって生理的な拒絶を示すことがありますね。私の身近でもそんな例がありました。西村さんの反応は、古田さんの学問の方法がわかっていなかった上に、新しい方法論への戸惑いの結果でしょうか。
 古賀さんは「前期難波宮九州王朝副都論」を維持するために、さらに仮説に仮説を上塗りしており、これでは嘘に嘘を重ねるのと同質になっていますね。天智・大友朝を九州王朝系としたに続いて、藤原京も九州王朝のものとする。この帰結として天武朝もまた九州王朝系とすることは必然でしょうね。何しろ書紀によっても天智と天武が兄弟とは信じられないような内容になっており、これは別王朝ではないかとの心証が得られるほどなのですから。ただこれを史料で証明するのはかなり大変ですが。
 古賀さんが問題の須恵器杯Bが太宰府政庁のⅠ期Ⅱ期から出ているからこの実年代は7世紀中ごろだと言っています。これもかなり詭弁で、最初は「須恵器杯Bによく似た」と言っていたのが検証も経ずに「須恵器杯B」となって論じています。おそらく前期難波宮の年代を考えるのに須恵器杯Bを除外するのは無理があることに気付いたのに、旧説の誤りを訂正するのではなく、さらに補強するのに、考古学の成果を誤って利用したのでしょうね。
 先にお話しした、前期難波宮整地層の年代を測定するのに、その中に最も多量に含まれた須恵器で年代測定するのではなく、最も新しいもので測定するというのが考古学の常道という話。古賀さんはここがまったくわかっていなくて、●古賀達也の洛中洛外日記 第525話 2013/02/12前期難波宮と藤原宮の整地層須恵器では、「もし天武紀の副都詔(前期難波宮天武期造営説)が仮に正しかったとしましょう。その場合、次の考古学的現象が見られるはずです。すなわち、前期難波宮造営は683年以降となり、その整地層からは680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。同様に680年代頃から造営されたことが出土干支木簡から判明している藤原宮整地層からも680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。すなわち、両宮殿は同時期に造営開始されたこととなるのですから、その整地層出土土器様式は似たような「様相」を見せるはずです。」と論じています。
 なぜ整地を行った時代の須恵器が一番たくさんは出てこないのか。普通に考えれば、谷を埋めて平らにする際に使用する土砂は、どこか別の少し標高の高いところを削って持ってくる。削った場所に以前集落があったり、集落を移動させて削った場合、その土砂に須恵器が混じる。ただしこの須恵器は破損したのでごみとした捨てたものでしかありえない。住人が現に使用しているものは、住居移動の際に持っていく。だから整地層に含まれた須恵器は、整地を行った時期のものは少ないのですね。
 こんな当たり前のことをなぜ理解できないか。おそらく古賀さんが信奉する大阪歴博がこうした強引な解釈をしているからでしょう。
 また古賀さんが前期難波宮を7世紀中ごろとする証拠に、水利施設の木枠の年代を挙げています。その伐採年代は年輪年代法から634年だと。そしてその木枠の下の「石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されて」いるから、この水利施設は7世紀中葉のもので宮域に井戸のないために作ったものと断定しています。
 でも水利施設という水をたくさん使うところに木材を使うには(いやそうでないばあいも)長時間乾燥させないと、木材が水分を吸収して変形して使えなくなります。それは自然乾燥法だと30年はかかります。だからこの木枠の伐採年が634年なら実際に木枠として使用したのは660年代以後になるのです。しかも年輪年代法には誤差もあります。そして石を固定する客土に含まれた土器が7世紀中葉ということは、この土も7世紀中葉以後、すなわち7世紀後期に削り取られたということを示します。
 古賀さんが、前期難波宮を7世紀中葉だとした証拠は、逆にこれを否定して、7世紀後半であることを示しているのです。おそらくここでも大阪歴博の見解を盲信しているせいですね。
 あと、なぜ古賀さんのように古田さんと長く同志として活動してきた人が、古田さんの方法論を否定し逸脱したかという問題です。
 これは古賀さんが市民の古代研究会分裂時から事務局長でこの分裂に悩み、さらに古田史学の会を作っても、古代史学界には受け入れられないばかりか、会員の高齢化に伴い、会の消滅という危機に、真剣に向き合ってきたからだからだと思います。つまりどうやって近畿天皇家一元史観を打ち破るかと、古田説をいかにして多くの人に広めるかに心を砕いてきた。
 このため古賀さんはどこかに書いてあったと思うのですが、20年以上前から、前期難波宮が孝徳の都で7世紀中葉だという問題を考えてきたとのことなので、慣れない考古学の勉強を必死にしているうちに、前期難波宮は孝徳の都だと書紀の記述を鵜呑みにして、考古学の研究方法をすら無視し逸脱している大阪歴博の研究方法に感化されてしまったのでしょう。その結果、書紀の記述の読み替えや記事の移動という、禁じ手に踏み込んでしまったのです。そしてこれを禁じ手と理解できなかった理由は、古賀さんは古田さんの歴史研究の方法論を理解しておらず、表面的に真似してきた人だったからだと思われます。
 これは古賀さんの日記やブログ、そして古田史学会報の彼の論文を年代順に精査してみれば証明できると思います。
 さらに正木説は、この古賀さんの前期難波宮九州王朝副都説を補強するために出てきた説だと思います。34年記事が移動されたと考えれば、古賀説とも一致するということを、論文に書いてあったと思います。すなわち信頼する古賀さんの説を補強するために作り出されたもの。
 すべては、前に書いたように、九州王朝説に刺さった三本の矢と古賀さんが考えてしまったことに始まります。繰り返しになりますが、九州王朝説は当時の一次史料で証明された確固とした認識です。考古学の学説がこれに反する場合には、考古学の学説が間違っているのです。その方法論が文献史学に依拠していたりした場合がそうですし、さらに遺跡の現状把握に間違いがあるかもしれませんね。そう考えて、考古学の学説を精査し異論が出ていないかどうか調べれば良い。異論があれば双方を検証すると真実が見えてきます。古田さんは考古学を調べるときも、いつも学説史を精査しておられました。考古学者の論争の歴史の中に真実が見えるからですね。
 そしてさらに前期難波宮と表記してしまうことからの誤解もありますね。正しくは、「難波宮跡下層の宮殿遺構」です。上層の宮殿遺構が8世紀中ごろの聖武朝のものはめいはくで、この宮が「難波宮」と呼ばれていたことは文献で証明できます。でもその下層のものは誰のいつのなんと呼ばれた宮なのかはわからない。なのに「前期難波宮」としたために、8世紀中ごろよりも昔から難波という地名でここが呼ばれていたように誤解される。
 古田さんが指摘していたように、書紀の孝徳紀の難波は、大阪の難波ではなく、北九州の難波であると理解するのが正しい。大下さんがご指摘の、最新の地層ボーリング調査による上町台地付近の地形図によって、ここには7世紀中ごろには難波津はなかったことが証明されています。つまりここは難波ではなかった。ではいつから難波津と呼ばれるようになったのか。ここを精査していけば、7世紀中葉ではないことは明白です。
 大下さんの会報117号での古賀説批判は、最初にこの地形図によって難波が難波津が7世紀中葉にはなかったことを示して、古賀説が架空であることをまず指摘。そのうえで古賀説が、大阪歴博の妄説を盲信していることと、これに対して天武期の宮だとの有力な学説があることを示し、さらに正木説は、根拠もなく史料を読み替えたり移動させている妄説だと批判した。だからこの批判は、古賀説は学問的には成り立たないと、その方法論から批判した完璧なものであるので、古賀さんは、これを無視するか、全面降伏するかしか対応の選択肢はないと考えたのです。
 以上は大下さんはお分かりのことと思いますが、この夢ブログを読んでいるかたでわからないかたもいると思うので補足させていただきました。
 私が今やっていることは、古賀説は考古学的にも文献史学的にも学問的には成り立たないことはすでに明白なので、なぜ彼がこのような誤った道に踏み込んでしまったのかを資料で論証しようとしていることろです。この答えはすでに先に仮説として提示しました。この仮説は、古今東西の科学における捏造の歴史を研究した研究に依拠して立てたものです。その例の一つが日本における旧石器に捏造問題。この例の分析は私のサイトに書いてあるので、興味のあるかたはご覧ください。

