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2016年7月14日 (木)

社会科サークル 2016年7月

昨日は,上記のサークルに参加した。
参加者は,大石さん・篠原さん・早川さん・宮崎さん・
山田裕さん・森田さんに私を加えた7人。
皆さんの「おみやけ」資料を出し合った後,
私の多元的「国分寺」研究の報告となった。

社会科サークルとは武蔵国分寺周辺のフィールドワークも
何回か行ったことがあって,また毎回のように私が「おみやげ」資料で
紹介していることもあって,その趣旨は理解していただけたように思う。

特筆すべきは,高校社会の先生出身であり,
その後大学で教鞭をとられている早川さんの質問・意見であった。
いわば一元史観の代表的な主張をして下さったわけで,
聞いている人には両者の違いが鮮明にわかったのではないか。

国府寺の根拠とされる史料は新しいもので他の史料での保証がないとか,
中国・唐の則天武后のやったことをまねた部分が多いとか,
朝鮮式山城は近畿への侵入を防ぐためのものであるとか,
すべての古代道は平城京へ続くとか,いろいろ出された。
それらについては私なりに反論したが,
「それは一元史観でも説明できますよ。九州王朝説は必要ないですよ」
と暗に言われているようで,私としてもファイトがわいた。

中世が専門で古代史はあまりよくわからないと謙遜されていたが,
さすが早川さん,よく勉強されていると思った。
ただし,古田武彦氏の本はあまり多く読まれていないのか,
文献と考古学の両方からご説明いただくともっと議論が噛み合うのかなと思った。
私も早川さんに刺激を受けて,さらに研究を深めたい。

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「教育」カテゴリの記事

コメント

 「すべての古代道は平安京へ続く」ですか。そうではなくて「すべての古代道は難波京と太宰府に続く」だと思うのですが。その建設年代から考えると。
 ここも証明する必要がありますね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

確か「平安京へ」ではなくて「平城京へ」だったと思いますが,
これは私が刺激をいただいたNHK・BS1の番組「日本古代ハイウェー・・・」の結論とまったく同じで,
一元史観で考えるとそうとしか思えないということでしょうね。
私たちには「九州王朝説」という仮説があるので,それ以外の予想が立てられるわけですが。

〉 すべての古代道は難波京と太宰府に続く

ということ。難波京のうち,第1次難波京ということですね。

古賀さんが古田さんに「第1次難波京が九州王朝の副都である」という説を認めてもらうために,
いくつもの論証をしたという話を聞きました。
「新古代学の扉」サイトで,それらを見られると思います。

 そうそう。平城京の間違い。
 予想ですが、平城京も長岡京も平安京も、古代道路の結節点につくられたと思う。だから後からみると、これらの近畿天皇家の都を中心にして古代道路がつくられたように見える。とくに平安京はね。
 でも平城京はあまりに辺鄙な場所。ここに古代道路の中心があるとはおもえません。
 一度木下さんの著書で古代道路全体を調べておかないといけませんね。
 それぞれの道路の建設時期と都の建設時期を。
 古賀さんの難波京九州王朝副都論はほとんど目を通しました。
 でも古代道路との関係では一度も論じられていませんね。

 東山道武蔵道は、7世紀の第3四半期。つまり一世紀を25年ずつに四つに区切った三番目。およそ650年から675年。と江口さんの本にありました。
 この時期は白村江の戦いの少し前からその時期。ほかの道路の建設時期も見ないと確たることは言えませんが、この軍事道路は明確に唐との戦いに備えて全国を結ぶということでは?もしかしたらもっと前からかもしれませんね?国造の国を再編成して評ー国制を敷いた時にすでにこの軍事道路網は計画されていたのかも。それぞれの評家の建設と国府の建設、そして道路の建設とが。
 評制っていつの制定でしたっけ?評⇒郡は701年ですが。6世紀末かな?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

評制が布かれたのは650年あたりということです。
だから,約50年間使われたというわけです。
九州王朝の出した決まりだけに,記録がほとんど消されたのでしょうね。
ただ,木簡だけは「生き証人」で,700年まで評が使われ,
それ以降は郡が使われていることがわかっている。
いわゆる郡評論争というわけです。

