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2016年7月23日 (土)

多元的「国分寺」研究サークルのオフ会

昨日,鶯谷の居酒屋で上記の会が開かれた。
古賀さん・宮崎さんのお二人と半年ぶりのオフ会である。

話題はもちろん国分寺のことも出たが,
「実証より論証」問題や第1次難波京副都説,
「(九州VS河内の)河内戦争」など多岐に渡った。

美味しいものを食べ,美味しい酒を呑み,
美味しい話をして,下町の夜は更けていった。

P7220948


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ
 昨夜のオフ会で出た「河内戦争」とはどの事件を指して言っているのでしょうか。今日の講演会でも出ていたような気がしましたが初耳なので。表題からどうやら九州王朝と河内との関係のことのようで気になるので。
 古田史学の会のサイトを検索してみると、相模原の冨田ケイ子さんが最近唱えているもののようですが、本なら読めるがネットでは読めないようなので、ご教示ください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

お調べのように,『盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店)
=古代に真実を求めて(古田史学論集第十八集)に掲載のものです。
冨川ケイ子さんの論文で,P171~200の30ページを占めます。
明日さっそくコピーをお送りしますが,要約されている部分を転載してみますね。

「日本書紀」巻第二十一,泊瀬部天皇(崇峻)の即位前紀に,
後に崇仏・廃仏戦争あるいは蘇我・物部戦争とも呼ばれるようになった戦いの記事がある。
橘豊日天皇(用明)が即位二年(五八七年)四月に崩御。泊瀬部皇子の即位は八月。
空白期の七月,その事件は起こった。

七月条は岩波書紀での訓み下し文では五十三行に及ぶ。
このうち,前半の二十五行は崇仏・廃仏戦争(蘇我・物部戦争)の記事である。
後半二十八行が本稿で検討する河内戦争にあたるが,
多くの場合,前半で敗れた残党掃討戦,またはそれに関わる忠犬譚くらいにしか理解されてこなかったと思う。
また,令制用語が多く使われていることで疑われてきた。
子細を読み込むことで,後半記事の価値を再認識していけたらと思う。

あとは,コピーの到着をお待ちください。

鴬谷でのオフ会では遅くまでお付き合いいただき有難うございました。とても有意義で楽しい一夕でした。貴ブログ掲載のお刺身船盛の写真をわたしのフェースブックに転載させてください。今後ともご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。

肥さんへ
 「日本書紀」巻第二十一,泊瀬部天皇(崇峻)の即位前紀の後に崇仏・廃仏戦争あるいは蘇我・物部戦争とも呼ばれるようになった戦いの記事を確認してみました。
 確かに後半の物部守屋滅亡後の記事には、まだ令制が施行されてもいないのに、「県」「国司」「牒符」「布告」など令制用語が頻発され、ここには「朝廷」の語も何度も出てくる。前半には朝廷の語は全く出てこないのに。
 この「朝廷」は九州王朝を指し、ここに出てくる県国は九州王朝が制定したもので、その国司は九州王朝が任命した人物だと仮定すると、この戦は九州王朝と河内を支配していた大豪族物部氏の戦ということになってきます。前半の物部と蘇我氏の戦いもこの一環だったと考えることが可能ですね。
 そういえば蘇我氏の出自は百済との説もあり、九州との関係も考えられます。蘇我物部戦争、崇仏廃仏戦争は、九州王朝に従うかどうかという近畿天皇家内部の争いということにもなります。
 冨田さんの論考のコピー。楽しみにしています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

早くも川瀬さんの推理が始まりましたね。
論文のコピーが届くまで,あと1日お待ち下さい。
冨川さんのような歴史の読み解き方もあるのですね。
やはりいろいろな方がいらっしゃるといいですね。

古賀さんへ
コメントありがとうございます。

ぜひまたオフ会をよろしくお願いいたします。
私たちも楽しみですし,古賀さんも翌日の発表の練習になるかもしれません。
今後ともご指導下さいませ。
PS 舟盛りの写真,どうぞご活用下さい。

 肥さんへ
 歴史研究は推理が命ですよ。特に史料が十分には残っていない古代史においては、推理することで史料を深く読み、残存した史料を論理的に組み立てて初めて史実が論理的に復元できるのですから。
 歴史研究は犯罪を推理して犯人をあてる推理小説のようなものだと、私は常に思っています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 歴史研究は推理が命ですよ。
特に史料が十分には残っていない古代史においては、推理することで史料を深く読み、
残存した史料を論理的に組み立てて初めて史実が論理的に復元できるのですから。
 歴史研究は犯罪を推理して犯人をあてる推理小説のようなものだと、私は常に思っています。

