« 「七月 なないろ 夏の色」ライブ 7/16 | トップページ | 昨日の部活動 7/17 »

2016年7月17日 (日)

府中と三鷹にある2つの「上円下方憤」を訪問

昨日の午前中,武蔵国分寺の塔を除く金堂以下の西偏7度と同じ傾きを持つ
府中熊野神社古墳に行ってきた。
当時の様子を復元してあり,別施設で「古墳内部」にも訪問できる。
(このシュミレーションは,なかなか良かった。ヘルメットとミニライトも貸してもらえる)
係りの方に質問したところ,「武蔵国分寺の西偏7度」との関係を問う人はあまりいないようだ。
三鷹天文台構内にそっくりのものがあり,見学できるらしいという情報を聞き,
「じゃあ,行ってみます」ということでそこを辞した。

P7170932

昼食後午後は,府中熊野神社古墳と造りがそっくりと言われる
天文台構内古墳(三鷹市)に行ってきた。
守衛室で質問をすると,見学者用に作られたパンフいただけ,
「夏だから,草木でよくわからないかもしれません」とアドバイスされたが,
数百mの道のりで発見することができた。
まわりにの周溝をほどこした形をしており,なるほど府中熊野神社のものとそっくりだった。
(サイズ的にも数mしか違わず,同じ設計図をもとにして作ったのかと思うほどだ)

なお,上円下方憤という形式は,円が天を表し,方が地面を表しているようだ
中国の北京に天壇公園というところがあって,そこの建物が円形で意表をつかれたことを思い出した。
中国の影響があるのだろうな。なお,上円下方憤は国内で4つか5つしかないそうだ。
そのうち2つを訪ねたのだから,すごいことである。(「自画自賛」という読者の声)
なお,天文台構内古墳の方は,やや東偏のようで,同じというわけにはいかなかった。
ということことはは,同じ型式ながら「磁石をつかったもの」と「使わなかったもの」)に分かれるのか。

P7170933


« 「七月 なないろ 夏の色」ライブ 7/16 | トップページ | 昨日の部活動 7/17 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

 肥さんへ
 三鷹天文台構内古墳は、その発掘の記録を見ると、上円下方墳ではなくて、方形の周壕をもつ円墳ですね。
 熊野神社古墳は明らかに方形の第一段が築造されています。
 ただそれ以外、石室の構造などは同じようです。建造時期も近い。7世紀後半。つまりは九州王朝が隋唐に対抗して中央集権国家に組み替えようとしている時期。どちらの古墳も北九州に多い形式を持っている(胴張型の複数の石室をもった横穴式石室墳)ということは、九州王朝から派遣された有力豪族の墓か、九州王朝統治下に組み込まれた在地首長の豪族の墓か。前者の場合は想定されていませんが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私のいただいた「天文台構内古墳のパンフレット」の
調査の経緯には「この古墳は全国的にも稀な上円下方墳と呼ばれる特異な形と判明しました」
書いてありましたが,円墳ですか。三鷹市教育委員会の「勇み足」?
内部の様子を写真で見ると,2つはそっくりでした。

 ウィキペディアの「天文台構内古墳」の項を見るとこれは上円下方墳ではないとの説が紹介されています。さらにそこのリンクの「石室の形態が明らかに・・・」に飛んでみると、石室の発掘調査速報が掲載され、さらにその速報ページの下部にある、「速報第二弾」に飛ぶと、「周壕発見、盛り土の積み方も・・・・」の報告に詳しい発掘結果が図入りで掲載されています。
 これを見ればこの古墳は方墳がなく、地面の上に盛り土で円墳を造り、周りに方形の周壕があることが確認できますね。
 上円下方墳というのは三鷹市のかなりの思い込みです。
 もちろん内部の構造はそっくりです。この事実に三鷹市の担当者は引っ張られている。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

ウィキペディアの「天文台構内古墳」の著者は,なかなか勉強しておられますね。
私がいただいてきたパンフは2011年3月の発行のものでしたが,
その後その「誤認」は訂正されていないということでしょう。

この2つの古墳と同じ緯度の,北大谷古墳(八王子市)というのがあって,
これも似た造りになっていることが気になっていたら,
検索したところ同じように感じている人がいてうれしかったです。

北大谷古墳ー府中熊野神社古墳ー天文台構内古墳
の東西の並びに対する
東山道武蔵路の南北路の直角の交差ということです。


「北緯35度40分30秒」
記事をクリップするクリップ追加 .
2008/9/15(月) 午前 8:54
天文台構内古墳
歴史
.

facebookでシェア0


twitterでつぶやく


0

.