 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/haisin.htm

 です。他のリンクは古いので、すでにつながらないかもしれません。

肥沼さんへ

 2013年 「多元」№113・115「言素論の本質」「『言素論』の理論的考察」。
 この二つの古田さんの論文を読みたいです。
 ぜひコピーして送ってください。急いではおりませんので、お時間のあるときにお願いします。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

すみませんが,引越以前のものは処分してしまって,おそらくないと思います。
なにしろ三紙(古田史学会報,多元,東京古田会)を購入していますので,
すぐ山のようになってしまいます。

肥沼さん、他の方々へ
 肥沼さん。処分してしまったのですか。貴重な研究資料なのに。残念です。
 他のこのブログの読者の方で、多元113・115をお持ちの方がおられましたら、コピーして川瀬までお送りいただけないでしょうか。私のサイトのメールシステムを利用すれば添付ファイルで送れますので。
 よろしくお願いします。

川瀬様

木材を長く寝かせるのは「水分」を吸収して変形する」のを恐れるためではなく、逆に「急激な乾燥によって変形する」ことを避けるためのはずですが。
そもそも柱や梁など変形することで建物全体に影響を与える可能性がある場合は充分に乾燥させ、材の中の水分を放出させた後に使用することとするわけですが、水利施設ならばそれほど変形が他の部材に影響を与える可能性は低いと見るべきであり、考慮する必要性が低いのではないでしょうか。(逆に充分乾燥させた部材であれば「樋」に使用すると下場合吸収する水分量も増えますから、それによる変形はあり得ると思われ、寝かすことが逆効果になる可能性さえあるように思えます)
そう考えると「樋」の伐採年代と実際に使用された年代はそれほど離れていない可能性もあるように思われますが、いかがでしょうか。

