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2016年8月 4日 (木)

部活前に「新治廃寺・新治郡衙跡」を訪問

部活の前後で遺跡を訪問するのも3回目となった。
(相模国分寺・寺本廃寺&甲斐国分寺に続く)
寅さんは48作まで続いたそうだが,
肥さんは何回まで続くのだろうか。
(私の住環境は,遺蹟巡りには大変適していて,
始発で出発すれば関東圏なら半日で行ける)
今回は,新治(にいはり)廃寺と新治郡衙跡等に
白羽の矢が立ったというわけだ。
(その中には,素晴らしい方との出会いもあった)

(1) 新治廃寺~2塔1金堂の「新治廃寺式」と呼ばれる珍しい伽藍配置 ※1 ※2

心礎間が約50メートルで,基壇もあるからもっと手狭に感じられた。
http://www.city.chikusei.lg.jp/index.php?code=269

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http://www.city.chikusei.lg.jp/index.php?code=269

(2) 上野原瓦窯

説明の看板に「汲古館」に出土物を展示してある
という耳より情報を得ることができた。

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(3) 新治郡衙跡

大規模な遺跡で瓦も大量に出た模様。
この遺跡跡を見学した直後に,素晴らしい出会いが待っていた!

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(4) 筑西市文化財保護審議会・委員のSさんとの出会い

Sさんのおかげで出土瓦などを見せていただくことができた。
実は,前述の「汲古館」のお隣にお住まいだったのがSさんだったのである。
しかも,私が訪問した新治郡衙跡の説明版付近が,
ちょうどSさんの家の田畑だった。

子供のころから指導して下さる方もいらっしゃり,
たくさんの知識を吸収されたとのこと。
Sさんは素晴らしい学習環境にも恵まれたわけだ。
ところが残念なことに,「汲古館」に保管されていた出土物は,
東日本大震災のため,大切な保管場所を失った。
そこで今別な方の家の倉庫に,その仮展示室が設けられ
それを今回見せていただいたものだ。

たくさんの出土物は隣の桜川市に引き取られることになったとのこと。
それらが約1万点もあるというから驚く。
(残念ながら筑西市にはスペースがなかったらしい。
こんな「宝」を埋もれさせてしまっては,
本当にもったいないと思うのだが・・・)

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新治廃寺からの出土物コーナーもあった!

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もしかして,唐三彩???

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金属製品だ!廃寺の?郡衙の?

(5) 結城駅の観光案内所

担当のKさんが,8/5(金)に結城廃寺(法起寺式)跡を案内して下さることになった。
「部活の前後」シリーズは,第4弾が予約済です!
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/shiseki/12-24/12-24.html

P8031036

私がフィールドワークが好きなのは,そこに人と人との出会いがあるからだ。
もちろん文献調査で新しい資史料との出会うこともうれしいけれど,
同じ時代を生き,別な場所で生活していた人間が,
私のフィールドワークを通して「一期一会」の時間を持つことができる。
これには代えがたいものがある。
不案内な場所で,道を教えてくれるだけでもうれしいのに,
今回は地元の文化財保護審議会の委員のSさんと出会えた。
しかも,趣味は「友人との縄文遺跡巡り」というのだから,
その喜びは100倍1000倍である。(出会うべき人に出会えたという感じ)
タクシーの運転手さんにも感謝したい。
「上野原瓦窯跡」に先に回った方がいいとアドバイスしてくれ,
その看板から「及古館」のことを知り,そしてその主人のSさんに出会えた。
この順番がずれていたら出会えなかったろうし,「及古館」という存在も
ただの名前だけの話に終わっただろう。そして,もちろんSさんとの交流も。
今後もSさんとは連絡を取って,瓦の洗浄作業などを拝見したいと思っている。
そして,それをまた「夢ブログ」で報告したい。乞う御期待!
部活前の半日が,こんなにも多くのものを与えてくれようとは,
本当に生きていてよかったと思えた時間だった。

