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2017年2月 6日 (月)

美濃国分寺は,先行寺院をそのまま利用した!?

美濃国分寺については,「川瀬さんと山田さんで検討済み」ということらしいのだが,
その頃『新修 国分寺の研究』第三巻で美濃が扱われていなかったこともあり,
私の頭をスルーしてしまっていたようである。

『新修 国分寺の研究』第七巻・補遺には,P223~266まで40ページ以上にわたり
美濃国分寺についてくわしく八賀晋氏が論文を書かれており,
その末尾の部分に大いに興味をそそる部分があったので,
本日も「写真掲載」させていただく。(なにしろ今午前3時なもので)

「美濃国分寺では,僧房など掘立柱建物が存在するが,
この掘立柱建物群も先行寺院の建物を
そのまま国分寺の堂宇として利用した可能性が大きい」
とありました。

また,「美濃国分寺の場合,国分寺として機能した各堂塔は八世紀に建立されたものである。
使用された軒瓦の形式は八世紀の代表的文様構成を示しており,
基壇化粧,規模も前身寺院とはまったく異なったものであったと考えている。
ただ,伽藍配置は先行形式を踏襲する点が特徴があり,
その歴史的背景は今後十分検討する必要があろう」とも。

白鳳期の豪族の氏寺だったという言葉も出てきますが,
「条里地割と異なっている」という事実も気になるところです。

もしかして,これが九州王朝の国府寺 → 大和政権の国分寺への改築の証拠となるか,
もうすでにお二人の間で「検討済み」ということですが,念のため載せますのでご教示を。

P2062282_2

P2062281

(写真をクリックすると拡大します)


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さん

『新修 国分寺の研究』第七巻・補遺、美濃国分寺についての八賀晋論文の末尾部分の写真掲載ありがとうございます。
「川瀬さんと山田さんで検討済み」ということに「あれっ?」と思い、私が遺跡図や現地説明版などから起こした伽藍配置図をパラパラめくってみました。美濃国分寺はありませんでした。伽藍配置図を起こさずに「国分二寺図」の伽藍配置かどうか報告してしまったのかなあ?記憶がありません(歳のせいかも)。

因みに、伽藍配置を起こした古代寺院遺跡は次のものがありました(綴じてある順で不同です)。
山田寺、法隆寺、四天王寺、多賀城廃寺、夏井廃寺、川原寺、大官大寺(藤原京)、薬師寺(平城京)、東大寺、大安寺(平城京大官大寺)、下野国分寺、伊豆国分寺、信濃国分二寺(僧寺、尼寺)、遠江国分寺、播磨国分寺、若狭国分寺、伊勢国分寺、筑前国分寺、日向国分寺、近江国分寺(誤認指定「紫香楽宮跡」)、瀬田廃寺(第二次近江国分寺)、常陸国分寺、上野国分寺、上総国分寺、下総国分寺、陸奥国分寺、新治廃寺、清岩里廃寺(高句麗、略図)、陵山里寺(百済扶余、略図)、王興寺遺跡(百済、略図)、以上でした。

なお、誤解はされてないと思いますが、今、私が報告しているのは、作業仮説:国分二寺図の僧寺伽藍配置(「国分寺式」)に従って古式寺院をどのように改造したのかという視点で、単に伽藍配置を「播磨国分寺」から抽出した七項目に合うかどうかを検討しているだけです。従来学説の検討を行い、遺跡図から改造の痕跡を拾い出し、文献、瓦編年、磁気偏角遷移などから時代を比定して、九州王朝の「国府寺」であるかどうかの検討をする、これはまだ武蔵国分寺に手がついたばかりです。武蔵国分寺が終了したら次の国分寺のコピーを送っていただく予定でしたよね。念のため書きました。すみません。

肥さんへ

根拠をもってはいないのですが、今までの検討のなかで、すでに川瀬さんが指摘されていますが、「瓦の編年」どうも少しおかしいのではないかという印象をもっています。瓦の研究をしなければ時代比定が難しいでしょうから時間がかかりますね。時間がかかるのはわかっていることですが。

肥さんへ

この美濃国分寺のどこが大官大寺式なのでしょうか。一見したところでは法起寺式に見えるのですが、私が間違っているのかな。
八賀晋氏は「前身寺院を基調に造営する国分寺」と言って、巧みに「改造した国分寺」という言葉を避けていますね。
また、「伽藍配置は先行型式を踏襲する点が特異であり」とも述べていますが、「特異(ユニーク)」という言葉を使われているのは「古式そのまま」という意味なのでしょうか。古式寺院を改造(塔だけ回廊外に建立)しただけのものはかなりあります(例、法隆寺式の下総国分寺、観世音寺式or法起寺式の筑前国分寺)。やはり、肥さんが指摘された「国分寺建立の詔はなかった(七重塔を建てよだった)」という視点を欠いた一元史観では「古式寺院(多くは「国府寺」)を改造して七重塔を建てた」という「国分寺の生まれ育ち」を考えられないということなのでしょうかね。

肥沼さんへ
 確か美濃国分寺は大官大寺式伽藍配置で、興味深いのは回廊の中に、塔の西側に「不明建物跡が」が出てくることです。奈良文化財研究所の下記のデータでも確認できます。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103258-91793/up.jpg

 これは肥沼さんが掲載した図面の中の点線の四角形だと思います。建物データの回廊内建物の説明では、「盛り土基壇のみで掘り込み地業なし。基壇削平され、瓦は7世紀末から平安初期まで出るため、建立時期不明」。 でも奈良文化財研究所のデータでは、肥沼さんが掲載された図面の中の、塔の西側すこし下にある階段上の付け出しが付いた建物がでていません(以上は2005年のデータです)
 奈良文化財研究所のデータをみて、私はこの寺院は、古い法起寺式の伽藍を改造して、回廊内の金堂を解体して、旧講堂を金堂に改築、さらに塔を大きくしのだと判断していました。
 このあたり「新修国分寺の研究」の論文はどう論じているのか、ご確認、ご教示ください。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

以前にいただいた川瀬さんのコメントの中に,

〉 目次には、すでに山田さんとの議論で出てきた、伊豆・美濃・播磨国分寺の名がみえますね。
〉 そしてすでに私が検討してみた、伯耆・石見・備後の各国分寺が。そして長門も。
〉 それぞれの論文を精査してみると良いですね。

とあったので,「もう検討済みなのか」と思った次第です。

私も法起寺式に見えました。
少しずつ『新修 国分寺の研究』や『国分寺の創建』などから,改築の証拠を見つけていきたいです。
瓦の編年は難しそうで,ちょっと手を出す気が起きません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私も法起寺式の伽藍を改造して,回廊内の金堂を解体。旧講堂を金堂に改造して,
さらに塔を大きくしたという考えでいいと思います。
ただ,もとあった金堂の地下には「盛土基壇のみで堀込地業なし」というのが解せません。
仮にも一度以前の金堂が建っていたと思うのですが…。

日吉廃寺については,「関係遺跡」というので読んでいたら「三変化」の図があり,私が興味をひかれたまでです。

また,伊豆国分寺についての「収穫」はまだありません。

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