なるほど,川瀬さんはそう考えていらっしゃったわけですね。
やっとこれまで私があえぎながら,見えていなかった相違がわかってきました。
川瀬さんは「歴史研究は推理が命」と考え日々研究をされている。
それに対して私は,川瀬さんから見れば「何の推理をせずに,
金と時間を浪費している」ということになるのでしょう。

最初の頃,川瀬さんが日本書紀や続日本紀をやるから,
私には「国分寺の『新説』や『創建』の方を頼む」というやりとりがあったと思うのですが,
私のイメージはフィールドワークを中心にして,論文でおかしいなと思うところを指摘する
というイメージだったのです。だから,「精査せよ」と言われてもない袖は振れず(ない実力は出せず),
「言い出しっぺは肥さん」と言われても,私は「言い出しっぺの1人」ではありますが,
もっぱら地の利を生かした活動(古賀さんは関西ですし)
をやっていこうと考えていたので,そう言われても困るなあ,と。
だけど,今川瀬さんに出て行かれるのはもっと困るし…。

明日『国分寺を歩く』という本を紹介するつもりです。ただし,2つの摂津国分寺の話は出てきますが,
橿原市の大和国分寺のことは出てきません。一元史観で書かれた本ですからね。
山田さんに教えていただいた須田勉著『国分寺の誕生』(吉川弘文館)の注文をする際,
アマゾン内で見つけて同時に注文しました。
(『誕生』にも参考文献として出ています)
2年前に出されていたこの本の多元的古代バージョンを私はイメージしています。

「この論文は,ここが矛盾している。間違っている」と指摘するより,
「へー,面白いね。関東に法隆寺式が多いんだね」とか,
「なんで北の最前線(相手のふところ)に観世音寺式が立てられているの,不思議!」
という形で皆さんの関心をひき,多元的古代の研究をしてみたいと思う人が増える方が
私にとってうれしいのです。

私が各地の国分寺を廻っているのは,少しでも私にできることがあればと思ってのことです。
ここ2ヶ月で関東の国分寺は廻れたので,関東の国分寺の共通点と差異については
少し書けるかもしれません。「そんなものは研究ではない」と言われればそうなのかもしれませんが。
(これまで胸につかえていたことを書きました。気分を悪くされたらご免なさい)

 肥さんは多元論からする国分寺研究の面白さを紹介することだけやりたい。

 ということなのでしょうか。

 自分では難しい先行研究を検討してその矛盾点を明らかにして批判的に乗り越える作業はしたくない。

 というのでしょうか。

 肥さんが力不足を自覚しながらも取り組んでいくというのなら、いつまでもおつきあいして援助しますが、やりたくないというのなら、私がここにいる意味はないのです。

 何度も言っていることです。
 どうやらお分かりいただけないようですね。
 はっきり言ってこの二か月ほど。国分寺のことが頭から離れないので、近代史研究に差し障りが生じています。時間的に。僕は母の介護に多くの時間を取られるのですから、余計なことはやりたくないのです。はっきり言って。
 国分寺研究が自分のテーマなら、一人でやってしまうでしょう。すでにゴールも見えています。そしてそこに行く道筋も方法も僕には分かっている。それは先行研究を精査し批判しその成果を手に入れてその矛盾点を乗り越えること。あとはやるだけ。
 肥さんでもじっくり取り組めば何年かかければ、かならずゴールに行きます。

  武蔵国分寺についての私の二つの問い。この問いに肥さんが答えるまでじっと待っていようとは思っています。しかしいつになるのやら?
 僕の我慢もそろそろ限界ですね。
 途中経過でよいから、どこまでわかり、どこがわからないのか報告くらいください。

 じっくり取り組む時間がないというのであれば、文献精査は一旦中止して、肥さんが1年半後に退職してからにしましょう。
 その時に僕に時間があれば、お手伝いします。

 そろそろ先のことを決めたいと思っています。いつまでもダラダラと続き、何度も肥さんの「やりたくない」「面白くない」という中学生みたいな愚痴を聞くのも飽きてきました。
 

肥さん
川瀬さんのご意見に賛成です。
「歩く」のようなガイドブックにしたい、というのならそれも否定しません。
ただ、この多元的「国分寺」研究サークルの目的は、
従来の皇国史観(近畿天皇家一元史観)による国分寺研究の誤りを明らかにした上で、国分寺の前に国府に付属した国府寺(少なくとも大和政権が建立したものではないもの)があって、それを大和政権があたかも聖武天皇の音頭で初めて国分寺が創建されたかの様に解釈する、いわば紀伝体の「即位前紀なき即位記事」のような歴史を正すことではなかったのですか?その研究を前提にしたガイドブックなら良いのですが、ただ単に従来説への疑問点を放り投げてそれに観光客が食いつくようにするだけのガイドブックをお考えのようなら、川瀬さんと同じく私も手を引きます。
そうではないというのであれば、どんなに時間がかかってもアシストはします。これは前からも宣言していることですが、どうもお分かりいただけないのかな?

