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2017年2月22日 (水)

リニューアル版「歴史を見る物差し」

仮説社から発売されている「歴史を見る物差し」の
リニューアル版が送られてきた。(私も少しアドバイスした)

P2222413

今回の版には「幕府誕生」ということで,
1185年を明記し,中世の始まりとした。
また,「関ケ原」の1600年も画期としている。
(両者は,天皇による「征夷大将軍」の任命より,
実質的な権力の樹立を重視している点で共通している)

値段は,540円+税。
身近に置くことで,歴史に親しめる好教材である。

ただし,多元的古代の重要な画期である701年はスルーされているが,
一元史観の商品のことなので,それは致し方のないところだろう。
私が創る「歴史を見る物差し・多元的古代編」だとしたら,
以下のようになるだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

縄文時代         弥生時代(前半)  弥生時代(後半)        662か663年    701年~
                                              
各地の黒曜石の    出雲に主権国家  倭国=北部九州に主権国家 白村江の戦い    「大宝」の建元
産地を中心に「くに」  (神無月・神在月) (「国譲り」=主権の移動)   (倭国の滅亡    (日本国が書紀で
                           倭国は年号も持っていた。  =主権の移動)    倭国史を抹殺)
                           512~700年。ほかに日本              隼人国・蝦夷国が
                           国(大和)・関東王朝・東北王              最後の抵抗。
                           朝等もあった。

・……………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これが今考えている「肥さんの「多元的古代」物差し」である。
値段はいくらにしようかな?

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仮説実験授業」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

〉倭国は年号も持っていた。
〉512~700年。

この「512年」は「517年」(丁酉年、年号「継体」を建元した年。『二中歴』による)
の書き誤りですよね。

それと白江戦(白村江の戦い)を歴史の画期とするという点は、
ミッドウエイ海戦を歴史の画期とするのか?という感じがありますね。
白江戦のまえに半島では陸戦があって、薩夜麻はこの陸戦で囚われました。
もちろん関ケ原の戦いもそうですが、戦争で旧政権が倒れて時代が転換する。
これは否定できません。でも、奈良時代、鎌倉時代、江戸時代などの時代区分は、
新しい政権が首都を定めて政権運営を始めることを画期としているように思えます。
そうと考えると、白江戦の重要性は疑うべくもないことですが、
「同じ基準で画期する」ほうがいいのではないでしょうか。
前期難波京に首都(私見です。古賀さんによれば副都)を移したときとか、
近江京に首都を移したとき(近江朝)とかです。
でも、歴史的出来事を学ぶということでは、そんな基準は意味ないですね。

ただ、同じ政権でも首都をどこにおくかによってかなり異なる政権運営になると思ってます。倭国が太宰府に首都を置いていた時代と、前期難波京を首都とした時代とでは、同じ政権でも畿内勢力との緊張感が異なると考えるからです。
太宰府に居ればそんなに気にはならなくても、難波京に居れば周辺勢力が気になります。にもかかわらず難波京を首都としたとすれば、畿内を含めて東国の運営に(戦争を辞さずに)乗り出したと考えられます。九州(太宰府)に本拠を置き、版図が維持できていれば良いとする時代と、版図拡大の意図があるとではおのずと政権運営は違ったものになるでしょう。倭の五王の時代も版図拡大時期でしたが、前期難波京の時代も版図拡大時期だったのではないでしょうか。なんの根拠もない妄想ですが。

肥さんへ

肝心のアドバイスを書き忘れてた(ボケてます)。
値段の件ですが、同じにされたらどうでしょうか。理由は次の通りです。
それより高いと、安い「一元史観版」を購入されてしまいます(機能が同じなので)。
それより安いと、高い「一元史観版」の方が価値があるような誤解を受けます。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

その通りですね。

512年 → 517年
白村江の戦いは画期としてはふさわしくない。

それを入れて,以下のように訂正してみました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

縄文時代         弥生時代(前半)  弥生時代(後半)~700年     701年~
                                              
各地の黒曜石の    出雲に主権国家  倭国=北部九州に主権国家    「大宝」の建元
産地を中心に「くに」  (神無月・神在月) (「国譲り」=主権の移動)     (倭国の滅亡=
                           倭国は年号も持っていた。     主権の移動)
                           512~700年。           720年,日本国が
                           ほかに日本国(大和)・関東    書紀で倭国史を抹殺。
                           王朝・東北王朝等もあった。    隼人国・蝦夷国が
                                                 最後の抵抗。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