James Mac さんへ
 「木材を長く寝かせるのは「水分」を吸収して変形する」のを恐れるためではなく、逆に「急激な乾燥によって変形する」ことを避けるためのはずですが」。なるほどその通りでしたね。私の勘違いです。
 ネットで木材の乾燥について調べてみました。 
 立木はそのままだと水分含有量が150%だそうな。建築木材に使用するものはこれを含有量20%に減らさなければならない。その際の自然乾燥法の場合は、木材の種類によって異なるが杉なら屋外に置いて雨にさらしながら徐々に減らしていくのだそうです。やはり急激な乾燥が大敵なようです。乾燥期間は「天然乾燥は乾燥にかかる時間が長く、平均して半年から一年くらいが目安となります。断面の大きな材は2年も3年も必要なものもあります」となっています。
 http://www.homarewood.co.jp/lumbermill-document-9.htm
 が出典です。
 水利施設の樋の場合はどの程度の大きさの木材が必要なのでしょうね。
 またこれは記憶ですが、地盤が軟弱で地下水の多いところを補強するときには基礎として赤松の丸太を打ち込みますが、これは皮付きの生材ですね。この方が長期間腐らずに土台として機能すると。
 では水利施設の樋の場合はどうなるのでしょうか。
 樋は常時水につかっているわけではなく、水が流れている間だけであることは土台としての松の丸太とは条件が異なります。そして流水に触れるのは樋の内側だけ。だが樋の外側も地下水やしみ込んだ雨水にさらされます。おそらく樋の内側と外側とで水分にさらされる時間が異なると思うのです。たぶん外側の方が常に水分にさらされ水分の吸収は激しい。内側は木面をつるつるに削ってあれば流水ですから水分の吸収は少ないはず。このあたりの外側と内側の水分にさらされる度合いの差をどう考えて樋をつくるのだろうか。
 樋ですから分厚い木材を組み合わせて作るのではないかと思うのですが、生木など乾燥させていない板材で樋を作るのでしょうか。
 それともそもそも生木である丸太をくりぬいて樋にするのでしょうか。
 以前何かのテレビ番組で水利施設の樋を分厚い板材を組み合わせて作ってあったのを見た記憶があります。江戸時代のものですが。
 そもそも生木の状態で板材に製材できるのでしょうか。生木に鉋はかけられない。
 一定程度乾燥させて鋸で板材に切り分けられる程度にする必要があると思うのです。
 そして板材で樋を作るということは、部材が途中で変形すれば樋としての機能がなくなるはずです。
 したがって、「水利施設ならばそれほど変形が他の部材に影響を与える可能性は低いと見るべきであり、考慮する必要性が低いのではないでしょうか。(逆に充分乾燥させた部材であれば「樋」に使用すると下場合吸収する水分量も増えますから、それによる変形はあり得ると思われ、寝かすことが逆効果になる可能性さえあるように思えます)」と考えて良いのかどうか。
 板材を組み合わせて樋としたばあい、板材を建築物などのように十分乾燥させてから組み合わせるのか、それとも水分含有量が高いままで組み合わせるのか。ここを調べてみたいと思います。

川瀬さん、James Mac さん
<泉施設>
難波宮の外、西北の所の井戸には石組で作られた水路がさらに西北の方向200mに向かって存在していたことが確認されています。この水路のさらに西北の方向には七世紀の工房群があったことがわかっています。井戸から組みだされた水はこの工房群に供給されるために作られたものではないか? 難波宮への水の供給のためなら水路は泉施設から北東に作られていなければならないのでは?
井戸枠の木材の年代や客土層に含まれる土器年代とは別に井戸から汲み出された水の供給先の問題も出てきます。調べてみたいと思っています。
<北辺出土の柱根列>
洛中洛外日記1255話に、「難波宮北辺から出土した柱根列が七世紀前半に作られたことが確認され、これにより正木氏の天武紀難波羅城記事の34年遡り説が考古学的に証明された」かのごとく記されています。そして今年の古田史学の会新春講演会でこの発掘を担当された大阪府文化財センターの江浦次長が招かれ講演が行われました。ところがこの講演で江浦氏は柱根列が作られたのは七世紀後半であると明言されました。これは天武紀における難波羅城造営記事が正しいことを証明するもので、正木氏の34年遡り説がきっぱりとと否定されたものです。古田史学の会からはこの講演の案内はされましたが結果についての報告は一切されていません。古賀氏は東京古田会ニュース171号「前期難波宮九州王朝副都説の新展開」で正木氏の難波羅城記事の34年遡上説が正しいかのように記していますが、正木説は江浦氏により否定されています。

これらのことから、小生は難波宮副都説の考古学的根拠は何一つ確実なものはないと判断しているものです。

川瀬さんのメールに
1)新春講演会江浦氏講演の内容
2)多元113、115号の古田先生の論文を送ります。

大下さんへ
コメントありがとうございます。

〉 1)新春講演会江浦氏講演の内容
2)多元113、115号の古田先生の論文を送ります。

私にもお願いできたら,幸いです。
引越で処分してしまいました。(。>0<。)

訂正
2017年4月30日 (日) 20:45 投稿文<泉施設>の四行目に「水路は泉施設から北東」と記しましたが「水路は泉施設から南東に向け」に訂正お願いします。難波宮遺構は泉施設の南東の方向に位置しています。南を北と間違えました。

