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2017年1月28日 (土)

長門国府と国分寺の復原図

『新修 国分寺の研究』第七巻・補遺をパラパラ見ていたら,
川瀬さんの論文の中で「不明欄」が目立った長門国分寺についての論文が
掲載されているのに気が付いた。

特に「長門国府と国分寺の復原図」は,イメージを広げるのにいいと思い,
川瀬さんにメール添付で送るとともに,「夢ブログ」にも掲載します。

九州王朝の国府寺 → 大和政権の国分寺への転用という感じがしますが・・・。

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写真をクリックすると拡大します。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

長門国府と国分寺の復元案。
 一体何を根拠にして作られた「復元」なのか。ここが明確でないと使えません。
 この遺跡群はほとんど発掘できていないはず。何せ市街地なので。だから「復元案」は周辺の地形と国府跡や国分寺跡と言われている場所の関係から、他の国府や国分寺の例を参考にしてつくっただけではないのか。
 国分僧寺をみると、いわゆる国分寺式伽藍配置になっている。
 これが上のように推理した理由です。一部でも発掘されていれば別です。

 国府跡といわれるところに隣接しているので、国府寺を転用したであろうことは確かですが、発掘事例に基づかない「復元」は無意味です。
 論文をご確認ください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 国府跡といわれるところに隣接しているので、
〉 国府寺を転用したであろうことは確かですが、
〉 発掘事例に基づかない「復元」は無意味です。

あまりにもハッキリ線で描かれていたので転載してしまいましたが,
これは発掘でハッキリわかっているからではなく,
逆に宅地化が進み過ぎていてあまりにもハッキリわかっていないので,
「周辺の地形や国府条坊から復原案を描いてみました」という作品なのですね。
古い町らしく「忌宮神社境内図」「長府古図」(複数)なども残っていて,
想像力に拍車がかかったのかもしれません。
論文を詳しく読んでみます。

肥さんへ

 この復元は興味深いですよ。なぜこのような復元をしたかという点です。
復元した人は国分寺式伽藍配置とはどんなものだと思っていたのか。
これを国分寺式だと思っていたのかどうか。

この「講堂に取り付く回廊内に金堂を、回廊外に塔を配する」という伽藍配置は、信濃国分僧寺やかなり多くの国分尼寺(尼寺に塔はありませんが)のとる伽藍配置です。私がいま執筆中の「失われた伽藍配置《国分二寺図以前》」(題は3月末に発刊予定の「失われた倭国年号」《大和朝廷以前》のパクリですが、内容はパクリではありません。)で言っているところの、“従来説によって失われた伽藍配置”(「金堂中心時期の伽藍配置」)なのです。この伽藍配置を従来説は“国分寺式”(一定などしておらず様々な伽藍配置の、ごった煮状態の非学術的用語)に含めたため、塔と金堂を回廊内に配する伽藍配置から一挙に塔と金堂が回廊内から消える伽藍配置(大安寺や播磨国分寺のような金堂型回廊の伽藍配置)に移行してしまう変遷となっています。私はこれは何か変だという疑問を抱き、考察した結果をいままとめている最中です。
 論旨は、塔と金堂が回廊内にある古式から、大安寺のような金堂型回廊へ移行する中間の時期に、過渡期的伽藍配置として「金堂中心型伽藍配置」(講堂に取り付く回廊内に金堂を、塔は回廊外に配する伽藍配置)が存在した。従来説はその伽藍配置をきちんと伽藍様式として認識せずに、ごった煮“国分寺式”に含めたので、この伽藍配置様式が失われた(無かったことになってしまった)、というものです。これを個別伽藍(塔、金堂、講堂、回廊ごと)のあり得る形態の組み合わせ(現在288通り、これを総合的にはありえないものを取り除いていく作業中)を検討して可能な変遷を取り出して、この伽藍配置が従来説には存在しないが、実際の古代寺院遺跡にはちゃんとあることを示して、反論の余地がないように論理的に組み立てる作業中です。結論はすでに得ているので、あとは反論の余地を残さぬようにするだけの、でも大変面倒な作業をしている最中です。
 この「金堂中心型伽藍配置」は川瀬さんがご教示くだすった「元興寺」もそうでした。この伽藍配置様式の塔を七重塔に改造した国分寺は必ず見つけ出すことができると考えています。
 今、知りたいのは誰がこの「講堂に取り付く回廊内に金堂を、塔は回廊外に配する伽藍配置」を“国分寺式”としたか、そして“国分寺式”とした根拠はどこにあったかです。これを“国分寺式”としたのは誰なのでしょうね。とても気になります。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉  今、知りたいのは誰がこの「講堂に取り付く回廊内に金堂を、
〉 塔は回廊外に配する伽藍配置」を“国分寺式”としたか、
〉 そして“国分寺式”とした根拠はどこにあったかです。
〉 これを“国分寺式”としたのは誰なのでしょうね。
〉 とても気になります。

