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2016年8月31日 (水)

日本国の琴制~四絃・五絃を廃して,六絃へ?

『芸能史研究』NО.144の中に,若い頃参加していた市民の研究会の
増田修さんの名前が出てきた。
検索してわかった上記の雑誌の結論部分を,
コピーさせていただくことにしよう。
昔は音楽も政治と密接につながっており,
私たちが「音を楽しむ」ように気軽なものではなかったようである。

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(5) 増田修は、「古代の琴 ー正倉院の和琴への飛躍ー」(『市民の古代』一一、一九八九年)
および「『常陸国風土記』に現れた楽器」(『市民の古代』一三、一九九一年)において、
水野正好が集成した以降のものも加えて、五〇数例の出土した木製琴・埴輪の琴・金属製雛型琴について、
その構造と特徴を分析し、かつ、琴の絃数の持つ政治的・文化的意義を考察した。

 木製琴の絃数については、基本的には突起と突起の間に絃を出し、
六突起のものは、五絃であることを論証した。
そして、六突起の木製琴(五絃)と五絃の埴輪の琴は、主として九州から近畿にかけて分布し、
四絃の埴輪の琴は、関東(常陸を除く)に濃密に分布していることに注目した。
この分布については、例外もあるが、それらは各地の交流を示していると考えられる。

 我国の古代の琴は、元来は王者の宝器で、祭祀に用いられる神聖な楽器であった。
古墳時代の琴の絃数の相違は、山口庄司が解析したように、異なった音数で、
異なる音域の音楽を演奏していたことを証明している。
この事実は、古代日本には、異なった祭祀圏=政治圏が、存在していたことを示唆している。
従って、四絃の琴は、関東の大王の政治・文化圏で主として用いられたものであり、
五絃の琴は、倭国(筑紫)の政治・文化圏を中心として用いられたものと推定した。

 埼玉県行田市所在の稲荷山古墳からは、一一五の黄金文字の銘文が刻され、
「辛亥年」(四七一年に該当か)の干支を持つ鉄剣が出土しているが、
四絃の埴輪の琴も出土しているのである。
この鉄剣に「・・・今獲加多支カタシロ大王大王寺、在斯鬼宮時・・・」と刻まれた「大王」は、
栃木県下都賀郡藤岡町字磯城宮に所在する大前神社(延喜式以前の名称を磯城宮という)の地に
君臨していたと思われる(古田武彦『関東に大王あり ー稲荷山鉄剣の密室ー』、
一九七九年・新泉社版一九八七年)。
通説は、「獲加多支カタシロ大王大王」は雄略天皇であるとするが、
雄略が宮殿を置いたのは、長谷(泊瀬)の朝倉宮であって斯鬼宮(磯城宮)ではない。

イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO

 『隋書』イ妥*国伝には、「楽有、五絃琴笛」とある。
イ妥*国は、大委(大倭)国の意であろう。中華書局版では、「五絃・琴・笛」と文字を区切っているが、
我国では一般に「五絃琴」と続けて呼んでいる。
しかし、『隋書』においては、他の個所では、五絃は総て五絃琵琶を指している。
また、倭国の「五絃琴」であれば「柱」があるので、中国における楽器名で「五絃箏」と記録されるであろう。
更に、この個所は、倭国の総ての楽器を記録しているわけではない。
他の個所には、倭王が、隋の使者裴清を「鼓角」を鳴らして迎えたという記事もある。
従って、ここでは、「五絃」は五絃琵琶、「琴」は七絃琴、「笛」は横笛を指していると考えられる。
倭国は、すでに中国と同じ楽器も用い、五音音階の文化圏に入っていたと思われる。
 
  ところで、『隋書』イ妥*国伝に見える倭国には阿蘇山があり、その倭王・阿毎多利思北孤は、
日出づる処の天子と名乗り、妻(鶏弥)を有し、その後宮には女性が六、七百人いる。
従って、この倭王は、女王・推古天皇や摂政・聖徳大子ではあり得ず、
九州(筑紫)の王者であろう(古田武彦『失われた九州王朝』、一九七三年・朝日文庫版一九九三年)。

 『旧唐書』は、日本列島内に二つの王朝ありとし、一方を倭国伝、他方を日本伝としており、
「日本国は倭国の別種なり、・・・倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す、
・・・日本は旧小国、倭国の地を併せたり」と記述している。
そして、『三国史記』文武王一〇(六七〇)年条には、倭国が国号を日本と改めたという記事がある。

 古田武彦は、『旧唐書』に見える倭国は九州王朝、日本国は近畿天皇家を指し
倭国の分流(分家)であるという。
そして、大宝元(七〇一)年、近畿天皇家は、白村江における百済救国の戦い(六六三年)で
唐・新羅の連合軍に完敗して衰微した九州王朝を併呑して、
新たに大宝律令を制定したという。
大宝二(七〇二)年には、日本国は、遣唐使を派遣し唐王朝によって
日本列島の代表王者として承認されたという(前掲『失われた九州王朝』)。

 近畿天皇家は、日本国を創建し、諸制度を制定・整備するなかで、
琴制については四絃・五絃を廃して、大嘗祭・新嘗祭で使用される大和朝廷独自の神聖な楽器として、
新たな六絃の和琴の制を採るようになったのであろう。

 ここで刮目されるのは、『琴歌譜』に見られるように、
初期の六絃の和琴が四音音階で構成されていたことである。
すなわち、和琴は、関東(あづま)の大王の四絃の琴に、その淵源を持つと考えられるのである。
「あづま」は和琴の惣名であるとは、よくぞ言ったものである。
この事実は、近畿天皇家が日本国創建に当たり、
前記稲荷山古墳出土の鉄剣銘に刻まれた大王の後喬による、
少なからぬ援護を受けていたことを物語っているように思われる。

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