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2016年8月 8日 (月)

聖武天皇・略年表

「国分寺建立の詔」というのを出したのは
聖武天皇だということになっている。

ところが,調べてみると,その「国分寺建立の詔」には,
「国分寺」という言葉が1回も出てこない。
今やっている多元的「国分寺」研究は,
その時に始まりました。

「聖武天皇・略年表」というサイトがあったので,
リンクしておきます。

「聖武天皇・略年表」

http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/setumei/shomuryakureki.html

聖武天皇はちょうど701(大宝元)年生まれなので,
ある意味計算が助かるのですが
(756年に「56歳」で亡なっている等),
便利帳として持っていたいと思いました。

聖武天皇はОNラインの後半に生まれたわけで,
九州王朝のことはどのように知ったのだろう。
720年に日本書紀はできたが,
彼はそこからどのような「歴史」を勉強したのだろうか。
(藤原不比等周辺にかなり「教育」された?)

生みの母とも生き別れ状態にされたようだし,
天皇とはいえ,思い通りにやれたとは思えない。
(その背景には,本来なら長屋親王系の方が,
天皇の位に近い等のこともあるらしい)

24歳の時出した「白鳳以来・朱雀以前」の詔報も,
そのような背景を知って出したのか,知らずに出したのか。
(24歳というのは天皇になった年で,2月に天皇となり,
10月にこの詔報が出されたことになる)

「国分寺建立の詔」を出したのが41歳の時。
(ただし,「国分寺」の文字なし)
「郡司層への協力要請」が47歳。
(国司たちは協力せず)

その後も都を次々移したり,大仏作りをしたり,
九州から宇佐八幡を招いたり…。

「波乱万丈」の聖武天皇の人生は,
ちょうどОNラインの後半に生を得た時,
始まったのかもしれませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PS 本日の午後3時から,今上天皇が,
自分の考えを放送するということらしい。
例の「生前譲位」のことだろうか。
注目していたいと思う。

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コメント

 よくまとまった年表ですが、残念ながら大事なところが抜けている。
 一つは基王死去の直後に全国に金光明経10巻を配布したこと。したがって以後は諸国の僧寺は金光明寺と呼ばれたこと。
 二つは彼のもう一人の皇子安積王の死がふれられていないこと。
 三つ目は、いわゆる国分寺建立の詔では出来上がった七重塔に天皇直筆の金光明経を配布したこと。
 四つ目は堂塔建立を催促した際には明確に寺の名前を金光明寺としていること。

 金光明経は、このお経を転読することで四天王が表れて国家安泰を図ってくれるというもの。
 聖武天皇がいかに彼の直系の男子を失ったことで危機に陥っていたかがよくわかる。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

問題意識が違うと,まったく違う項目を重視するということでしょうね。
多元的「国分寺」研究サークルとしても,
独自の年表はあっていいし,必要であるとさえ言えるかもしれません。

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