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2017年2月 6日 (月)

美濃国分寺の回廊内の「不明建物跡」

昨日掲載した美濃国分寺の伽藍配置で,
回廊内の塔の西側に「不明建物跡」と呼ばれているものがある。
これが金堂だったとすれば法起寺式という伽藍配置なのだが,
金堂は奥の中央と決めてしまっているので,「不明建物」となっているのだ。

美濃国分寺の「不明建物跡」

http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103258-91793/up.jpg

多元的「国分寺」研究サークルとしては,
川瀬さんや山田さんの言われている通り,

かつて・・・法起寺式の伽藍
改造後・・・一見大官大寺式の伽藍=大和政権の国分寺

という仮説を立てたいところだ。
それには,「不明建物」=もとの金堂だった,と言えることが必要だが,
仮にも一度金堂だった建物跡が「盛土のみで地業なし」で済むのだろうか
という問題でちょっと前進できないでいる。
(もしかして,「完全犯罪」をするために証拠隠滅が図られたか?
その割に瓦はたくさん残されているようだが…)

P2062288

写真をクリックすると拡大します。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

「盛土のみで地業なし」とは掲載写真にはないようですが、どの報告書にあったのでしょうか?

山田さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さんがコメントして下さった中に,
以下のものがありました。

「・・・奈良文化財研究所の下記のデータでも確認できます。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103258-91793/up.jpg
 これは肥沼さんが掲載した図面の中の点線の四角形だと思います。
建物データの回廊内建物の説明では、「盛り土基壇のみで掘り込み地業なし。
基壇削平され、瓦は7世紀末から平安初期まで出るため、建立時期不明」。」

肥沼さんへ
 金堂の基壇が盛り土だけで地業なしでも何の問題もありませんよ。
 肥沼さんのご指摘で安芸国分寺について奈良文化財研究所のデータを見たり肥沼さんが掲載してくれた安芸国分寺についての「新修国分寺の研究」の該当箇所から、基壇を造るときには、1)地山の上にそのまま盛り土を積む2)地山を削り出して壇状にしてその上に盛り土を積む3)地山を基壇の大きさに掘り込んで(総地業)穴の底から地山の上1m程度まで盛り土を積む、の少なくとも三つのパターンがあって、これらの違いは地盤の強弱によると判断しました。もっとも手抜きの作り方は、以上三つの盛り土は版築工法で突き固めているのですが、4)版築ではなく単なる盛り土で、礎石を置くところだけ壺状に穴をほり、地山まで掘り下げて、この壺状の穴の中だけ版築で固めるという方法があり、この上に礎石を置く、という方法があることがわかりました。
 だから美濃国分寺の前身寺院の金堂と思しきものの基壇が、盛り土のみで総地業なしでも不思議ではありません。
 建物の位置とそこから7世紀末の瓦が出るのですから、古い国府寺の金堂だと考えることはとても合理的だと思います。すなわち元の伽藍は法起寺式。
 付け加えれば、「新修国分寺」の論文の中に、「金堂と中門の下から掘立柱の跡がでて掘立柱建物とみられる」とありましたが、奈良文化財研究所のデータでは、中門については、この穴は幡を建てたときの穴と考えられるとありましたので、金堂の方の穴も同様かもしれません。そうなると、現在確認されている大官大寺式伽藍の下には何もなく、あるのは回廊内の不明建物だけになりますので、これが古い金堂だと断定できます。あとは塔に改造の跡があるかどうか。この塔はとても巨大で礎石から塔身は10.8m四方と判断され、基壇幅は18m四方。ただ基壇がかなり削平されてしまい、礎石の位置の際から先は残っていないので、基壇を拡大したかどうかは現状からはわかりません。ただし総地業の幅が15.8mと少し小ぶりなので、これが古い法起寺式伽藍だった時代の塔の基壇幅かもしれませんね。塔が総地業で金堂が地山のままなのは、建物重さが格段に違うからだと思います。なお大官大寺式の方の金堂も基壇は「地山上に厚さ30cmほど粘土を置き、整地層とする。その上に厚さ60cmにわたり版築。基壇外装は整地土上に径35~40×25cmほどの河原石を横方向に並べ地覆石とする。地覆石の上に地覆石の前面と揃え (セン)を積む。 (セン)は塔と同様30cm四方。5段遺存。西北隅の礎石より、基壇高1.17m、 (セン)積みは13段と復元出来る。」とありますので、総地業はなしです。

追伸
 この寺院は二回改造されていますね。
 前身寺院は法起寺式
 1)一度目の改造:金堂を解体し基壇を削る。講堂を金堂に改造して、北に新たに講堂などを建てる。法起寺式⇒大官大寺式への改造。
 2)塔の基壇を拡大して15.8mから18mとし、五重塔を七重塔に改造。

 この2)が聖武の詔に伴うものです。
 ということは法起寺式の時が豪族の氏寺、大官大寺式の時が国府寺、そして塔を大きくして国分寺となるのではないかな?法起寺式の時の瓦が7世紀末なら、大官大寺式に改造したのが8世紀初、そして最後の改造が8世紀中ごろ。
 瓦の編年が正しいかどうかが問題になりますが、これは難しいので、66ヵ国国分寺のすべてを、伽藍配置や国府との距離、そして遺構の中の改造の痕跡などで検討したあとで、瓦編年の再検討はやりたいと思っています。

肥沼さんへ追伸
 ブログを読んでいると、真夜中過ぎにも「新修国分寺の研究」の論文を読んでおられるような。
 仕事に加えて毎日運動部顧問をしているので時間がないのはわかりますが、無理されないように。もう年なのですから。
 あせらず、土日の部活以外のところの時間を使うなどしてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうござます。

〉 金堂の基壇が盛り土だけで地業なしでも何の問題もありませんよ。

そうなんですか!塔や金堂の地下は,当然地業があるものという
固定観念にとらわれていました。
それなら,大丈夫。さらに前進することにします。

〉  この寺院は二回改造されていますね。
〉 前身寺院は法起寺式
〉 1)一度目の改造:金堂を解体し基壇を削る。講堂を金堂に改造して、北に新たに講堂などを建て
〉 る。法起寺式⇒大官大寺式への改造。
〉 2)塔の基壇を拡大して15.8mから18mとし、五重塔を七重塔に改造。
〉 この2)が聖武の詔に伴うものです。
〉 ということは法起寺式の時が豪族の氏寺、大官大寺式の時が国府寺、そして塔を大きくして国分寺
〉 となるのではないかな?法起寺式の時の瓦が7世紀末なら、大官大寺式に改造したのが8世紀初
〉 め。そして最後の改造が8世紀中ごろ。

なるほどなるほど,それでこの美濃国分寺の変遷が理解できるというわけですね。
「不明建物跡」も役に立ったんだ。

〉 ブログを読んでいると、真夜中過ぎにも「新修国分寺の研究」の論文を読んでおられるような。

この日は夜中に起きてしまい,論文に向ってしまいました。
できるだけ寝る前に読むようにしているのですが・・・。

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