 肥さんへ
 ということは評制がしかれ国制が敷かれた時期と、東山道武蔵道が造られた時期はほぼ近接したじきだということですね。
 ということは、国府が整備されたのも、評家(後の郡家)が整備されたのもほとんど同じ時期だということ。
 さらには難波京が造られたのもほぼ同じ時期。
 これらは全部一体の政策と考えてよいと思います。
 ではその目的は何でしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

東山道武蔵路からスタートした私としては,
白村江の戦いを目前にしての戦争準備のような気がするのですが,
違いますかね。何回も同じ言葉を繰り返すことになってしまいますが。
それか,川瀬さんの設問の意味を私が理解できていないのか。

 肥さんへ
 単なる戦争準備ではないでしょう。
 というか戦争準備といってもいろんなレベルがあると思います。
 一つは敵の攻撃を当面撃退するための処置。これは太宰府など九州王朝の拠点が朝鮮式山城の群れで囲むように防御されたことなどが入ります。
 もう一つは、強大な敵に対抗するため、国の総力を挙げて戦えるように国のありかたそのものをかえること。今回の例では、中央集権的に統一された中国王朝と対抗するために、日本列島も中央集権的に統一された国家へと再編すること。
 九州王朝は南朝を中国の正統な王朝と認識しその臣下の第一位との認識を持っていた。だから都の名前が太宰府。天子に変わり天下を統治する太宰(たいさい)の都するところ。だから南朝が滅び隋が統一したその時から、中国北朝との戦いを意識したのだと思います。
 隋の統一は589年。南朝陳を滅ぼした年。
 ここから中国王朝との対抗準備は始まるのではないでしょうか。
 と考えれば、
 国造の再編と評の設置。評をまとめて新たに国をつくる。それぞれの評・国の役所の集合体都市である評家と国府の建設。さらにそれぞれの評家・国府をつなぐ全国軍事道路の建設。さらに国家として一体のものにするための宗教的紐帯を強固にするために各地に鎮護国家の寺院建立。とりわけ国府に国府寺を建設する。

 このように従来6世紀末から7世紀中ごろにかけて行われた政策すべてを強大な中国王朝隋・唐と対抗できる中央集権国家建設と考えると理解できると思います。
 従来説にはこのような視点はないですね。
 なぜならば近畿天皇家の歴史書、古事記にも日本書紀にもこのような一連の政策として打ち出された痕跡はまったくないからです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 隋の統一は589年。南朝陳を滅ぼした年。
 ここから中国王朝との対抗準備は始まるのではないでしょうか。
 と考えれば、
 国造の再編と評の設置。評をまとめて新たに国をつくる。それぞれの評・国の役所の集合体都市である評家と国府の建設。さらにそれぞれの評家・国府をつなぐ全国軍事道路の建設。さらに国家として一体のものにするための宗教的紐帯を強固にするために各地に鎮護国家の寺院建立。とりわけ国府に国府寺を建設する。
 このように従来6世紀末から7世紀中ごろにかけて行われた政策すべてを強大な中国王朝隋・唐と対抗できる中央集権国家建設と考えると理解できると思います。

なるほど,川瀬さんのおっしゃる通りですね。
単なる戦争準備ではなく,新たな国家建設という視点が抜けていました。
それで7世紀半ばの諸政策の統一した軸が見えてきました。
私の中では九州王朝がかなり完成されたものに思っていて,
「これから日本列島の中央集権化していく」などとは考えていませんでした。
思えば,倭国の版図以外はまだ支配できていないわけで,
それを整えないことには戦争だってできないわけで・・・。
「戦争のできる国」を作るなんて,ちょっと物騒な言葉ですが。

