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2017年1月24日 (火)

「越智国」に歴史の光を当てよう!

合田洋一さんの以下の論文を,
一度紹介したことがあった。

「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立
越智国にあった「紫宸殿」地名が物語るもの

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/sisini29.html

昨日川瀬さんの「国分寺」についての論文を検討していた際,
伊予国府がどこにあったかが気になり,
そう言えば合田さんが大和政権によって消し去られた
「越智国」という話題を書いていたと思い出し,
そしてそれは今の今治付近なのだが,
九州王朝と親しい関係(友好国?)だったからこそ,
九州王朝が主導した白村江の戦いにも積極的に参加し,
太宰府の紫宸殿が危うくなった際には,
越智国にそれを置き協力をした,というつながりで
(そして,当然大和政権からは憎まれただろう)
歴史を再現できるのではないかと思い,
再び合田さんの論文をリンクさせていただいた。

「紫宸殿」や「天皇」という字地名のある越智国に歴史の光を当てよう!
それが多元的古代研究のやるべきことと思い,
「夢ブログ」でも取り上げた次第である。

合田さんの論文の後半にその話題が出てきます。
ぜひお読み下さい。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

紫宸殿や天皇の地名の残る西条市明理川と、西条市河原津の永納山山城の位置関係を調べてみました。
 伊予国府があったと思える今治市旦
                    ↓
             南2キロ:今治市朝倉(旦と朝倉の間には山)
                   ↓
             南東3キロ:永納山山城
                   ↓
             南5キロ:西条市明理川
  永納山山城は、この山のすぐ南側の西条平野西部の川の扇状地の地域を守っているように見えますが、この山城のすぐ西には北に延びる細長い谷が伸びていて、ここを北上すれば今治市旦に至るわけで、このルートを古代南海道(国道159号156号線)が伸びていた。
 つまり伊予国府と九州王朝天子の行宮があったとみられる朝倉地区を、東南の西条平野の入り口、ここがたしか古代越智国だったと思いますが、ここから上陸して街道沿いに北上してくる外国軍を迎え討つ場所にあるわけです。
 ということは同じ地域を守るには、旦のすぐ東側の桜井川河口を守るために浦手山にも城が欲しいし、さらに旦の西側の国分寺のすぐ北側にある唐子台という丘にも城が欲しいですね。
 yahoo地図だと地形図になるので分りやすいです(ただし永納山は表示されません)。
 西条市明理川の地は、西条平野のど真ん中で、海から壬生川もしくは明理川をさかのぼればすぐの場所。どう見ても防御はできない地なので、ここは平時の都の位置ですね。白村江の敗戦と唐軍による太宰府占領のあとという危機が去ったあとであれば、天子の避難地としては適当な場所だと思います。
 これに対して今治市旦と朝倉は、東西南北を要害の地で囲まれた堅固な防御地になっています。

国分寺難しいですね。まずは
九州管内の国分寺の瓦を調べてみたらどうでしょう。
難しいテーマに果敢に挑まれていることに敬意を感じます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

戦時では無理だが,平時なら適当であるということですね。
なぜ九州王朝の紫宸殿が越智国に移動していたのか,
イメージができてきてうれしいです。

上城さんへ
コメントありがとうございます。

最初の頃九州内の「国分寺」から検討を始めましたが,うまくいかず,
今は「武蔵国分寺」の歴史変遷をやっています。
その過程で「26国」について国府寺から国分寺への改築がないかどうか
検討しているところです。

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