肥さんへ
1)新春講演会江浦氏講演の内容
2)多元113、115号の古田先生の論文
メール添付で送りました


大下さんへ
 難波宮の水利施設についてのご教示ありがとうございます。また新春講演会江浦氏講演の内容についても。
 お送りいただく史料の到着心待ちにしてします。

James Mac さんへ追伸
 その後いろいろ調べてみました。グーグル検索で「木樋」とやると多数の画像が出てきます。その中に太宰府の水城から出てきた木樋の記事がありました。春日市奴国の丘歴史資料館 ギャラリー 太宰府水城の導水用木樋です。 http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/nakoku/gallery/shasinkan/oodoimizuki.html
 「土塁の下部からは、木の板を組み合わせた導水管(木樋(もくひ))が発見されており、土塁の南側で水を取り入れ、北側の外濠(そとぼり)(想定)に吐き出す施設である」と説明があります。残念ながら大きさは明示されていませんが、これは分厚い板を組み合わせた木樋です。
 また詳しくはまだわかりませんが、平城京から出土した木樋は、丸太をくりぬいたものでした。
 大きな木樋は分厚い板を組み合わせて作り、中規模や小規模の木樋はは、丸太や角材をくりぬいて作ったのではないかと思います。そしてこれらの技術は大正時代位まで続いており、江戸時代の玉川上水や神田上水でも、導水管として分厚い板を組み合わせた木樋がつかわれていました。
 東京都水道館インフォメーション フロアガイド に木樋実物写真あり。
http://www.suidorekishi.jp/information.html
 また岡山の後楽園の排水管としての木樋の記事もありました。
 http://tanimoto.travel.coocan.jp/tabi2/bizenn51.html
「樋の大きさ 幅52㎝ 高さ60㎝ 長さ18m。漏水防止のため粘土で包まれていた。」と説明され、「この樋は園内を回遊して花交池に溜まった水を旭川へ排水するために設置されたもの」で、300年のときを超えてそのまま姿を現したようです。
 難波宮の水利施設の木樋が何の目的でどの程度の大きさかを調べてみれば、丸太や角材をくりぬいたものか、分厚い板を組み合わせたかがわかると思います。
 そして製造方法ですが、板にするには丸太を割かねばなりません。昔は鋸がなかったので、乾燥させた丸太に楔を打ち込んで割る。それを槍鉋で削って板にする。角材や丸太をくり抜くには、これも乾燥させたものを半分に割って、その内側をくり抜き、最後に合わせる。どちらにしてもよく乾燥させたものでなければつくれません。
 また木材の乾燥の目的は、急激な乾燥で歪むのを防ぐためでありますが、もう一つ、よく乾燥させた木材は、生木や半乾きの木材に比べて水分を吸収しにくく、水分をはじくのではないかと思います。我が家の外廊下は、内廊下が合板のフローリングなのに反して、無垢の板材です。この方が水にぬれても傷まないとのこと。そういえば昔の家では外にあった縁側も無垢の板材でできていました。また板塀なども無垢の板材。そして台所の流しも昔は無垢の板材。いや桶は今でも無垢の板材。全部よく乾燥させた板材を使用しています。
 したがって木樋の板材もよく乾燥させたものなのではないでしょうか。その方が加工しやすいし、土中に埋めても水分の吸収が少なく変形も腐ることも少ない。後楽園の木樋のように、土中に埋めるときに粘土で覆っておけば、樋から水が漏れることも少ないし、樋の木材が水に触れることも少ない。木樋を土中に埋めるときにはそうした工夫がされていたと思います。
 湿地など水分が多いところには、木樋ではなく石樋がつかわれていたようです。少なくとも江戸時代の上水では。
 あとは木材の乾燥に要した時間です。
 前に提示した資料は現代の木材加工店のものです。昔はどの程度乾燥にかかったのか。これはまた別途調べてみます。
 私は平家琵琶をやっていて、これは琵琶師さんに作ってもらったもの。琵琶師さんによれば私の琵琶は30年以上寝かせて乾燥させたもの。分厚い硬い木材(クリやかりん、僕のはタガヤサン)を琵琶の胴の形に切って、内側をくり抜く。外側下面や横は丸く削って、首をほぞを切ってはめたのちに、少し柔らかい板材で胴の上面に貼ります。組立はほとんどほぞと膠による接着。乾燥が不十分だと途中で水分を吸ったり乾燥したりを繰り返しているうちに、数年で琵琶がゆがみ、ほぞがゆるんだり接着がはがれたりするそうな。30年乾燥すればまったく歪まないそうです。

James Mac さんへ
 念のために古賀さんの古賀達也の洛中洛外日記 第417話 2012/05/26 前期難波宮の「年輪年代」を再度読み返してみました。
 今議論になっている「前期難波宮」の水利施設の木製品は、「樋」ではなく、「大型の水溜め木枠」と書かれてありました。
 James Mac さんが「樋」と書かれていたのでうっかり「樋」だと思い込んでしまいました。「その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で」とありますので、湧水を溜めておく施設の水を出す出口の木枠ですね。
 ただしこの場合も、乾燥した木枠だと思います。ネットで検索してみればすぐ画像が出てきますが、水路で一旦水を止めておく場合に、水路の両側に溝を切っておいて(おそらく石造とあるので、石に溝を切っておいて)そこに分厚い板をはめたものだと考えられます。
 ため池側の板面は常に水に接していて、反対側は空気に接している。そしてため池の水がなくなれば板面も空気に触れる。どうしても乾燥したりぬれたりの繰り返し。水分吸収が少なくゆがみが少ない板でなければならないので、十分に乾燥させた板だと思います。
 なお年輪年代法には誤差はほとんどないようです。ただし判定の基礎に使ったサンプルによる物差しが正しければですが。

大下様

私は大下氏が言及された江浦氏の講演の内容については承知しておらず、その意味では十分なコメントはできませんが、この「難波宮北側の柱根列の年代」については「酸素同位体」の残存比率から「七世紀前半」の伐採が推定されていることは事実であり、ただその実使用時期がいつかの推定で立場により見解が異なるということのようです。
この「伐採年代」が報告されて以降各所でそれをどう理解するかやや混乱があったようですが、柱が「柵」状の役割があるとするなら「水利施設」同様それほど「寝かせる」期間は必要ないと見る事もでき、その場合伐採年代に程近い時期の使用を推定することもありうるものであり、これを「孝徳朝期」の「難波長柄豊崎宮」の存在証明と考える研究者は決して少数ではなく、その意味で古賀氏が特に恣意的な解釈をしているというわけではないと思えます。(詳細は江浦氏の推論根拠を見る必要がありますが)