肥さんへ

そっそくの訂正恐れ入ります。
さらにかさにかかって要求するようですが、同じ倭国(九州王朝)でも、
中国に朝貢していた冊封下の属国時代と、
建元して独立した時代は画期として良いのではないでしょうか?
517年と701年は同じように思います。建国という意味で。
私見では、独立国としての倭国は517年以降ですね。それ以前は属国です。

肥さんへ

「同じ意味」を説明していないことに気づきました。
701年の「大宝」建元以前の「日本国」(といったかどうかわかりませんが)
は倭国(九州王朝)の属国でした。
相手が中国大陸の朝廷であろうが日本列島の朝廷であろうが、属国は属国。
そういう意味です。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

517年~700年も意識して,年表にしてみました。
国内のことと対中国のことをいっしょに表すのは難しいですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

縄文時代   弥生(前半)      弥生(後半)~517年~700年    701年~
                                           
各地の     出雲に主権国家  倭国=北部九州に主権国家      「大宝」の建元
黒曜石の   (神無月・神在月) (「国譲り」=主権の移動)        (倭国の滅亡=
産地を中心               実は,倭国は年号も持っていた。   主権の移動)
に「くに」                 517~700年は中国に対して    720年,日本国が
                      「独立」も主張していたのだ。      書紀で倭国史を抹殺。
                      ほかに日本国(大和)・関東       隼人国・蝦夷国が
                      王朝・東北王朝等もあった。       最後の抵抗。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

肥さんへ

何度も改訂ありがとうございます。
こんなにも要求を入れていただいたんでは、買わなければならなくなりましたね。
無責任に言いましたが、実際に考えてみると、肥さんの次の言葉通りであることに気づきました。
肥さん、無駄に頭を使わせて「ごめんね、ごめんね~」(私は栃木県出身ではありませんが)

〉国内のことと対中国のことをいっしょに表すのは難しいですね。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

いえいえ,山田さんに「つっこみ」を入れていただいて,
「国内のことと対中国のことをどう表すのか」が
課題であるということがわかったので,
今後1つの年表でまとめるべきか,
2つに分けた方がいいのか,というところまで来ました。
またアイデアが浮かんだら「夢ブログ」に書きますね。

山田さんへ
 倭国が難波京を都としたことの意義は、山田さんがおっしゃられた通りだと思います。
 私は難波京を副都ではなく、両京制か多京制のもとでの首都だと考えます。目的は、隋帝国や唐帝国と対抗するための、より強力な中央集権国家を作り出すため。日本書紀を読んでいると難波京を都とした同じ時期に、「信濃に都を置く」計画があったことを思い出します。従来説ではこの記述は根拠不明としてありますが、難波京を置いて日本列島中央部を倭国の直接統治下に置く、そして信濃京を置くことで、日本列島の東部も直接統治下に置く、こういう構想だったと思います。だから7世紀中ごろの倭国は、太宰府・難波京という複数の首都を持ち、さらに信濃京という第三の首都もおいて、列島全体を直接統治しようとしていたと。こう考えると日本列島全体に都と国府と郡家を結ぶ直線的な道路網が敷かれたことの意味もわかります。
 都の置き方が変わったことには政権の在り方が変わったことが表れていると思います。
 こうなると従来は緩い同盟関係にあった列島の他の王権との関係には緊張関係が生まれますね。近畿天皇家は公式には倭国王朝の分流。でも継体朝で断絶がある。継体以後の近畿天皇家は、武烈まで続く旧来の近畿天皇家の勢力と、継体に代表される、北國や近江や河内・摂津という地域の勢力との二元的中心があったと思うのです。近畿が倭国王権の直接統治となるにあたって、近畿天皇家内部にも必ず軋轢が起きたことでしょう。同じことは関東の毛野の大王家との関係でも言えますね。そして列島北東部の蝦夷の王権との関係も。
 都の置き方の変化の背後にある倭国王権の在り方の変化と列島の他の王権との関係をもっと重視して資料を読んでみると面白いと思います。

肥沼さんへ
 対内的なことと対外的なことを、一つの物差しで表すのは難しいですね。二本立てにしてみてはどうでしょうね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 対内的なことと対外的なことを、一つの物差しで表すのは難しいですね。
〉 二本立てにしてみてはどうでしょうね。

表に「対内的な内容」を,裏に「対外的な内容」を書いて,
「表裏一体」型の物差しを作ることを目指します。

川瀬さんへ

肥さんの古代官道は軍用ハイウェイがこれだっとということですね。首都の問題をここまでつなげて考えていませんでした。ご教示ありがとうございます。

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