天文台構内古墳について、これまであえて話題にしていなかった興味深い事実がある。北大谷古墳・武蔵府中熊野神社古墳・天文台構内古墳という三室・胴張り構造の石室を持つ多摩地方終末期有力古墳が、ほぼ東西一直線上に並んでいるという事実である。先日の天文台構内古墳の見学会でも質問をされていた方がおられた。

だいたいの数値であるが、北大谷古墳は北緯35度40分21秒、武蔵府中熊野神社古墳は北緯35度40分31秒、天文台構内古墳は北緯35度40分27秒。確かにほぼ東西上に並んでいることがわかる。地図上で見てみても北大谷古墳がちょっと南に寄っているかな?という程度で、東西にきれいに並んでいる。距離的には北大谷古墳と武蔵府中熊野神社古墳が約9㎞、武蔵府中熊野神社古墳から天文台構内古墳は約7.5㎞である。

天文台構内古墳は650~675年に造られたと見られ、これは四方5㎞以上の規模できれいな碁盤の目のような道路を整備したとされる藤原京が造られる少し前の時期にあたり、東西方向をキロ単位で結び、土木工事を行う技術自体はすでに日本に存在したのでは?と考えている。私としては意図的に北大谷古墳・武蔵府中熊野神社古墳・天文台構内古墳を東西に並べて築造することは、技術的には問題なかったと見ている。

ここで問題になるのが北緯35度40分30秒という緯度に、古墳を東西に並べて造らねばならない理由が存在したのか?ということになる。少なくともこの緯度に古墳を並べなければならない積極的な理由は見出せない。今後新たな発見でもあれば別だが、3つの古墳がきれいに東西に並んだ理由は、北緯35度40分30秒というラインに拘ったわけではないと思う。

しかし、3つの古墳が東西に並んだ理由はちゃんとあるのではないだろうか?それは多摩地区の交通に関係している。7世紀末頃、上野方面から武蔵国府(現在の府中市)へ向けて東山道武蔵路が整備され、また武蔵国府方面から東、下総方面へ向かう道路も整備されていたとされる。

ところで当時、現在の中央本線や国道20号線(甲州街道)にあたるような、多摩から甲斐、そして信濃方面へと向かうルートは存在しなかったのだろうか?甲斐や信濃は古墳時代、盛んに古墳が造営されており決して未開の地ではなかった。武蔵から甲斐・信濃へ直接向かうルートがなかったとする方が不自然なような気がする。

そうすると南北を繋ぐ東山道武蔵路(ちなみに武蔵から南の相模方面へ向かう道路もあったとされる)、そして現在の中央本線を思わせる、甲斐・信濃方面や上総方面へ向かう東西のルートがぶつかる場所に、古代の多摩地区は位置したことになる。これこそ多摩が7世紀後半になって武蔵全体の中心となった大きな原因のひとつなのではないだろうか?

北大谷古墳・天文台構内古墳はその東西を繋ぐルートに近い場所にある。多摩の終末期有力古墳は、多摩地区開拓の拠点と、当時の交通の要衝という2つの視点を持って築造場所が決められていったのではないだろうか?

北大谷古墳・武蔵府中熊野神社古墳・天文台構内古墳がきれいに東西に並んでいるのは、東西を繋ぐ当時の重要な交通路に沿って古墳が造られたからではないか?これが現時点での私の考え方である。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「七月 なないろ 夏の色」ライブ 7/16 | トップページ | 昨日の部活動 7/17 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