私の中では,もう「長門国分寺復元図」のことは消えていたので,
また出てきてびっくりしました。
山田さんの考察の結果を楽しみにしています。

肥さんへ

肥さんだけでなく、私も「長門国分寺復元図」は消えていました。
執筆中のテーマに該当する国分寺遺跡の事例を探して、
その中に長門国分寺は登場しないのですが、
(川瀬さんが書かれていることが理由だと思います)
肥さんが載せた図がその伽藍配置だということに気づいたのです。
つまり、誰かが“国分寺式”とした伽藍配置は次の3種類に集約できます。

①角田文衛氏説「国分二寺図の(僧寺)伽藍配置」。事例:播磨国分寺
②斎藤忠氏説「正方形に近い横長の金堂型回廊の外に塔を配するもの」。事例:遠江国分寺など
③誰か説「講堂型回廊内に金堂を、回廊外に塔を配するもの」。事例:元興寺、信濃国分寺、国分尼寺の多数

もちろん、国分寺には、このほか古式の伽藍配置のまま、塔を七重塔にしただけのものや、塔を回廊外に移して七重塔にしたものなど、改造が明らかな国分寺は多数あります。
しかし、伽藍配置様式として提示されたものはこの三種類になると思います。

肥さん、写真掲載、ありがとうございました(過去の記事にお礼も変ですが)。

山田さん・肥沼さんへ
 山田さんの疑問「誰がこの『講堂に取り付く回廊内に金堂を、塔は回廊外に配する伽藍配置』を“国分寺式”としたか、そして“国分寺式”とした根拠はどこにあったかです。これを“国分寺式”としたのは誰なのでしょうね」に答える方法。
 これは国分寺の研究史を丁寧に追うしかないと思いますね。
 「新修国分寺の研究」の中に研究史を扱った論文があると思います。複数あると思うので、これを肥沼さんが選んで、コピーしてくれるとありがたいな。
 まずは、研究史に関わる論文でどんなものがあるのか。目次から標題だけで良いから取り出してみてください。そこから私が選んでみましょうか。

 私たちの多元的国分寺研究の重大な欠陥は、研究史を精査していないことだと考えています。先行研究の精査の中から、次なる課題がでてくるのですから。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥さん、写真掲載、ありがとうございました(過去の記事にお礼も変ですが)。

私も少しはお役に立てたのかな?
だとしたらうれしいです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

『新修 国分寺の研究』第六巻(総括)の文献目録の中に,
角田文衛「国分寺研究史」というそのものずばりの名前の論文があるようです。
ただし,これは『国分寺の研究』上巻所収,京都,考古学研究会,昭和13年だそうです。
 

肥沼さんへ
 ご指摘の文献は古すぎます。戦後の考古学の活動が抜けている。
 「新修国分寺の研究」には、国分寺研究史を概観した論文や、とくに伽藍配置を研究した論文はないのでしょうか。

