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2016年7月 3日 (日)

千里の道も一歩から(表にしてみる)

川瀬さんはすごく論理的に考えをおし進めていくタイプで,
もしかしたら「書きながら考えていく」ことができるのだと思うが,
私などはほとんどその才能に恵まれず,
ただただすごいと感心しているばかりである。
(私はグラフのように,ぱっと見てやっとわかるタイプなもので)
しかし,なんとか歩みを前に進めようと考え,先ほどひらめいた。
そうだ,グラフにできなければ「表にしてみる」という手があったぞ!,と。
試しに基壇の特徴から建設時期を推し量るという議論を表にしてみた。

          方位 基壇構造       建設時期

塔1       南北    3のa(版築・乱石積)  同じ
塔2       南北    3のa(版築・乱石積)  同じ

金堂       7度西偏 3のa(版築・乱石積)  同じ
講堂(最初)   7度西偏 3のb(版築・瓦積)    違う ★
講堂(補修)   7度西偏 3のc(版築・専積)    違う  ★
中門       7度西偏 3のa(版築・乱石積)  同じ

尼寺       南北    3のa(版築・乱石積)  同じ
東山道      南北   

おー,これなら私のような者にも,
川瀬さんのおっしゃっていることがよくわかる!
私にもこの研究会に存在すべき価値がある!!
と,自分で自分のことをほめてやった次第。
「千里の道も一歩から」ということわざがあるが,
私のような読者がもし少なくないとすれば,
このような表やグラフや写真を
ふんだんに使った本を目指したいと思う。

PS もちろん川瀬さんは川瀬さんのやり方で,
どんどん国分寺や国府と国府寺のなぞ解きを進めていって下さい。
それが,ゴールに一番近いと思いますので・・・。

PS2 「武蔵国分寺の導入文」も私のパソコンの中で,
少しずつは形を作られつつありますので,しばしお待ちを。

PS3 「7度西偏」のような大きな計画変更が行われたということは,
やはり急激な政治的変化が起きたのだと思うし(白村江の戦い→九州王朝の滅亡),
例えば南朝系諸国ではまた取り入れていなかった方位磁石の使用(磁北)を,
すでに北朝(隋や唐)では取り入れていたのではないかなどと勝手に思う次第です。
(論証はできませんが,私得意の直感で) 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

武蔵国分寺の塔・金堂・中門の基壇が川原石の小口積みによる乱石積みという技法で作られていることを確認し、これが古墳の築造技術であることを前に指摘しました。
 そこで府中熊野神社古墳が、珍しい上円下方墳でしかもその最大級であることを思い出して、江口さんの本にもこの古墳の考察があったのでそのページを読んでみました。この古墳の墳丘二段目と三段目の裾には川原石が最大高さ1メートルで小口積されていて、国分寺の基壇と共通であることは確認しましたが、これに加えなんとこの古墳の墳丘および石室の南北中軸線は、「真北から西へ約7度傾く」と書かれ、その解釈は「当時の磁北が意識されたものと考えられる」としていました。
 この古墳は土器が出てこなかかったが、出土した太刀の金具から7世紀後半代と推定されていると。
 つまり7世紀後半に建造されたこの古墳を作った主はすでに磁石を使用していたわけだ。ただ磁石の使用が北朝系で近畿天皇家だと考えると、この古墳の築造は8世紀に移動する。
 この古墳の被葬者は多摩郡司が想定されている。
 7世紀後半と言えば、東山道武蔵路は7世紀の第三四半期。つまり650年から675年の築造。この道はほぼ真北南を貫いているわけだが、この道の建造思想、言い換えれば国府・郡家の建造思想と、この熊野神社建造思想が異なるわけ。ここに建造主体の違いがでてきますね。

  武蔵国分寺の最初の伽藍・塔を中心とした伽藍と武蔵国分尼寺は東山道武蔵路と同じ思想で作られているので、国府・郡家とも共通の建造主体が想定できます。となるとこれは7世紀後半。ただし古墳と同じ建造方法なので実際に造ったのは多摩評司。

 これに反して武蔵国分寺の二つ目の伽藍、主軸を西に約7度偏した金堂を中心とした伽藍の建造主体は、最初の伽藍とは異なり、磁石を使用した勢力となり、ここで近畿天皇家を考えに入れられます。
ただしここでも古墳の築造技術が使われているので実際の建設主体多摩郡司。時代的には8世紀になりますね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

上円下方墳を検索したら,
「古墳マップ」に5~6個しか例がないと出ていました。

http://kofun.info/type/11

本当に珍しいんですね。
それがなぜこの地域に?

