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2016年7月 2日 (土)

武蔵国府の所在地候補に,川瀬説が加わるかも!

「府中市の歴史」サイトには,武蔵国府の候補として,
次の5つの候補地が出ている。

1)御殿地(府中本町東側の台地)
2)坪宮(市立第3小付近)
3)京所(大国魂神社境内)
4)高安寺
5)高倉(分倍河原駅西側の台地)

中でも京所は多磨寺という付属寺を持つことなどから,
武蔵国府の最有力候補とされ,本に書かれたり,
「遺跡の復元」がされたりしている。(ちっちゃいけどね)
それに対して,昨日真っ向から異説が提出された。

6)府中刑務所敷地付近の「方八丁」的な広がり

というものである。
この地は明治後半に府中刑務所が建てられたこともあって,
ほとんど発掘調査されているとはいえないのだが,
地図上で現在の府中市の大國魂神社とは国分寺道で南北につながっており,
東山道武蔵路ともその道は並行して走っていて,
この地域の平らな土地を「木刈場」としてしか利用していないとは考えられない。
また,平坦地なのにも関わらず,今有力地とされている京所と国分寺とは,
2キロ以上離れることにもなり不自然。
国分寺により隣接した府中刑務所付近に初期武蔵国府を置くのが自然と
川瀬さんは新説を出されたのだった。

川瀬さんによると,現在の有力視されている京所は多磨寺という名の付属寺が示す通り郡衙。
広大な武蔵国を治めるには規模があまりにも小さいと見た。
私は昨日半日川瀬さんに随行し,ようやくそのイメージを描き始めたのだが,
川瀬さんは地図に,何本もの古代道や水利の関係も記入して考察しており,
自説を熱心に説かれていた。

将来川瀬さんの説が正しいことがわかり,
それを最初に誰のなんというサイトで世に伝えたかが明らかになるだろう!
それを私は静かに待ちたい。(笑)

PS1 武蔵国分寺の塔心礎は,発掘されていました。写真もありましたので,載せます。
大きさ2.16×1.36mの巨石で,中央に直径73cm,深さ45cmの穴が開いているとのこと。

P7020801

PS2 昨日の実踏では,伽藍を支える版築や土壇の崩れをふせぐ乱石積基壇外装の使用など,
「縁の下の力持ち」についても学びました。伽藍だけの知識では,「がらんどう」ですね!

P7010779

PS3 先日入手した府中市の1959(昭和34)年頃の小字地名地図は,
東芝府中工場あたりに「拷掛所」といういわくありげな字地名を何か所か残している。
江戸時代以前は刑場も少なくなく,それらもその名残と思われるが,
検索してもなかなか実態がわからなかった。(あまり触れたくない気持ちはわかるが)
歴史の闇と付き合うことになりそうで,少々胸騒ぎを覚える肥さんでありました。

P7020802


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 昨日は熱い中お疲れ様でした。
 文献と地図とで考えていたことが、実際に「国庁」遺跡と京所廃寺あと、そして甲州街道沿いの文化遺産と国分寺遺跡を見たことで、かなり確実性に富む仮説だと確信しました。
 今の「国庁」遺跡が「国庁」ではないと考えた理由。
 1:東隣りに隣接して「多摩寺」の文字が刻印された瓦のでる古代寺院があること。これは郡寺であるとかんがえられるので、西に隣接した官庁遺跡は、その規模からしても、多摩郡庁である。
 2:「国庁」の多くの建物配置は、南に面して北からコの字型になる。北側に東西棟の建物が二棟。これが正殿と前殿。この前庭の東西に南北棟の建物が二つ出る。今の「国庁」遺跡にはこの南北棟が全く検出されない(府中市文化課職員も掘っても出てこないと認めた)。これは規模や様式からして郡庁とみて間違いない。
 2:「国庁」北側を東西に走る古代道路(甲州街道)は武蔵国の多摩・豊島・足立を結ぶ官道で、そのまま常陸国府につながる。ここに面している以上郡庁である。

 では武蔵国庁はどこにあったか。
 郡庁の北側に幅12メートルの古代道が北に向かって真っすぐ伸びている。これはそのまま北の小金井街道につながる道のようで、東山道武蔵路と並行している。この二つの南北道の間には、最南部の甲州街道に平行して、三本の東西道が存在する。明治10年の参謀本部作成2万分の1地図でも明瞭だ。この東西道の北と南そして先ほどの南北道に囲まれた方6から8丁の方形地形。ここが怪しい。
 武蔵路と甲州街道の交差点の谷には昔から自噴泉があり、8世紀代の斜交道路が、北東と南東に延びている(南東がわは郡庁方向)。北東側が、先に見た東西道路の一番南の道と郡庁北に延びる南北道路との交点で交わっている。
 この場所はちょうど武蔵国分寺のすぐ南側で、距離にしておよそ600m。そして国分寺への参道と国分尼寺への参道の交点のすぐ南側がこの場所である。
 こうした古代道路の位置関係から、府中刑務所を中心とする方形地形が古代武蔵国府と考えた。
 この仮説はかなり確度が高いと昨日の実地踏査は示している。

川瀬さん
コメントありがとうございます。

川瀬さんの武蔵国府・新仮説を自分の足で知ることができ,
ご一緒した甲斐がありました。
本当に歴史研究というのは,総合的な学問ですね。
川瀬さんの研究のあとをカタツムリのようなスピードですが,
私もついていきたいので,今後ともよろしくお願いいたします。

 追伸
 大国魂神社東方にある官庁遺跡が武蔵国府ではない理由。
 4:中世(平安時代末から)に始まったと思われる大国魂神社(総社六所宮)の祭礼である暗闇祭り。これは武蔵の主な神社六つの神霊を乗せた神輿と、六所宮自身の神霊の神輿、そしておそらく古代の国府の神社であった宮の目神社の神霊を乗せた神輿、合計8つの神輿が、深夜六所宮を出て甲州街道を西に向かい、北からきた鎌倉街道との交差点に8つの神輿を並べる。そこに六所宮の神官が、別の道を通って鎌倉街道の多摩川氾濫原にある坪宮(ここは武蔵国造の祖霊の神社)で禊をしたあとで幣を持ってその交差点に至り、8つの神輿をそれぞれ拝礼する儀式を行う。これが終わると神輿はみな六所宮に戻るというもの。このような祭りは全国のいくつかの旧国府に残る祭りで、神輿が集まる場所が元の国府の場所。そして国の代表的な神霊を交流させる役を司るのが、国府の神である宮の目神社の神輿。
 この中世に始まる 祭礼で、神輿が集まる場所が武蔵国府の場所であるので、出発地である六所宮が国府であるはずはない。
 これを書き忘れていました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

もう何も付け加える必要がないくらいですね。
さすが川瀬さんの分析能力はするどいですね。

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