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2016年8月22日 (月)

洛中洛外日記の「西村さんの記事」について(2)

西村さんの指摘された『続日本紀』養老二年(718年)五月七日の記事は,
以下の通りである。

「公私の使いが土佐の国に直接向かおうとしても,
その道は伊予国を経由しており,行程は遠廻りで,
山や谷が険しく難儀であります。
ただ阿波国は土佐と国境が互いに接しており,
往還は甚だ容易です。
どうかこの国の方を通るのを経路として頂きたい」と。
これを許可した。

『続日本紀(上)』(講談社学術文庫)を読み,私もこの記事にアンダーラインならぬ
サイドラインを引いていた。しかも,土佐と伊予に点まで打ってある。
ああ,それなのに・・・そこに発見はなかった。
本当に残念な肥さんである。(。>0<。)

この時,労を惜しまず略図を描いていたら,
「おやっ,変だぞ!なんで2倍も遠巡りしていたんだろう?」となって,
閃いていたかもしれなかった。

(1) 九州王朝ルート   伊予←讃岐←阿波
                 ↓
                  →土佐 (333キロもかかる)


(2) 大和政権ルート            阿波 
                          ↓
      (わずか148キロで到着) 土佐←

西村さんに電話でお聞きしたところでは,
「直接土佐には行けないような仕組み」が当時はあったのではないか
(九州王朝の「伊予政府」の許可なしに,勝手に近回りすることはできない等)
とのことだった。

しかし,古代官道は全長6300キロ。
こういう「ヒント」が他にも残されているかもしれない。
そういう問題意識を明確に持って,『続日本紀』を再読したいものだ。

なお,日本書紀にはまた別の興味深い記事もあるそうだ。
崇峻天皇が国見のために,三道に使者を派遣したというのだ。
(太宰府を拠点とした北陸道,東海道,東山道のみ記述。
つまり,太宰府が中心ならば,山陽道・山陰道などは登場する必要がないのだ!) w(゚o゚)w

崇峻天皇の国見
http://nihonsinwa.com/page/1790.html
                           ー→ 北陸道(越などの諸国の国の視察)
                         /
九州王朝(太宰府) → 副都(難波京)?  ー→ 東山道(蝦夷の国の境の視察)
                         \
                           -→ 東海道(東の方の海の浜にある諸国の境の視察)

やはり「日本古代ハイウェーを作ったのは,九州王朝」という考えに間違いはなさそうだ。
西村さん,素晴らしい発見を,ありがとうございます!(o^-^o)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 肥沼さんありがとう。
 西村さんが発見された南海道の付け替えの記事。ここに王朝交代の証拠があったのですね。
 また日本書紀の崇峻紀に三道に国見の使者を送ったという記事。これも興味深いですね。崇峻紀もまた日本紀などの九州王朝の王の事績を多数はめ込んだのかもしれませんね。つまり三道に国見の使者を送ったという「崇峻」=難波京副都に拠点を置く九州王朝の天子、もしくは副王としての伊勢王という図式が出てきます。
 また崇峻即位前の例の「河内戦争」で殺された「萬」の話と、崇峻暗殺の話。とてもよく似ています。
 つまりこの二つの話は本来同じ話で、萬=崇峻。すなわち河内戦争とは、九州王朝に逆らう近畿天皇家の王=崇峻を近畿天皇家内部の九州王朝提携派と結託した九州王朝が崇峻を戦で打倒し、結果として近畿天皇家の固有の領土であった近畿8か国を九州王朝が直轄地としたというお話が、ここに入っているのかもと想像します。まだ思いつきの段階ですが。
 古代史の史料には、まだまだお宝が眠っていますね。国分寺の史料と同様に。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

西村さんの発見のおかげで,
いろいろな視座が開けてきそうです。
本当に研究というのは1人だけではできないものですね。
その刺激が多元的「国分寺」研究に大きなプラスになればうれしいです。

肥さん

惜しい。あと一歩、(3)のルート表示をつけてくれたら判り易かった。

(1)
九州王朝ルート   伊予←讃岐←阿波
              ↓
               →土佐 (333キロもかかる)

(2)
                           ー→ 北陸道(越などの諸国の国の視察)
                         /
九州王朝(太宰府) → 副都(難波京)?  ー→ 東山道(蝦夷の国の境の視察)
                         \
                           -→ 東海道(東の方の海の浜にある諸国の境の視察)