肥さんへ
 熊野神社古墳の墳丘と石室の南北中軸線が、武蔵国分寺の西院伽藍の中軸線とほぼ同じく「西に約7度ずれている」事実の一致を指摘しました。
 ということはこの二つの建造物は同じ設計思想建築思想に立って作られているということです。
 さらに『再び「7度西偏」のなぞ』でコメントしたように、瓦の窯跡などに残された焼成変の土などから採取された古代の地磁気を元に復元された「古地磁気偏角の永年変化」によると、「飛鳥時代も奈良時代も磁北は、日本列島全体でおよそ10度前後西に偏している」という事実が確認できます(東国はサンプルが少ないのでまだ不確かということですが)。
 東山道武蔵路や武蔵国分寺東院伽藍(塔)と国分尼寺はほぼ南北線を軸にしています(正確には東に3度偏しています)。
 日本全体が西に偏している時代にほぼ南北、または東に3度偏しているということは、これらの建造物の建設に当たっては磁石は使われていないということを示しています。

 建物の南北線の軸が真北とどれくらいずれるかという事実を元に、その建物の設計思想と建設主体を確認する方法が、古地磁気偏角永年変化との比較と言う方法で、その建造年代の推定とともに行えるということを意味しています。

 私はこの事実を指摘した。肥さん。理解しています?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

つまり,

建物の南北線の軸が真北とどれくらいずれるか
               ↓
その建物の設計思想と建設主体を確認する方法
               ↓
古地磁気偏角永年変化との比較と言う方法で、その建造年代の推定とともに行える

ということで,いろいろなことがいっぺんに分かってしまうという意味だと思いましたが,
違いますでしょうか。

(できたら,九州王朝とか近畿天皇家とか,キーワードを使っていただく方が,
私にはわかりやすいのですが・・・)

磁石不使用の建物・・・南朝系の文化・・・九州
王朝が導入(7世紀半ばまで)
磁石使用の建物・・・北朝系の文化・・・近畿天皇家が導入(7世紀後半以降)

「意味がわかっていますか?」と言われると,学生時代の自分を思い出して,ドキっとしてしまいます。心臓に悪いです。

建物の南北線の軸が真北とどれくらいずれるか
               ↓
その建物の設計思想と建設主体を確認する方法
               ↓
古地磁気偏角永年変化との比較と言う方法で、その建造年代の推定とともに行える

ということで,いろいろなことがいっぺんに分かってしまう.

その通りです。意味がわかっておられて安心しました。どうも前の肥さんの反応がこの点ではなくて、熊野神社古墳が上円下方墳という特異な形式であることにだけ向いていましたので。心臓をドキッとさせてすみませんでした。
 まあここも興味深いことではあります。
 上円下方墳と言うのは、平安時代以後の天皇陵の形式です。そして飛鳥奈良時代の近畿天皇家においては、皇族の多くがこの形式の墓で、大王(天皇)は、上円下八角形墳というさらに特異な形式ですので。上円下方墳は近畿天皇家の中でもかなり有力な官人層の墳墓です。

 磁石不使用の建物・・・南朝系の文化・・・九州 王朝が導入(7世紀半ばまで)
 磁石使用の建物・・・北朝系の文化・・・近畿天皇家が導入(7世紀後半以降)

 ここまでは現在のところは言い切れませんが、有力な仮説です。
磁石不使用の建物が九州王朝の版図と、さらに近畿天皇家の版図では、ある時期を画期として、北を確認して建造物を造る際に、真北から磁北に変わっているという事実が、多くの遺跡で確認できるまではまだ、有力な仮説です。
 つまり肥さんが武蔵国分寺遺跡の建物の南北軸が違うことに気づかれて立てた仮説が、古地磁気偏角永年変化という科学的な方法に出会うことで、かなり有力な仮説になったということです。
 ただ時期の問題ですが、8世紀を画期にした方が良いと思います。701年。評と郡の画期でもあり、大宝律令制定の年でもありますから。
 ちなみに記憶で物を言いますが、薩摩国分寺遺跡を検討していたとき、この伽藍の南北軸は東に3度ずれているとありました。そしてこれはたしか肥さんが引用された筑後国分寺でも同様。そしてこの二つのデータは同時に、太宰府政庁の南北軸が東に3度ずれているということと一致しているとも筑後国分寺の報告書には書いてあったと思います。
 これらの建物はみな飛鳥時代から奈良時代。古地磁気偏角永年変化という方法では、この時代の日本列島の磁北は西に偏っているので、東というデータは、磁石を使用せずに太陽の位置などで北を測定したが3度ほど誤差がでたということを意味しています。
 この伽藍の南北軸が真北からどれだけずれているかということだけで、建設主体を想定できる可能性がかなり強まりました。
 前に見た新治廃寺も確か東に3度だったと思いますよ。

建物の南北中軸線が真北から「東に3度」ずれるという例。完全な記憶違いでしたね。詳しくは多元的国分寺研究のサイトの「緊急指令東偏3度を追え」に書いておきましたが、磁石を使ったと判断できる例は、中軸線が「ほぼ真北、もしくは東偏」が正しい。当時の古地磁気永年変化の研究によれば、磁北は西に10度程度ずれているのですから、真北や東に偏していれば磁石は使っていないと判断できますね。記憶で数字を書いてはいけません。原典を確かめるべきでした。

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