山田さんへ
 中門から伸びた回廊が金堂の北の講堂に取り付く形式の伽藍配置。
 先般見つけた、大安寺も元興寺もこの形式ですね。そして東大寺も。 信濃国分寺とは異なる点は、これらの寺院では回廊が金堂にも取り付いているということです。
 そしてもう一つ、中門から出た回廊が金堂や講堂をもその内陣に含み、講堂の北で閉じている構造が、大官大寺式です。この際は、回廊が金堂のところにも続いています。
 私は信濃国分寺の伽藍配置は、この大官大寺式の伽藍を改造して、塔を回廊の外に移動し、さらに金堂に取り付いていた回廊をはずしたものではないかと考えています。
 つまり山田さんの考えておられる信濃国分寺のような伽藍様式が、大官大寺ー大安寺の間にあったという考えではなく、大安寺のように塔を回廊の外に出した時点で、大官大寺式の改造の形になったのだと考えます。そしてこの様式が基本となって、国府寺の多くが改造されたと。
 如何でしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

探しているのですが,なかなか見つかりません。
とりあえず,古いもので「国分寺研究史」があったので,載せてみました。
引き続き「戦後の研究成果」が入っているものを探します。

川瀬さんへ

そのように考えることも可能です。
いまやっている作業はそのような可能性(反論)が成り立たないことを論証しようとしています。
ありとあらゆる組み合わせから矛盾した組み合わせを一つ一つ取り除く作業を実施している最中で、組み合わせの数が多いため検討に時間がかかっています。最終的には川瀬さんのお考えが合っていて、私の作業仮説(思いつき)の方が間違っているという結論がでることもあり得ますので、ここでどっちかを断言することはできません。いまは、川瀬さんのお考えのようなこともあり得るとしか言えません。ただ、国分尼寺までそのように(金堂に取り付いていた回廊をはずして講堂に取り付けるように)改造したのかという点がいまいち納得できない点ではありますが、これも改造したという考えもあり得ますので、なんとも言いようがありません。こんなことしか書けなくてすみません。

山田さんへ
 信濃国分寺は大官大寺式の伽藍を改造したとの考えを訂正撤回します。
 理由は講堂という建物の位置づけの変化からです。
 講堂は当初は回廊の中にありました。飛鳥寺でも法起寺式でも法隆寺式でも、そして四天王寺式でも講堂は回廊の北側にあり、講堂の左右に中門から伸びてきた回廊が取り付いています。つまり講堂もまた、塔や金堂のように聖なる場所であった。
 このことは7世紀後半の新たな寺院、薬師寺式でも同様で、講堂は回廊の北に取り付いています。
 新たな変化が出たのが大官大寺式。ここでは金堂の位置づけが強化され、回廊が金堂にも取り付き、金堂前庭が重要視されました。
 そして次の大安寺や元興寺では、塔が回廊の外に出される。ただしこのときはまだ塔院の形をとるので、塔も、そして金堂も講堂も聖なる空間であることは変わりがありません。
 そのごいつかはわかりませんが、講堂に回廊が取り付くこともなくなり、塔も回廊を失い、寺院の聖なる空間は金堂だけとなります。
 このように伽藍の変遷を考えると、信濃国分寺はちょっと変です。
 なぜなら講堂に中門から出た回廊が取り付き、金堂にはまだ回廊がついていないので、金堂前庭がまだ独立した空間になっていないのです。つまり大官大寺式以前の古式寺院の様相を持っている。しかるに塔は回廊の外にだされ、しかも回廊をもっていなので、すでに塔が聖なる空間ではないことを示しており、これは最も新しい形式です。
 このためこう考えるべきでしょう。
 信濃国分寺は金堂も講堂も(そしておそらくは塔も)聖なる空間であった時代の伽藍で、これら三つの伽藍が中門から伸びた回廊で囲まれた空間にあり、回廊は一番北側の講堂に取り付いていた。つまりは、大官大寺式よりも少し古い形式の伽藍。もしかしたら金堂に回廊がついていないので、薬師寺式のようの双塔寺院だったかもしれません。
 この古式の寺院の塔を解体して、回廊の外に新たに七重塔を造った。しかも回廊なしで。
 こうして信濃国分寺は、古式の寺院の様相と、もっとも新しい寺院の様相を兼ね備えることとなった。