 肥さんへ
 さて7世紀前半から後半にかけての、評制・国制の整備、評家・国府の整備、評・国の相互を結ぶ全国的軍事道路の建設が一連の、対中国王朝を意識した統一国家づくりだと仮定すると、従来言われてきた評制の設置の年代が上にあがるかもしれませんね。
 今のところは常陸風土記の記述や評の文字がある木簡の年代から7世紀中ごろとされています。でもこれらの一連の政策が対中国王朝を意識したものだとしたら、隋の中国統一年589年から半世紀も遅れているのはおかしいですね。
 日本書紀の「三宝興隆の詔」(594年)が九州王朝による国府寺建立の詔の反映だとすると、隋の統一にすぐに反応して全国的に宗教施設を整備し鎮護国家の祈祷を始めたことになります。とすれば6世紀終わりにはすでに国制ができているということ。
 ならばその前に評制もできていなければならず、評家も国府の整備も、そして全国的軍事道路もまた6世紀終わりにはできていないとおかしい。
 現在の武蔵国府の編年は、評制を7世紀半ばとし、国制の整備をその直後としているので、大国魂神社の東に出てきた官庁遺跡(武蔵国府とされている)の年代を7世紀末から8世紀初としているわけ。そしてこれと連動するように、多摩寺の年代を7世紀中ごろと。
 瓦の編年や土器の編年を再検討しないとなんともいえませんが、これらが全体として半世紀から一世紀上にあげられる可能性も頭の隅においておかないといけませんね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 瓦の編年や土器の編年を再検討しないとなんともいえませんが、
これらが全体として半世紀から一世紀上にあげられる可能性も
頭の隅においておかないといけませんね。

これまで大和のものが古いように思わされていたのが,
正しい編年に直ったら「九州の方が古い」「関東のものが先だ」という可能性もあるのかも。
しかし,どのようにして編年を訂正していけばいいのでしょう。

 肥さんへ
>しかし,どのようにして編年を訂正していけばいいのでしょう。

 それは一つ一つ具体例に沿ってやるしかないでしょうね。一般論ではない。たとえば古賀さんが、九州の「老司式」などの瓦とそのもとになったと定説では言われている藤原京の瓦との先後関係を論じたように。
 僕らは関東の瓦についてやらないといけないのかもしれません。

>さて7世紀前半から後半にかけての、評制・国制の整備、評家・国府の整備、評・国の相互を結ぶ全国的軍事道路の建設が一連の、対中国王朝を意識した統一国家づくりだと仮定すると、従来言われてきた評制の設置の年代が上にあがるかもしれませんね。
 今のところは常陸風土記の記述や評の文字がある木簡の年代から7世紀中ごろとされています。でもこれらの一連の政策が対中国王朝を意識したものだとしたら、隋の中国統一年589年から半世紀も遅れているのはおかしいですね。
 日本書紀の「三宝興隆の詔」(594年)が九州王朝による国府寺建立の詔の反映だとすると、隋の統一にすぐに反応して全国的に宗教施設を整備し鎮護国家の祈祷を始めたことになります。とすれば6世紀終わりにはすでに国制ができているということ。
 ならばその前に評制もできていなければならず、評家も国府の整備も、そして全国的軍事道路もまた6世紀終わりにはできていないとおかしい。