また、水利施設が工房のためという解釈は興味深いものです。情報ありがとうございます。

James Mac さんへ
 James Mac さんはあくまでも水利施設に使用する木材はそれほど乾燥させる必要がないと判断されるわけですね。
 では古賀さんの2012年12月10日古田史学会報113号 前期難波宮の学習に書かれた「その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で、そこには大型の水溜め木枠が設置されており、その木枠の伐採年が年輪年代測定により六三四年であると記されていました。そしてその石造遺構の下層と石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されています。従って、この水利施設は前期難波宮の造営時から使用され、宮内に井戸がなかった前期難波宮のためのものであることが判明しました。」という大阪歴博見解に基づく記述に何の疑問も持たないのでしょうか。
 先般から問題になっている水利施設の木製品は井戸の木枠ですね。木枠の年輪年代法から割り出した伐採年代は634年。これは動かせない事実です。ではこの木枠はいつ木枠として使用されたか。これを判断した基準は、木枠の下の井戸の石造施設を支える客土の含まれていた大量の土器の年代からですが、この年代を7世紀中葉と判断し、ここから大阪歴博はこの井戸が作られたのが7世紀中葉と判断した。この判断は井戸枠に使用する木はそれほど乾燥す必要がないとの認識が裏であるものと思われます。
 しかし井戸の石造物を固定するのに使用した石と客土。この客土はどこからか削り取ってこられたもののはず。ここに大量に含まれた土器は、ごみとして捨てられたものであって、この客土を削り取った時代のものではありえません。少し前のものであるはず。こう考えれば、この井戸が作られたのは7世紀中葉ではなく7世紀末と考えるのが妥当。大阪歴博の判断は、難波宮下層の宮殿遺構を、7世紀中葉の孝徳期とする判断が前提にあって、そこに適合させるための強引な判断だと思います。この宮殿遺構を作るための整地層から大量に出た須恵器杯が7世紀中期だから整地工事は7世紀中期だとした判断と同様に間違いです。
 となると井戸は7世紀後期か末に作られたと判断するしかありません。
 したがって井戸の木枠の木は、伐採年から30年は後になって使用されているのです。濡れても水をあまり含まなくなるようにするには長期間の乾燥が必要という私の判断とも一致します。
 ついでに言いますと、同じ古賀論文で木簡のことが触れられています。「これら花崗岩や木簡が出土した「十六層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、「難波3新」で六六〇~六七〇年頃とのことでした。従って、「戊申年」(六四八)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡は作成後十~二十年たって廃棄されたと考えられるとのことでした。」と大阪歴博見解を紹介しています。しかしこの見解も強引です。
 648年の年号が記された木簡が出土した層はごみため。そこに大量にでる土器の年代が660~70年のもの、だから木簡が捨てられたのもこの時代。これが大阪歴博の判断。これもごみとして捨てられた土器がその制作年代に大量に捨てられるはずもなく、使い古されてきて割れた土器が捨てられるのが通常です。したがってこのごみの層もまた7世紀後半から末のものと判断するのが正しいと思います。
 大阪歴博は土層に含まれる土器の年代でその土層が積まれた年代を測定する際に、土器の制作年代で判断するという誤った方法をとっているものと思われます。

川瀬様

「水利施設」(失礼「樋」ではなかったですね。何か勘違いをしたようです。)に生木を使用したとは思いませんが、30年もの長い乾燥期間が必要だったとも思いません。「狂い」や「反り」があってはならない「柱」や「梁」など施設の中枢部分であれば別ですが、「井戸の木枠」にそのような配慮が必要だったとは考えません。しかし板材などに加工するためにある程度は乾燥していることが必要でしょうから、数年程度は寝かせたとは思います。ただし「建物」を建設するのに必要な部材はそのためにあつらえたと見るべきでしょうけれど(それが王権に直結するものであるなら当然でしょう)、「井戸」など周辺施設が同じ考え方で集められたものかは微妙です。古材の再利用がなかったとは言えないと思われ、そうであるならこの「材」の伐採年代を実使用年代と絡めて議論するのはやや危険かもしれません。(そもそも「水利施設」が「難波宮」のためのものなのかが大下様の指摘に従うと「不定」となっていますのでその意味でも再度検討を要すると思われます。)

 また「客土」の中の須恵器について、それら須恵器の年代はその層位における生活年代とは異なるという理解をされているようですが、私見ではその須恵器の使用時期と谷を埋めた時期はほぼ連続しているとみるべきと考えています。
そもそも生活に伴ってゴミは日常的に出るものであり(それは「食器」として使用する「須恵器」も同様に日常的に割れたり欠けたりするものでしょう)、十年も二十年も(あるいはもっと)遡上するほど古いものしかないと言うことは考えられません。
また、藤原宮では「土杭」を掘ってゴミを捨てていたようですが、それはほぼ平地であることがその理由のひとつであったようであり(条坊により囲まれているということのまた理由の一つのようですが)、飛鳥宮域においても谷などにゴミを捨てていたとされます。難波宮においても谷がもっぱらゴミ捨て場として利用されていたようであり、日常的な生活に近接した場所にゴミ捨て場をつくっていたわけではないと考えます。もし至近にあったとしても深い土杭を掘っていたとも思われず(そのような例が発掘されていない)、層位としては生活層と同一レベルと考えてそれほど不自然とも思えません。その意味で(その編年が正しいかどうかは別として)出土する土器(須恵器)年代はその層位における生活年代と大きく違わないとみるのもまたそれほど不自然ではないと考えています。