川瀬さん
冨川ケイ子氏の「河内戦争」(蘇我・物部戦争)は587年七月のことですが、時代は下りますが、皇極天皇二年(643年、九州年号なら命長三年)の日本書紀の記事に「壬子蘇我大臣蝦夷、縁病不朝。私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。」(「蘇我大臣蝦夷が病を理由に出仕しなかった。子の入鹿に私に紫冠を授けて大臣に擬した」)とあります。
「私に・・・授けて・・・擬した」とは、勝者の大義名分論・政治用語(イデオロギー)であって、事実だけを取り出せば、蘇我蝦夷は子の入鹿に紫冠を授けた(その権限(権威・権力)を持っていた)、ということです。つまり、大和の豪族「大王」の承諾無しに「大臣」を世襲させることができたのですから、この「大臣」とは大和王権の臣下としての大臣ではなく、九州王朝の大臣(朝臣)なのではないか、蘇我氏はもともと九州王朝の重臣として大和に派遣されていたのではないか、という疑問が生じます。中央集権を実現する手前には各豪族に監視役というか九州王朝の意向を伝える役割の者を派遣していたのではないでしょうか。現代で言えば、銀行が多額の貸付を行っている融資先に社員(部長以上のクラス)を「経理部長」として出向させているイメージです。思いつきに過ぎませんが、蘇我氏に関係する話を従来のように大和王権の内部の話と受け取らないほうがさまざまな事実をよく説明できるように思えるのですが。

蘇我氏について。
 お名前を書いてないのでどう呼びしてよいか。
 たしかに蘇我氏には九州王朝からの近畿天皇家の目付ではないのかとの疑いがありますね。ご指摘の記事はそのように読むことができます。私的に大臣としての紫冠を授けられるのですから。でもそれは同時に藤原氏についても同じような疑いがもたれます。
 ただあくまでも疑いのレベル。史料的にもっと確固としたものが出てこないと。
 冨川さんの河内戦争の論文を読みました。
 とても鋭い推理と論証で感心しました。論証そのものに文句をつけるところはありません。
 がこの説を前提にして考えると、果たして冨川さんがおっしゃったように、この記事の前半の蘇我物部の宗教戦争と後半の九州王朝対河内の戦争とが別のことであったのかどうか。出所の違う二つの記事を書紀の編者が結びつけた意図、その認識を考えてみないと。
 河内戦争で殺された「万」は近畿の八か国の王者であった。ということは、河内・和泉・摂津・紀伊あと四か国だと播磨・大和・山城・近江でしょうか。これは全部近畿天皇家の中心領域そのもの。つまりここからは、「万」は近畿天皇家の正統な王だったのではないかとの仮説が出てきます。つまり九州王朝は近畿天皇家の内紛に介入したのではないのかという仮説が。
 前の宗教戦争は正確には近畿天皇家の次の天皇を巡っての内紛です。内紛の中で二人の皇子が殺されています。そして内紛が一応おさまったあとには、今度は天皇そのものが。
 「万」とは、この内紛で殺された近畿天皇家の王そのもの。もしかしたら崇峻天皇そのものであったのかもしれませんよ。そして九州王朝に令制に基づく臣下として使えることを選択した近畿天皇家の一家とその廷臣たち。そしてそれを拒否して、従来通りに九州王朝の分家で同盟者としての道を選択した近畿天皇家の一家とその廷臣たち。こういう分裂であったのかも。
 この際九州王朝が勧める崇仏を支持した王とその有力廷臣である蘇我や大伴らが、廃仏を主張して九州王朝からの自立を図った王とその有力廷臣である物部を倒した。その際にその王そのものを倒したのが九州王朝で、近畿天皇家内部の九州王朝派はその有力廷臣である物部を倒したのかも。