川瀬様、貴兄の視点に一部同意いたします。その一部とは上の論旨の後半部分であり、6世紀の終わりには「国制」も「評制」も全てできていないとおかしい、という部分です。2011年に「古田史学の会」の会報に投稿した拙論(『「国県制」と「六十六国分国」 -「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において』)ではこの点に注目し、そこでは『常陸国風土記』の冒頭の部分を正視するとそこに書かれているのは「評制」の施行ではなく「国制」(つまり広域行政体としてのもの)の施行であるとみなしました。また「木簡」の解析によると「評」から書き始められるタイプのものがかなりあり、「国-評-五十戸」というような書き出しのものよりはるかに多いことが確認されています。これは「国」の成立以前に「評」が施行されていたことを示すものと思われ、広域行政体としての「国」の成立は「屯倉」に付随して発生したと思われる「評」より遅れると思われることとなります。そのことから『常陸国風土記』記述の時点よりも「評制」は遡上すると思われるわけですが、その時期を推定するのに重要なのが「前方後円墳」の終焉であり、それは6世紀の終わりのことです(正確には西日本で6世紀の終わり東日本では7世紀はじめとされますが、それも起点を九州に取った場合合理的と思われます)。この時点で強い権力の発現があり、その一つが「国制」の施行であり、もう一つが「前方後円墳」の終焉であったと思われるわけです。その意味で「評制」の施行は6世紀終わりという時期を遡上するという可能性が高いと推量します。さらに「評制」はそもそも「半島」にあった制度の反映であり、「隋・唐」にはなかった制度ですから、これを摂取したのは「半島」からにほかなく、「6世紀末」以降「隋・唐」から文物を摂取する体制に代わって以降「半島」から行政制度を学ぶ姿勢があったかははなはだ疑問とすべきですから、7世紀半ばという時期はかなり考えにくいと思われます。(同意できない部分というのは「隋」との関係が緊張状態になり、真剣に「隋」を仮想敵(というより真の敵というべきか)としてみるようになった時期についてであり私見では「隋」の「琉球侵攻」以降と考えるものですが、いずれにしても防衛体制等を構築したのは一般に考えられているよりもずっと早い時期のものと推定するという点では似たようなものとも言えます)

James Macさんへ
 古田史学会報の論文を読ませていただきました。私が思いついたとほぼ同じことをすでに諸資料にあたられて詳しく検討されていたことに、すこし安堵いたしました。ここに古田さんの弟子たちがいると。
 既に知られている史料であっても、その史料の意味するところが余すところなく理解されているとは限らないものです。むしろ先行研究が足かせとなって史料への理解がゆがめられているのが通例でしょう。新たなアイデアに基づいて既に知られている史料の再解釈に挑まれたことに敬意を表します。まだざっと読んだだけで詳しく検討はしておりませんが、国評制の前に国県制があったとの認識などとても刺激的で、これらの中央集権的制度の実施が従来説よりも半世紀はさかのぼることが示されていて、興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。

James Mac さんへ・追伸
 隋の琉球侵攻ですか。まったく認識していなかった事件です。
 いつのことでしょうか。またこの事件を記した史料は何でしょうか。ご教示ください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「隋の琉球侵攻」については,私も古田さんから古代史セミナーの際に
話(元寇の際のの対馬・壱岐侵攻の話とともに)を聞いてショックでしたので,
情報をお知らせすることができます。

『なかった』創刊号の古田さんの文章

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakatta1/ztmogon1.html

史料名でいうと,「隋書流求国伝」ということになります。

川瀬様
拙論をお読みいただいたようで恐縮です。当時(今もそうですが)文章を書くという作業はなかなか難しく結果的にかなりの悪文となっており、大変読みにくいものとなってしまいました。お恥ずかしい限りです。しかし、拙論はすでに書いてから5年が経過しその中では新知見により見直しされるべき点はあるものの基本線は変わりなく、通常考えられているより倭国の歴史的発展は50-100年早かったとみて考察しています。その意味では川瀬様のお考えに近いものがあるのは事実です。もしご興味がおありでしたら私のホームページ(http://kodaishi-james.sakura.ne.jp/frame.html)やブログ(http://blog.goo.ne.jp/james_mac)の関係部分をご覧いただければ幸いです。

肥えさん、James Mac さん。ご教示ありがとうございます。
 隋書流求伝についてはまったく認識がありませんでした。ネット検索すると、古田史学の会のサイトにさまざまこの問題についての論考があり、興味深く読ませていただきました。またネット上に流求伝そのものが掲載されてあったので、コピーして読んでみました。
 6世紀末から7世紀初の琉球についての貴重な史料なのに、のちに台湾のことと誤解されたことなどから十分に活用されていないことは残念ですね。
 James Macさんへ。
 国県制度についてのご論考。悪文ではないですよ。十分に何を言いたいのか、そしてその論証の過程が詳しく記されていたと思います。正直感心しました。
 なおホームページのほうも訪問しました。とても意欲的なサイトで。あとでじっくり読ませていただきます。