James Mac さんへ
 井戸枠の伐採年で、遺跡の年代を推定する方法。たしかに宮殿遺構のそれではないので、古材などの利用も考えられますね。
 James Mac さんは水利施設や柵などに使用する木材はそれほど乾燥させる必要がないとの認識ですが、柵に使う杭でも、生乾きの物を使うと短い時間で土中の部分が腐ってしまいます。良く乾燥した材を、土中に埋まる部分と地面の少し上の部分までの表面を火で焼いて表面を保護するのが一般的な使用方法です。常時水に触れている部分、たとえば水中に打ち込む杭の場合は生木で皮付きの方が長く持ちますが。
 水を使う場の木材も同じです。井戸の木枠ですから角材を組んだものですね。どうしても屋外ですから雨にも打たれるし、水をくむ際にも濡れます。だから歪まない木材にすることは必須です。
  あと井戸の石造物固定の客土中の土器を須恵器と即断されていますが、古賀さんが引用した報告書では単に「土器」としか記していないので、これは日常雑器に使用した低温度で焼成した素焼きの「土師器」だと思います。難波宮下層宮殿遺構の整地層から出土して年代測定に使ったものは須恵器で、これは1000度以上の高温で焼成した、硬い陶質土器で、当時としては高級品です。
 須恵器が割れた場合当時の人はすぐに捨てるのではなく、継ぎを当てたりして直して使っていたものと思われます。最近の人はすぐに捨てますが。だから須恵器が破片として土中から出たと言っても、その製造年代と捨てられた時期はかなりズレルはずです。この点は日常雑器の土師器とは異なります。また土師器の中には神事に使用した際には、新品でも穢れを払うために割って捨てるという風習が古来からあります。
 したがって土中から出土した土器でその土層形成時期を判断するさいには、その土器の種類を判断材料の一つにしないといけないと思います。
 以上の客土中の土器の問題や水場での木材の問題は、それぞれの思い込みで解釈しないで、考古学の報告書や関連の学の本で調べることがひつようだと思っています。考古学の報告書を読み解くには、本当に豊富な知識が必要です。
 そして付言しますが、あるテーマを考察する際には、そのテーマの研究史を詳細に追ってみることが必須です。これをすると学者の間にどんな論争があり、どの点が共通認識となりどの点では異論があるのかがよくわかります。古賀さんの難波宮下層宮殿遺構についての論考を読んでみると、この研究史の探索という重要な作業が抜けていると思います。だから大阪歴博の見解に対する異論が他から出ていることを、自分の論考への批判で初めて知るということになったのでしょう。
 私もこの一年国分寺を研究していますが、その研究史を詳細に検討していないことが原因で、議論が行きつ戻りつしている現状を見るとき、明治以後の研究史の詳細な点検の必要性を痛感しています。古田さんはいつもこれを丁寧にやられていました。歴史学者としては当然の手続きです。

大下さんへ
 資料の御送付、ありがとうございました。
 なぜか「迷惑メール」に分類されていたので、今日まで気が付かず、お返事が遅れました。
 「難波宮北側の柱根列の年代」はたしかに7世紀後半のようですね。柱根列のある第12層の下にある第13層には670年代の土器が含まれているというのですから、12層が柱列を建てるために整地されたのは、670年代以後であることは確実です。なぜ正木氏は、この発掘を担当された江浦氏が7世紀前半であると判断したかのような発表をしたのでしょうね。これでは考古学による発掘事実の偽造です。どうも難波宮下層宮殿遺構に関する古田史学の会の中の報告を時系列に並べてみると、古賀氏・正木氏・服部氏の報告は、どんどん史料のねつ造や発掘事実のねつ造に足を踏み入れているとしか思えません。古賀氏が九州王朝説を守りたいとの熱意から、ついつい大阪歴博の難波京下層宮殿遺構の孝徳期説=7世紀中葉説を史実だと誤認してしまって深入りし、この説に対する他の考古学者からの批判的意見があることを精査しないままに、この宮が九州王朝の物だとするアイデアに固執し、このアイデアを仮説として成立させるために書紀の記事の34年遡り説などが出てきたことで自信を深め、自説を高らかに吹聴してしまったことの誤りを早く認めてほしいものです。
 古賀氏が大阪歴博の見解以外の考古学者の見解を精査していないことや、この宮跡が九州王朝のものだとのアイデアが出てきてこれが成り立てば九州王朝説と7世紀中葉の難波宮とが無理なく併存できることに気が付いた過程、さらに正木説などがこの説を成り立たせるために出てきたことは、古賀さんの洛中洛外日記の2017年7月に連載された「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」シリーズに見事に語られています。そしてこのシリーズでは大下さんの学問の方法論についての根源的な批判があることを完全に無視しています。
 資料が公開されていると、いかにして間違った見解が生まれてきたかを検証することが簡単にできます。
 古田史学会報の古賀論文を精査してみると、古賀さんが初期のころから古田さんの学問の方法を理解しておらず、しばしば史料に基づかないアイデアを、史料で証明されるかどうかも検証しないままで提起する傾向の強い方であることが如実にわかります。このあたり、今まとめていますので、のちほどご報告できると思います。

大下さんへ追伸
 すみません。迷惑メールフォルダーから移動させる過程で、多元115号の資料のぶんを削除してしまったようです。
 もうしわけありませんが、もう一度お送りいただけないでしょうか。
 よろしくお願いします。