※1  奥村廃寺で最も目を引くのは、金堂左右に塔を 配する特異な双塔伽藍。
列島内で、来美(くるみ) 廃寺(出雲)・三ツ塚廃寺(丹波)・新治(にいばり) 廃寺(常陸)で類例が見られるのみ。
古代朝鮮で はこの様式の双塔伽藍は存在しないようなので、 列島で独自に展開した伽藍配置になる。
(川瀬さん紹介のサイトから)

※2 武蔵国分寺の場合は,塔の基壇が大きく(17mもある),塔1と塔2の間隔は55m。
すると残念ながら新治廃寺のように,横に東塔ー金堂ー西塔とは並べられないようだ。
すると金堂が奥に引く形の,薬師寺以上の規模の寺院が当初は計画されたのだろうか?
またその配置だと,「塔中心」とは言えず,明らかに「金堂中心」の伽藍のように思える。
以上,山田さんのコメントを受けて考えたこと。

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コメント

 さっと出かけられる肥さんがうらやましいですね。僕にはできない。
 説明看板の図を見ると、新治廃寺の金堂は東西3間、南北2間の小型の金堂ですね。柱を乗せる礎石が、東西に4つ、南北に3つだから。とすると塔の規模もあまり大きくないな。基壇の大きさが確認したいです。
 武蔵国分寺の塔の規模はかなり大きい。一辺17mだ。

 追伸:
 なぜ肥さんは、考察する前にすぐに動き出すのだろう。動いたことで、見たことで、人に出会ったことで何かなしとげられたかのように錯覚するのだろうか。目に見えた成果があったかのように。
 新治廃寺の伽藍形式は興味深い。ただ狭い範囲に建物が密集しているのでこの形式を武蔵国分寺にあてはめられるかどうかは疑問がある。武蔵国分寺は金堂の大きさがけた違いに大きいし、塔の規模も同じくけた違いに大きい。やはりこの塔中心の伽藍は薬師寺式と考え、当の薬師寺よりももっと大規模な寺院が構想されていたとみるべきではないでしょうか。塔の規模は、武蔵国分寺が一辺17m。薬師寺は14m程度。
 だから新治廃寺の伽藍規模を知る必要がある。行ったことでこれがわかったか?遺跡はすでに埋め戻されているので実際にみてもわからないことは航空写真で明白。実測図を手に入れる必要あり。これは報告書か研究書。茨城県教育委員会に連絡するのが一番早いかも。
 また新治廃寺は8世紀初頭と考えられている。
 その根拠は瓦。下野薬師寺形式の瓦だが、文様が崩れているので同じ木型を使ったとしてもかなり使いまわして磨滅したものと考えられている。
 でも肥さんが見た瓦は、かなり文様がくっきりしている。従来説の理解でよいのかどうか。
 これは報告書や研究書で従来は瓦をどう認識しているのかを確認したうえで、実見する方が有効だ。
 結局肥さんは実際に行って何を見つけてきたのだろうか。

 見に行くことで自己満足していませんか?
 また見に行ったことで、考察を放棄しいていることを、ごまかしていませんか?
 見ることは大事ですが、事前の考察抜きでは、見れるものも見えないことは多いですよ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私が何も考察しないで現地に赴き,
ただ見てきただけというようにお感じのようですが,
私なりにサイトの図面から「かなり小規模」の予想を持って
現地には行っております。
「行って見て」の感想は「予想以上に狭く小さい」でした。
金堂の基壇前に立って左右を見ると,
東塔と西塔の基壇跡の盛り上がりが
本当に間近に思えました。
川瀬さんは「そんなの報告書を読めばわかる」と感じるのかもしれませんが,
私にはこの実感がわかないとやる気が起きてこないのです。
図面とか表とか写真とか,そんなものが3人のやり取りの中で出て来ると
もっといいのではないかと思っています。
それから,人と人とのやりとりがなければ,
私にとっては無味乾燥な作業になってしまうのを,
防ぐという意味もあります。
いろいろな方法でチャレンジするからいい
という方法論はないものでしょうか?
(もちろん私もいつまでこういう旅ができるか
わからないとは思っています)

PS なお,本日の国分寺行は,2人の顧問がそろって用事が入っていて,
私しか部活に出られるものがおりませんでした。
「ウルトラC」は残念ながらなりませんでした。

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