 James Mac さんへ・追伸
 一つお尋ねするのを忘れていました。「国県制」についての上下の論考。これが「古田史学会報」に掲載されたあとの、古田史学会の人々の反応はどのようなものであったのでしょう。会報に乗った論文を見ても、疑問を呈したり反論したものが見当たらないのですが、それでも今でも古賀さんや正木さんは、常陸風土記の例の記事を評制施行記事と考えて難波京に関する論を展開されていますので。
 ご教示ください。

川瀬様
「琉球」侵攻についてはおっしゃるように当初「台湾」という認識が多く「沖縄」であるという考え方は少数であったもののようです。古田史学の増田修氏がその論で詳しく検討されたように現在は「沖縄」のことと考えるのが多数派のようです。わたくしも同意見ですが、それはこの「隋」による「流求」侵攻が「裴世清」派遣と対の事象であり、方や「宣諭」、方や軍事圧力という両面からの倭国への圧力であったと考えるからです。(いずれも「天子」を標榜したことについてのけん制と思われるわけです)
ところで「国縣制」についての議論ですが、異論反論同調意見等一切ありません。かなり意外な論旨であるはずですが、それに対するものは反応として一切聞こえていない現状です。皆さんどう取り扱っていいのか困惑しているのではないでしょうか。あるいはさほど重要な議論ではないと思われたかです。私は当然そうは思いませんが。
この論は古賀氏が強く支持されて巻頭論文になったと聞いていますが、当の古賀氏は「結論の当否はともかく」という言い方で言及されていたようですから、全体としては否定的なのかなとは思いますが、詳細は不明です。ただ近年の古賀氏の論は太宰府の成立年代や国分寺問題、あるいは「五十戸制」「六十六国分割」などの論でも明らかなように七世紀初めに倭国の王権が強大化したと考えられているようですから(阿毎多利思北孤と利歌彌多仏利という存在に関連していると思われているようであり、それは正しいと思いますが)、評制と難波朝廷の成立時期についても見直しがあるのかもしれません。氏の現在の考え方でいけば五十戸制や国制の成立が評制に先行することとなりますが、それは木簡の示す状況と齟齬していると思うのですが、どう見ているのでしょうか。(ただし、この点は一元史観論者でも各種意見があって紛糾しているように見えますが)

James Mac さんへ
 国県制についての論文については何も反応がないのですか。
 従来知られてきた有名な史料の読みを変えたわけですから、どうとらえてよいかわからないというのが自然な反応だと思います。
 またもしかしたら古賀さんたちは実証ということをきわめて重視しますから、木簡など客観的な史料での裏付けができないので、この段階では沈黙なのかもしれませんね。
 この実証なのか論証なのかとういう問題が今現在古田史学の会では話題になっているようですが、これを二律背反のようにとらえている向きがあるのは気になります。この二つの方法論はメダルの表と裏。一対のもの。歴史は残された史料をもとにして過去を復元するものですが、史料はすべてが残っているわけではない。意図的に残されたか偶然残ったか。当然亡くなったほうが多いかも。ベストは史料で客観的に実証できることですが、残念ながら決定的な史料はないけれども、残存した周辺の関連した史料状況から、ある事象があったと考えなければ、関連する史料群の状況を説明できない、という形で論証するしかないことも多々ありますね。
 ヨーロッパ近代の実証主義史学というのはこういうもの。
  James Mac さんがやった国県制についての論考はこの後者のほうです。
 精査すれば埋もれていた史料か史料の断片ぐらいはあると思います。

 このヨーロッパ近代の実証主義史学が日本に輸入されたとき、多数派は狭義の実証主義に走り、史料にないことは論じない、ないことは存在しないと結論付けた。この流れは戦前に多い。ところが戦後はマルクス主義史学全盛となり、こんどは理論が先走って史料による実証を無視するようになる。いわば仮説オンパレードの論証主義。
 こうした悪弊が古田史学の会にも侵入しているのかもしれませんね。

