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2017年2月 3日 (金)

日吉廃寺の「三変化」

『新修 国分寺の研究』第七巻・補遺に収録されている
伊豆国分寺についての山内昭二氏の論文を読んでいて,
その中に日吉廃寺という寺についての情報が載っていた。

「七変化」とまではいかないが,
創建時・・・二金堂式?
第二次・・・法隆寺式
第三次・・・法起寺式
と「三変化」していると考えられるということだ。

P2032257

今進めている多元的「国分寺」研究で,
九州王朝の国府寺 → 大和政権の「国分寺」への
改築の証拠を探しているところだが,
「三変化」している寺があるとするなら,
国府寺を別な形式に改築しようというアイデアも
案外簡単に出るかもしれないと思った。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

日吉廃寺の三変化、面白いですね。

伊豆国分寺の回廊が東南と西南のコーナーで内側にへこんだ形になっている点について、おそらく塔(西塔)との関係に起因していると思え、次のようなことが考えられるのですが、山内昭二氏はその論文でどのような見解を述べてらっしゃるのでしょうか。
①塔が先にあり、塔を避けて回廊を拡張した。⇒なぜそれほど回廊を横長にする必要があるのか?
②塔をこの位置に建てるために回廊を改築した。⇒なぜ塔をもう少し南に建てなかったのか?
③中門・金堂間距離と金堂・講堂間距離と等しくするために中門の位置を南に移した。⇒回廊を異形にしてまですることか?
④塔の基壇を拡張するために回廊をへこませた。⇒五重塔を七重塔に改築した場合これが考えられるが、五重塔の新式寺院を七重塔に改築したことになる?
⑤横幅の広い回廊はもとは講堂に取り付いていたものを金堂両妻南寄りに付け替え、塔を建てるために回廊をへこませた。⇒塔をもう少し南に建てなかったのはなぜ?
なかなか一筋縄とはいかない伊豆国分寺です。

肥沼さんへ
 面白い事例ですね。でもアップされた復元図を見ると、第一次は二金堂式ではなく、中央に塔があって、西・北・東に金堂が三つある形式にも見えます。つまり飛鳥寺式の変形。
 第一次・第二次・第三次と伽藍が変わったと判断し、それぞれが二金堂式⇒法隆寺式⇒法起寺式とされた根拠が示してあると思うのですが、ご教示ください。おそらくは重複して出てきた建物の跡だと思うのですが。
 

山田さんへ 川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

日吉廃寺について,こんなふうに書いてありました。
「沼津市大岡日吉長者町に所在する,この地方では最も古いと考えられる寺院址である。
現在は塔の礎石のみがその跡をとどめているにすぎないが,沼津市教育委員会によって
塔址の礎石の配列と周辺が整備されている。
大正六年,丹那トンネルを通る東海道線が当廃寺を横断することになり,柴田常恵・三島通良らが
塔址の調査をおこなった。調査の結果,塔址の南側第一列と第二列の一部には線路がからないので,
この礎石はそのまま残し,線路内に入る他の礎石をそのまま第一列の南側に平行移動して保存
することになった。この調査報告書には,伝フルガ如ク鎌倉時代二於ケル富豪ノ宅ナラズ,
却テ更二国史上重要ナル遺跡タルヲ確カム二至レリ,即チ
(一)社地二存在スル礎石及び布目瓦二依り,今ヨリ約千二百年前ナル奈良前期ノ寺址タルヲ証スベシ。
(二)奈良朝二アリテハ聖武天皇ノ天平十三年,詔シテ諸国二国分二寺ヲ創建シタ給マヒシコトアレド,
駿河のノ国分寺ハ静岡市附近二在ルベキ上二,コレヨリ幾分年代ヲ遡ルベキモノト認ムレバ
国分寺以外ノ仏寺ト見ルベシ。
とあって,奈良前期の寺院址としている。その後,昭和三十四年から昭和三十八年まで軽部によって
発掘調査が実施されたが,市街地のため調査地域が限定され,全面的な発掘調査ができなかった。
調査の結果を整理して,次のような調査結果を発表した。
(一)寺域は南北二町・東西一町で,少なくとも三回位の建て直しが行われている。
(二)現在残されている塔の礎石は,第三次建立の法起寺式伽藍にともなうもので,
柱間は八尺等間である。心礎は出木内式で,心礎の周囲の礎石には柱座が造り出されている。
(三)現在の塔址の下には別の建物の掘り方があり,数次に亘る建立の跡を物語っている。
(四)伽藍の配置については問題点が多いが,一時建立では二金堂式,二次建立では法隆寺式,
三次建立では法起寺式と考えられる。」としている。
塔址を除いて,礎石は全く発見されず,各所で掘り方だけが検出された。これらの掘り方が
規則的に並んでいないため,必ずしも建物にならないものもあり,その解釈に苦慮している。
出土の瓦は第10図に見る如く,創建時の瓦は三島市市ケ原廃寺の瓦と同じ系統である。
同じ窯の製品が両寺院に供給されていたことは明らかである。それが,その後の瓦では
全く違った文様構成をもった瓦に一変してしまう。弁の形,周縁部の文様のほか宇瓦の文様も
大きく変化している。この変化について,三輪嘉六は天武九年の伊豆・駿河の分国により,
行政単位が分割され,それまでの瓦生産地であった伊豆長岡町花坂地区が行政単位の上で
伊豆国側となり,以後,駿河国側への瓦の供給が行われなくなり,独自の生産地を持つことに
なった結果であるとしている。(以上で,全部です)

