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2017年1月17日 (火)

大和政権には「なかった」ということを論証してきた古田史学

題名が長いが,正確に書くともっと長いものになる。
「大和政権にはもともとその事実が「なかった」ことを,九州王朝なら「あった」と論証してきた古田史学
ないし多元史観」という感じだろうか。

今私たちは、「「国分寺」はなかった」という論証に取り組んでいる訳だが,
どういう系譜の中でこの仕事がされているのかという位置づけをしてみたい。

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【古田武彦氏の古代史三部作】 

・『「邪馬台国」はなかった』 魏志倭人伝に「邪馬台国」はなかった → 「邪馬壹国」とあった
 (ヤマト(大和)と読みたいので,「邪馬台国」と改竄した。「台」でも駄目だが・・・) 

・『失われた九州王朝』 「景行天皇の北九州平定」はなかった → 「日本書紀」が九州王朝の歴史を盗用した

・『盗まれた神話』 「ヤマトタケルの東海・関東平定」はなかった → 「日本書紀」が関東王朝の歴史を盗用した

【市民の古代】

・第3集 古田講演 「遣隋使」はなかった → あったのは「遣唐使」

・第4集 毛利一郎 ヤマトは最初の地名ではなかった → ?

・第8集 万葉集と多元史観 → もともと筑紫の万葉集が先行してあった

・第11集 「九州年号」とは何か → 700年以前に大和年号はなし(701年,初めて大宝を建元『続日本紀』)

・第12集 2種類の風土記 → 旧型(国県制)は九州王朝時代に作られたもの

・第13集 横山妙子「常陸風土記に見える「行政単位」」 → ?

古田講演「大嘗祭と九州王朝の系図」 → 持統天皇に至って確立。天武天皇は「褒美を与えた」。
                           それ以前は主催もせず,褒美も与えず。では,誰が?
 
【新・古代学】

・第4集 大越邦生 多元的「冠位十二階」 → 九州王朝の冠位を真似した

・第7集 鼎談 古田・溝口・西村 「君が代」をめぐって → もとは九州王朝の讃歌だった

【なかった】

・第二号 古田 「トマスによる福音書」 → 聖書も「複数の神」から「単数の神」に改竄した

・第五号 古田 「大化の改新」はなかった → 九州王朝の歴史だった?

【古代に真実を求めて】

・第八集 古田 「磐井の乱」はなかった → 6世紀ではなく,7世紀の唐・新羅による占領下の出来事か

・第九巻 古田 「釈迦三尊」はなかった → ?

・第十四集 今井・合田 越智国(愛媛県)に「紫宸殿」があった → 当時は太宰府から避難していた?

・第十五集 正木 筑紫にあった飛鳥 → それを盗用して大和に持ってきたか?

・第十七集 合田 斉明と天武は親子か? → 斉明は九州王朝の天皇だった? 

【その他】 

・肥沼 日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か? 
 (「作った」という記事がないのに「コースの変更」はする6300キロの高速道路。
 白村江の戦いを前に,九州王朝が全国に作った軍用道路だったのではないか?)

・川瀬・山田・肥沼 多元的「国分寺」研究(聖武天皇の「国分寺建立の詔」には「国分寺」という言葉は
 1回も出てこない。その代わりに「七重塔を造れ」「その中に金泥文字のお経を入れよう」とは出てくる。
 では,「国分寺」のもとは何だったのか?いったい誰が命じて造ったのか?その歴史の中で聖武天皇が
 やろうとしたことは?)

(未完)

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コメント

「なかった」になる理由。

皇国史観(=一元史観、戦前型・戦後型問わず)は、すべて大和政権が行ったとしているので、歴史的事実がわかると、そんな事実は大和政権の歴史には「なかった」となるわけです。一元史観は、不徹底で、徹底して石器・縄文土器も大和朝廷がつくったとすれば良いのです。そうしてない(できない)から、大宝建元で日本国(大和朝廷)が政権をとった事実がでてきてしまうのです。どこかで大和朝廷が登場しなければならないですから。記紀を経典として神学を構成しているわけです。神学は歴史学とはことなり、経典の記述に整合しているかどうかですから。経典とことなる主張は異端審判にかけて火あぶりにすればいいわけです。地球のほうが太陽の周囲を廻っている事実があろうとなかろうとそんなことは関係ないのです。神学・教会の権威(利権)が守られれば、神などどうでも良いのです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

私がやっていた作業(「あった」&「なかった」)は,
一元史観&多元史観の「結び目」ということなわけですね。
なるほどなるほど。

前に「日本古代ハイウェー」で東山道のことを扱った時も,
「誰が作ったものかわからないのに,
突然コース変更(武蔵国が東山道から東海道へ)されたのは,
建設主体を隠しているようで怪しいぞ!」と思ったことがきっかけでした。

なので,「国分寺建立の詔」の中に「国分寺」という言葉がどう出て来るのか,
いや「もしかしたら出て来ないかもしれないぞ」と仮説を立てていたので,
「柳の下にドジョウ(「なかった」)が2匹」となり,
めでたく?多元的「国分寺」研究がスタートしたのでした。

肥さん

柳の下のどぜうは2匹どころではなく、指では数えきれないかもしれませんね。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

本当にそうですね。
できるだけたくさん見つけたいものです。

日本国の五畿七道に「北海道」がなかった理由は、九州王朝に既に北海道があったのでつけられず「北陸道」の名を延長せざるをえなかった。西村説です。この説の重要性は、なぜ「海道」なのかという疑問を見事に解いているところです。
官道が海路を含んだものだという仮説が重要なのだと考えます。北海道は朝鮮半島南部(任那)まで、南海道は琉球王朝の手前まで、西海道は五島列島を通るルート、つまり外国と国境を接するくらいまで官道が設定されていたという仮説なのですね。倭王武の上表文に「海北を平らげること・・・」と出てきます。西村さんは、山陽道は九州王朝の東海道の名を大和の西が東海道ではおかしいので改名したものだとされています。

山田さんへ
コメントありがとうございました。

北海道は明治維新の時に誕生したと思っている人が多いと思いますが,
(蝦夷地を改め,北海道としたと習うので)
もともと北海道は九州王朝を原点としてあったとするわけですね。
なるほどなるほど。ワクワクしてきました!

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