川瀬様
拙論に対する反応の件ですが、仰有るとおりかなり唐突な印象を受ける論ですから、各氏は態度を保留しているというのが正解でしょう。ただ記事を正視すると「我姫」を八つの「国」に分けたとしているわけであり、この「国」は単純には「評」とは読み替えられないのは誰の目にも明らかではないでしょうか。なぜなら木簡から見ても「評」の示す領域はそれほど広大なものではないからであり、明らかにこの「国」は「広域行政体」としての「国」としか理解できません。(そもそも「我姫」という領域が広大ですから)たとえば「三野国」のように、「国」とはその中に多くの「評」を抱えているのが通常であり(「三野国」の場合奈文研の木簡データベースによれば九つの評が確認できます)、その意味で「広域」に亘るものであると思われるわけですから、この『常陸国風土記』の記事についてもその意味で単に「国」と「評」を読み替えればいいというものではないと思われるわけです。拙論ではそのことを主張したかったのと、それが「七世紀半ば」とは「ここには書いていない」と言うことを示したかったのです。この時代は絶対年代に代わるものは天皇の治世期間ですから「難波臨軒天皇」と書かれた部分が「七世紀半ば」を指すかどうかですが、それを「七世紀半ば」とするのは『書紀』からの判断ですが、それ(つまり『書紀』)が正しいかどうかは「未定」であり、別途証明が必要と考える立場からはその年代に拘束されるいわれはないわけです。その点に異論を唱えたというものですから、『書紀』の(特に年代について)信憑性について異議を唱える立論としてはそれほど斬新なことを言ったわけではないと考えており、「前方後円墳」や「遣隋使」との関連あるいは『隋書』記事との関連などを考慮するとかえって「六世紀終わり」或いは「七世紀初め」という時期がふさわしいと考えるに至ったものです。(「遣隋使」についてはその後通常考えられている時期を遡上すべきという論を展開しています。これもホームページブログの双方に記事を載せていますのでご参照頂ければ幸いです。)

実証と論証については川瀬様のお考えに同意します。古代史においては絶対的な資料不足という中で真実を探求する必要があり、断片的な資料を「論理」で接続するという作業が必需ですが、そこに飛躍や誤読或いは思い込みなど「恣意」が入り込むと学問ではなくなってしまいます。また徹底的に実証によらなければならないとすると古代史という学問はほぼ成立しなくなってしまうと思われ、結局双方とも必要であり、優先順位は個々の資料の状況で判断すべきものと考えています。古田史学の会の中にその点について異論があるらしいことは把握していますが、論証と実証というより誤読の有無あるいは大小とそれに基づく理解の差に帰する程度のものと思われ、それほど重大な差異とはなっていないように思われますがどうでしょうか。

James Mac さんへ
 「論証と実証というより誤読の有無あるいは大小とそれに基づく理解の差に帰する程度のものと思われ、それほど重大な差異とはなっていないように思われますがどうでしょうか」の件ですが、今古田史学の会で話題になっている論証と実証がどの論考を契機に行われているのかわからないので、判断のしようがないです。ただ断片的な史料を論理的に組み合わせて歴史を論証するやり方では、史料の誤読の危険性は極めて大きいものです。史料の読み方が変わってくると、そこから復元される歴史像が大きく変わってくることは、古田さんが、いわゆる筑紫君磐井の乱の読みがどんどん変わっていって、最終的には磐井の乱はないし、継体の反乱もないのではないかとなったことなど例を挙げればきりがありません。
 論証にしても実証にしても、史料をありのままに先入観なく見つけることが古田さんの言われた実証主義史学の基本であることは忘れてはいけまんせんね。

 ところで国県制の成立ですが、James Mac さんは6世紀末か7世紀初とされています。
 昨日古田史学の会で議論になっている河内戦争の箇所、日本初期のいわゆる蘇我と物部の崇仏廃仏戦争の後半部分に、まだこの時代は律令制が施行されていない(近畿天皇家では)のに令制にかかわる用語がたくさんでているとあったので注目してみましたら、ここに「河内国司」という言葉と「茅渟県」が出ていることに気が付きました。
 この事件は用明2年4月に天皇が亡くなったあとの7月の事件ですから、6世紀末です。587年ですか。
 これは国県制が7世紀末には確実に施行されていたことの史料ではないでしょうか。

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