 こう考えたらどうでしょうか。
 今まで私たちは、講堂の性格についてはまったく考慮していませんでした。
 したがって金堂院が中心となり、講堂はその外側の北に置かれ、塔は回廊の外に回廊なしに置かれた形の「国分寺式伽藍」(齋藤忠氏の説と角田氏の説)は、講堂も塔も聖なる空間ではなくなった、もっとも新しい形式、つまり大安寺や元興寺や東大寺よりもさらに新しい形式である、となります。

 尼寺の件はまた別に考察したいと思います。
 なぜなら国分尼寺の総寺である法華寺は塔を回廊の外にもっているのです。そして多くの国分尼寺は、信濃国分尼寺のように、中門から出た回廊が北側の講堂に取り付き、その空間の中に置かれたのは金堂のみ。でも金堂院の形態はとっていない。
 尼寺の変遷を研究したものがあるのかどうか調べてみます。

川瀬さんへ

ご高察の伽藍変遷は、私の伽藍別変遷にもあります。
私が「伽藍別変遷」というのは、塔、金堂、講堂、回廊について、
それぞれがどのように変遷していったかというものです。
これを組み合わせたもの(たくさんあります)を検討しているのです。
なぜなら、一意に描ける伽藍配置様式というものは、
この三伽藍と回廊によって定義されているからです。
ですから、当然講堂の形態がどのような変遷をしたかも入っています。

数学では「エレガントな証明」がよいのですが、
「四色問題」を解決した「エレファントな証明」もあります。
いま私がやっているのは「エレファントな証明」の部類です。
私の論証がリリースされると検討する方も「エレファントな検証」をしなければならいでしょうね。

川瀬さんのお考え「

今まで私たちは、講堂の性格についてはまったく考慮していませんでした。
 したがって金堂院が中心となり、講堂はその外側の北に置かれ、塔は回廊の外に回廊なしに置かれた形の「国分寺式伽藍」(齋藤忠氏の説と角田氏の説)は、講堂も塔も聖なる空間ではなくなった、もっとも新しい形式、つまり大安寺や元興寺や東大寺よりもさらに新しい形式である、となります。

」がエレガントに論証されればよいのですが。

斎藤忠氏の説については私はよくわかりませんが、
角田文衛氏の説は「国分二寺図」の伽藍配置=「国分寺式」なのですから、
東大寺よりもさらに新しい形式であるという説で川瀬さんの言うところと同じだと思いますが?
私の考えでは齋藤忠氏と角田文衛氏の説は相いれないものだと思います。
斎藤忠氏は聖武詔で国分寺が造られたとして典型的国分寺式を抽出した。
角田文衛氏は「国分二寺図」で国分寺が造られた(東大寺の竣工後です)としています。
私は角田文衛説を支持しています。ただし、その国分寺は極めて少ないという立場です。角田説を検討していませんから、この見解は角田文衛氏と異なるかもしれません。


肥沼さんへ

 この「長門国府と国分寺の復元図」のスレッドは、肥沼さんの「夢ブログ」の範疇を超えて、「多元的『国分寺』研究サークル」の分野に深く入ってしまっています。できたらこのスレッド毎、「多元的『国分寺』研究サークル」のサイトにコピーできませんかね。
 「信濃国分寺の伽藍配置は?」のところも同様です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

了解いたしました。
これからその作業に取り掛かります。

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