肥沼さんへ
 日吉廃寺についての記述全文掲載。ありがとうございました。
 奈良文化財研究所のデータベースにもとになった報告書が掲載されていたので確認しました。 
 礎石は確かに第三次と考えられる法起寺式の時の塔のものだけで、あとは礎石を抜き取ったか掘立柱か不明となっていますね。
 各所で確認された「掘り方」とは、基壇の整備のために地山を掘った「総地業」のあとですね。
 奈文研のデータには、「新修国分寺の研究補遺」の方にある復元図の、創建時の東西の金堂の間にある塔と思しき掘り方の跡は記してはありませんでした。
 それでも第三次の塔の礎石からこれは奈良時代初期だと判断できるので、それ以前はいわゆる白鳳期。古い寺院を改造した痕跡が残っている例として貴重ですね。
 諸国の国分寺遺跡にも、この改造の痕跡が残っていると思いますので、これをじっくり探していきましょう。
 追伸:2月15日締切で同人誌「ペガーダ18号」の原稿(「『私と「古田史学」』補論 「九州王朝」論は「万世一系」を否定する―「古田排除」の政治的背景―』)の執筆と、3月4日の英学史学会での報告(「齋藤修一郎と英学①-沼津兵学校付属小学校時代―」)の執筆のため、26ヶ国国分寺の再検討の最後・西海道諸国国分寺の検討を現在中止しています。3月の報告が書き終わったら再開しますので、しばらくお待ちください。なお筑後国分寺の検討から、この寺院も古式の寺院の改造のようですので、当時の筑後国府は国分寺の隣、国分寺とその西400mほどを南北方向に通る西海道の間の扇状地にあったのではと推定しています。現在筑後国府(7世紀末から10世紀)は、国分寺の北2キロほどのところに東西に延びる丘陵上に西から東にⅠ期・Ⅱ期・Ⅲ期・Ⅳ期と展開し、Ⅰ期とⅡ期の国府の間に、それに先行する7世紀中ごろから末の「先行官衙遺跡」が確認されていますが、この「先行官衙遺跡」と同時代かそれに先行する時期の国府が国分寺のすぐ西側にあったと考えています。
 なおこの「先行官衙遺跡」とは、日本書紀における国府制定関係の記事が7世紀中頃なので、この時期やこれより古い国府は九州にはないという近畿天皇家一元主義にたった解釈です。日本書紀のこの記事は難波京における九州王朝による東国(畿内とその東の国々)における国境再編成と国府制定の記事だと解釈すると、九州王朝の版図である西海道・南海道・山陽道・山陰道における国の成立と国府制定はそれよりも早く、7世紀前半期や6世紀末とも考えられます。この観点にそって、筑紫国府の所在については考察してみました。詳しくはあとの報告で。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さんが他の原稿に取り組んでいる間に,
これまで検討された「国分寺」について
改築等の痕跡を確かめていきたいと思います。

肥沼さんへ
 一つお聞きするのを忘れていました。
 伊豆国分寺についての論文の中で、回廊内建物が三期にわたって変遷(建て替え)していると考えられる日吉廃寺の情報が載っているわけですが、これがどのような文脈の中で出てくるのかがわかりません。
 たとえばこれを、「伊豆国分寺も既存寺院の改造の可能性がある」との論拠として挙げられているのでしょうか。それとも単に「伊豆国分寺跡の候補であったが、発掘結果から時代も違うことがわかった」ということで挙げられているのでしょうか。
 以上ご確認、ご教示ください。

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