以上は肥さんが描いたルート、(1)のルートを(2)の考えで描けば

(3)
九州王朝(太宰府) →伊予⇒讃岐⇒阿波
               ↓
                →土佐

こう描いていただくと、一目瞭然でわかり易かった。

名無しさんへ
コメントありがとうございます。

私は「大和の人の気持ち」で書いたのですが,
(3)だと誰の立場で,「一目瞭然。より分かり易い」のでしょうか?
再度ご説明いただけたらむ幸いです。

肥さん

名前入れ忘れました。すみません。名無しは私です。

説明します。肥さんの論旨は大和の人の気持ちを代弁することではないと受け取りました。
つまり、古代官道は九州王朝の建設したハイウエーであるという論旨だと理解したわけです。
なんのためのハイウエーか、官僚の赴任のためや、旅行のためではない、軍事用道路だと。
と考えれば、九州から行ければよいわけで、地方同士が行き来するのは関係ない。
だから、九州から土佐へ短時間で行ければよいわけで、阿波と土佐が距離がどんなに近かろうと関係ない。
そういう思想でつくられていることを示せば、肥さんが主張したいことがわかりやすく伝わり易かったと考えた。
こういう意味です。おかしな理解だったでしょうか?

山田さんへ
コメントありがとうございます。

そうだったのですか。それならわかります。
私は四国内の「古代ハイウェー」の流れまでは考えておりませんでした。
山田さんに一歩考えを進めていただきました。
ありがとうございました。
「誰の立場で」という言い方をするなら,
「九州王朝の立場」ということになるのでしょうね。

 肥沼さん。一つ質問です。
 武蔵国が東山道から東海道に所属替えになったのはいつでしたか?
 なぜこれを質問するかというと、この処置に伴って東山道武蔵路が主要官道ではなくなるからです。
 そして武蔵国分寺の変遷を考えるとき、東山道武蔵路の歴史は不可欠。
 あの遺跡は創建期伽藍は武蔵路に並行に、尼寺と同様に作られていますし、その後の西7度傾いた伽藍もまたどうように、その寺地は武蔵路に接しておかれています。
 つまりこの伽藍は東山道武蔵路と一体です。
 ということはこの伽藍建設の上限は、東山道武蔵路の建設のあと。そしてこの伽藍建設の下限は、東山道武蔵路が主要官道ではなくなったとき。
 これがわかれば武蔵国分寺、いや武蔵国府寺⇒武蔵金光明寺⇒国分武蔵金光明寺⇒武蔵国分寺の歴史に難題を入れることができるからです。
 武蔵国が東山道から東海道に移された時期はいつですか?
 もう一つ
 東山道武蔵路建設は考古学では7世紀の第三四半期といわれています。つまり650年から675年の間。こう考古学者が判断した理由をご存知でしたら教えてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 武蔵国が東山道から東海道に所属替えになったのはいつでしたか?

→ 東山道から東海道に所属替えとなったのは,宝亀二年〈(771)のことです。

〉 東山道武蔵路建設は考古学では7世紀の第三四半期といわれています。つまり650年から675年の間。
こう考古学者が判断した理由をご存知でしたら教えてください。

→  所沢市東の上遺跡
東の上遺跡は所沢市内を流れる柳瀬川の左岸台地上にあり、南住吉・久米地区に広がる30万平方メートルに及ぶ大遺跡です。旧石器時代から古代・中世に至る複合遺跡で、平成元年(1989)の第36次調査で、南陵中学グラウンドから全長約100メートルの直線道路遺構が検出されました。両側に側溝をともない側溝間の芯々距離12メートルで、その両側溝内に3~5メートルの硬化面も確認されています。この道路遺構は道路の幅、直進性、走行方向が南は東京都内の府中市や国分寺市で発見されている東山道武蔵路と一致することから同じ遺構と当初から考えられていました。

道路遺構は過去に確認されたものと合わせると総延長300メートルに達し、走行方向は真北に対して約10度西に傾いています。側溝は長い土坑が連続して、幅約1メートルほどに統一されていて、直線性を推持し両側溝は平行を保っています。

側溝の深さは0.3~1メートルと一定せず、側溝の底から人為的に埋納されたと思われる須恵器杯蓋と杯身の完形を保った土器2点が出土しています。また以前の調査で硬化面に道路の修理等で混入したと思われる須恵器長頸壺が出土していて、これらの出土遺物から道路の築造年代は7世紀第3四半期と考えられているようです。

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