大下さんへ
 多元115号のコピー再送ありがとうございました。古田さんの「言素論」についての理論的考察を興味深く読ませていただきました。
 古田さんは日本思想史学科の卒業ですから、そもそも学問的に専門としてきたのが日本の思想を分析することです。そして思想は当然のこととして言語、私たちの場合は日本語で表現され、その日本語は時代と土地によって形も意味も異なります。だから思想史においては、その分析対象となっている史料で使われている言葉の意味をどう確定するかが一番大事です。これを従来の論者は自分の勝手な思い込みや自分の思想的立場から解釈して論じていましたが、古田さんは親鸞思想の解明において、親鸞自身がその言葉をどのような意味で使っているかを、その史料全体の中で精査したり、親鸞の著作全体の中で精査して意味を確定して論じました。
 だから言素論においても、日本語の単語を一音ずつに分解してその構造を分析する際にも、論者の単なる思い付きではなく、資料による実証が不可欠だと思うのです。そして同時に日本語学の智識も。
 この点で古田さんは、私たちと違って日本語学を勉強されたのではないかと思っています。これは古田さんの第一書『「邪馬台国」はなかった』を読んだ時からの感想です。
 古賀さんがそのブログや機関誌で「言素論のすすめ」のようなものを書いていますが、どうも的をはずしているような気がします。古田さんの言素論に関わる論考では、どうしてもその前提となっている日本語学の智識の説明が省かれています。その基礎知識のないものが、古田さんの論考を表面的に読んで、そこから方法論らしきものを導き出し、それを応用することに危惧を感じています。昔から日本史の学者や民俗学の学者は、地名などを解釈する際に、それぞれの勝手な解釈で、日本語学の智識に基づかずに、そして日本の古典による実証の過程を経ずに、それぞれの勝手な言葉の解釈を展開してきました。つまりどうとでもいえるというレベルの地名の日本語的理解です。私たちが言素論を使うときも同じことになりかねない。これは西村さんが指摘されていることですが、、これに対して古賀さんが言素論の可能性を説明されているが、お二人とも、どうも先にみた、資料に基づく実証が不可欠という認識が欠けているように感じました。
 言素論を使うには、古代日本語の宝庫である古事記・日本書紀・風土記・万葉集などについての深い知識と、日本語学の智識が必要だなと思います。
 日本における日本語学が、江戸時代の国学における古典の言葉の音や意味の解釈から始まっているように、言素論でもこうした古典への深い知識が不可欠です。古田さんが言素論を使って論じるときには、これらの日本の古典についての深い知識と日本語学の智識を使って、言葉の語源についての証明と理論的展開を行っているような気がしています。
 古田さんの言素論について、言素論を使った考察は、多元誌上で44回にもわたっています。それも2003年11月号から2015年3月号まで、とても長期にわたっています。この期間に古田さんご自身の言素論についての理解も深まりかつ変化していると思います。
 この全論考を通して読んでみたいという誘惑に駆られています。多元的古代研究会の事務局に問い合わせてみれば、関係のバックナンバーを譲っていただけるでしょうか?

大下さんへ James Mac さんへ
 大下さんに送っていただいた、難波宮の木柱列についての資料を精査してみて、この木柱列を打ち込むために作った整地層の下の土層から、670年代の土器が出ていることで、この木柱列は7世紀末以降の建造であることが明らかになりました。つまり天武朝期か8世紀中ごろの聖武朝期。
 この木柱列の材木の伐採年代は、古賀日記の第1322話 2017/01/14 にも詳しく書いてありますが、「酸素同位体比測定」法によって、7世紀前半のもの、1点はコウヤマキ製で、もう1点は樹種不明。最も外側の年輪はそれぞれ612年、583年と判明しました。伐採年を示す樹皮は残っていませんが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採されたものと考えられているとのことでした。
 しかし木柱列の出土状況から、この木材が柱として打ち込まれたのは、670年代以降であることが確実ですので、なんとこの材木は、伐採されてから数十年もたってから使用されていることが確実となりました。そしてこれは宮の境界を示す塀などと思われるので、古材の使用は考えられず(塀や柵などの木材は経年変化で下部が腐ると、これは廃棄され新しいものを使うのが通例ですから)、数十年間も乾燥保存されていたことがわかります。
 塀や柵という、井戸枠や樋などのように常時水に触れるわけではなく、一部が土中で一部が空中で風雨にさらされぬれたり乾燥したりの繰り返しの場所でもこれほど長期間の乾燥を行ったのだから、井戸枠や樋ならば、これと同等またはもっと長期の乾燥が必要だということがわかります。
 したがって井戸枠の設置年代を、その年輪年代法による伐採年とそれに近い時代の土器が井戸石材の固定材である客土から出たことを基準にして、7世紀中葉とする大阪歴博の見解は、成り立たない可能性大であると思います。つまり古賀さんの説を支持するものでもない。
 一点私の先の見解を訂正しておきます。
 それは年紀が記された木簡が出土したごみための年代の問題。ここから大量に出る土器が660~670年代のものということなので、もしこの土器が日常雑器である土師器ならば、このごみためがつかわれた年代もまた660~670年代で良いと思います。しかしこれでも、大阪歴博の孝徳朝の都という年代観ともずれますし、古賀さんの九州王朝副都説の年代観からもずれます。
 古賀さんが前期難波宮(ただしくは難波宮下層宮殿遺構)九州王朝副都説を支持する発掘結果として挙げたものはほとんど、この遺構の7世紀後半建造説とあるいは8世紀半ばの聖武朝建造のものである可能性は大きいです。あとはこの宮殿遺構整地層から出てきた須恵器杯Bの年代観ですね。

川瀬さん、James Macさん              

昨日が「難波宮水利施設」の特別公開日で、それを見学した後大阪歴博に立ち寄り発掘調査報告書『難波宮址の研究』第十一集、2000年3月出版(以下「報告書」とします)を調べてきました。下記します。
1)泉施設(井戸枠)の木材は転用材か。
・泉施設の中には二カ所の木枠が設けられていますが、「報告書」42頁には「どちらの木枠も転用材を用いて組まれていた(佐藤)」と記されています。
・しかし207頁にある年輪年代を測定した光谷氏の報告では「634年の値がでた木材の形状は、原材から板状に割り、若干一部分を成形しただけのものであり転用材ではない」としています。
・そして最後の262頁にある「報告書」まとめには木枠板材の年輪年代について「板材の転用の可能性や、伐採年代がやや古い年代であることに問題があるが、年輪年代測定は絶望的と思われていた難波宮跡でも、今後も資料の増加が期待できるようになった(佐藤)」としています。
<大下意見>
・板材は大きなもので1mx0.2mのそれほど大きくないもので、それが「若干一部分成形しただけ」で転用材でないとした光谷氏の見解の根拠がよくわかりません。発掘を担当した佐藤氏の見解「板材は転用材」が正しいように思えます。

2)泉施設の木枠の経年変化をさけるため寝かせた古い材木が必要か。
・解説をしてくれた学芸員に聞いたところ、「ここの木枠については特に材木の経年によるひずみは考慮していません」とのことでした。詳しい説明はありませんでした。
 <大下意見>
・「報告書」には、「泉施設につながる石組み水路の役割は、泉から湧いた水をきれいな状態を保つため下方に流すためのもので、土砂や雨水などの侵入を防ぐために、外側からはきめの細かい粘土が石の目地にていねいに詰められている」と記されています。
・「泉施設」は壊れていて原形をとどめていませんが、中には絶えず水が溜まった状態にあったのと、「泉施設」も外部からの密封がきっちりと行われていたので、水漏れを防ぐための材木の経年変化はあまり考慮する必要がなかったのではないかと思います。
 
3)泉施設の概要
・難波宮の西北側に倉庫群があります。その西北隅に谷があり、そこに出ている湧水を利用して「泉施設」が作られています。この施設は谷  頭にある水が湧き出る所に木枠で囲いを作り、外部からの水・泥の侵入を防ぎ、同時に湧いてきた水を溜めるためのものです。その水はさらに西北に向けて作られた「石組みの水路」を利用し、谷の下のほうに向かって流されていきます。
・泉施設の内部
 ① 谷頭に約8mx5m、深さ1mの長方形のくぼみが掘られ、その中に湧水を溜める ため東西に二つの木枠が作られています。
 ② 年代測定(634年)がされた木枠2は長辺1.0m、短辺0.6mの板が三段に組まれています。木枠全体の高さは0.7mです。図面からそれぞれの板幅は0.2~0.3m   と読めます。

4)石組みの水路
・泉施設から湧き出た水を北西の方向へ流すために花崗岩を使い水路が作られています。概要は次の通りです。  
a) 蓋石は大きな石が使われ、最大のものは直径1.5m以上、重さ約1.8t、平均して  1.2tあります。
b) 側面は基底部に直径1m前後の石を据え、その上に0.5m前後の石が2~3段   積み上げられています。
c) 底面にも石が敷かれ、水路の幅は内法で約0.5m深さは約1mです。
d) 裏込めが行われ、さらに外側からはきめの細かい粘土が石の目地に丁寧に詰め  られ、水が漏れるのを防いでいます。
e) 石組みの列は、北西側の方向200mのところまでが確認されていますがその先  は分かっていません。

5)泉施設の建設目的
・2000年の調査報告書が作られた時には不明とされ、今回は二人の学芸員に聞いたところ今でもよくわからないとのことでした。
・一人の学芸員は難波宮とは関係がない。もう一人は難波宮に井戸がないことからこの泉から汲み出した水を運んでいた可能性があるのではないかとのことでした。
・二人とも、泉施設周辺から祭祀に使われた木製の人形、舟形などが出土しておりここで何等かのまつりが行われていたことは確実だが、水路の先200mの向こう側に何があったのか全く分かっていないとのことでした。
<大下意見>
・難波宮に水を供給するためなら、水路は難波宮側にも築かれていたと思います。 
 ・難波宮の地表面は約TP21m、井戸枠の上部がほぼTP17.5mで宮殿の中心部まで約500mまであります。この井戸から坂道を毎日大量に水を運んだとは考えられません。
・最近の発掘では北西の方向に鍛冶や漆製品の生産をしていたと思われる遺構が出土しています。この「水利施設」はこれら生産のために使われていたのではないかと推定しています。新しく発見された遺構の調査報告書が待たれます。

6)「水利施設」の建設時期(須恵器編年)
・「報告書」では「水利施設」の下、客土に含まれた須恵器が難波編年で「難波Ⅲ中様式」のものと考えられるので、「水利施設」建設の実年代は七世紀中葉としています。
<大下意見>
・大阪府近つ飛鳥博物館館報16で館長の白石太一郎氏は「大阪市文化財協会の【難波Ⅲ中様式】という【様式レベル】の30年単位のモノサシによる大枠の議論では難波宮の年代問題は解決しない。最近の飛鳥編年の研究では10年単位の議論が可能になっている。飛鳥編年か  ら見ると難波宮下層から出土した【難波Ⅲ中様式】の土器は早くても660年代のものである」とされています。
・土器の実年代を決める基準は難波編年、飛鳥編年とも『日本書紀』が基準になっています。
・現在問題になっているのは難波宮遺構の年代で、孝徳紀に記されている「難波長柄豊崎宮」がこの遺構に該当するかどうかということです。この問題を解決するのに『日本書紀』の基づいて作られた大阪市側の「難波編年」をモノサシにするのはナンセンスというほかはないと思います。答えは必ず『日本書紀』の記述が正しいということになります。

この「報告書」から、古賀さんが「前期難波宮遺構が考古学的に孝徳紀に作られた」とする根拠は読み取れません。

以上取り急ぎ報告します。
  

川瀬さんJamesさんへ

<訂正>
先ほどのメール2)泉施設の木枠のところで、「井戸枠の周囲が外部からの密封がきっちりとされていた」と記しましたが、図面をよく見ると「外部からの密封はきっちりとされていた」とは思えないのでこの部分は削除します。

ここから別のスレッドにしましたので
そちらの方にコメントして下さい。(肥沼)

→ 大下さんの「難波宮水利施設」等の調査報告より

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