 すくなくとも宗教戦争の形をとった近畿天皇家の内紛と河内戦争は一体であると書紀編者が認識していたからこそ、二つの出所の異なる記事が合体されたのだと推理します。

 肥さんへ
 冨川論文は見事な推理と論証で組み立てられています。これぞ歴史研究の鏡。こういうのを史料を分析的に読み込んで、論理的に再構成するというのです。
 僕らはこれを国分寺研究でやろうとしているのです。ただ単に近畿天皇家一元史観では国分寺研究に矛盾があると指摘するだけではなく、ここに九州王朝実在を導入すると、この矛盾は解けるということを証明しなければいけないのです。
 ほぼ証明できると結論は見えています。
 1:聖武天皇の詔は国分寺建立を命令していない(肥さんみつけたこと)。七重塔建設のみ。新たに僧寺を作る場合のことは指示しているが。
 2:金光明寺という呼び名は、諸国の僧寺に金光明経を配布して祈祷させたから。だから国分の金光明経を持った寺という意味で「国分寺」との略称が生まれた(私が見つけたこと)。
 3:諸国の国府の多くには国府付属寺院として国府の宗教活動を担った官立寺院があり、その多くが塔を回廊の中においた古式の形式を持ち白鳳瓦を出土している。これは九州王朝がつくった国府寺の可能性大(木下さんが主張してきたことを九州王朝論的に読み直すとこうなる)。

 以上の事実から、国分寺の中には聖武の詔以前からあった国府寺を転用したものが多数混在し、さらに詔以後に作られた新しい寺が混在する可能性が大である。
 これを確認するには、66か国の国分寺一つ一つを詳しく検討しなければならない。そして国分寺遺跡の中から、詔以前に作られたことが確実な例を見つけ出すことと、詔以後の寺の場合には、より国府に近く古式の寺院がないか検討すること。
 この間肥さん・山田さんと三人でやっていることは、この最後のことです。
 この検討をやり遂げれば、九州王朝論からする国分寺論の完成です。
 検討の目的ははっきりしています。
 でも66か国の国分寺はそれぞれ成立事情が違いますし、発掘研究してきた人も異なります。だから検討にはすごい時間がかかります。
 肥さんは成果をすぐに求めすぎ。
 今やっていることは長距離走です。それもゴールは見えていてもそのコースは自分で作るしかない長距離走。きっと肥さんにはゴールも見えてないし、そのコースらしきものもしかとは見えていないのでしょう。
 その上肥さんがそもそも国分寺研究に入った端緒である、武蔵国分寺の二つの伽藍の南北方位の違い。肥さんはこれを「真北は九州王朝創建」「傾いているものが近畿天皇家創建」との仮説を立てて研究してきましたが、この仮説が私によって完全に否定されたことで、研究への興味を半減させたのでしょう。
 これに仕事の忙しさから時間がなく、論文を読みなれていないのでなかなか読み込めない。

 どんどん自分が研究を遅らせているとの焦り。
 その上下手なことを言うとまた怒られるとの思い込みからの焦り。

 これらが重なって、「研究なんかやりたくない」と叫んでいるだと思います。

 でもこんなわがままを聞かされるほうの身になって考えてください。

 あわてずに、夏休みをかけて武蔵国分寺研究を完成させましょう。

川瀬さん
論証のない話で恐縮ですが、私は『日本書紀』を執筆した史官の中に滅ぼされた九州王朝の史官が居たのではないか、という思いをぬぐえないんです。確かに『日本書紀』は九州王朝を影も形も消し去っていますが、良く見るとあっちこっちにほころびが見えていて、それを手繰るとずるずると芋づるのように九州王朝の手がかりが出てくるのですが、なにか意図的に仕掛けられてられた結果のような気がしてなりません。九州王朝に仕えた役人が全員殺されたとか、全員首になったとは思えませんし、有用な人材は手に入れたいはずです。例えば、造暦法をマスターしてる者とか、単に中国語を話せるというのではなく古典や故事来歴にも詳しい漢文で外交文書をしたためられる者とか、自分の臣下に居ればいいですが、独占されていたこととか、そんな経験がなかったとかであれば前王朝の役人でも使おうとするのではないでしょうか。その中に九州王朝の史官が居たと考えれば、きっと何か仕掛けると思うのです。そんな妄想のようなものが頭から離れないのです。単に書紀の杜撰さとみる見方もありえますが。。。。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私の現在の心境は,ほぼご推察の通りです。

〉 あわてずに、夏休みをかけて武蔵国分寺研究を完成させましょう。

昨日県大会が終わって,ようやく「夏休みに入った」気というがしているところです。
今後ともよろしくお願いいたします。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 その研究を前提にしたガイドブックなら良いのですが、
ただ単に従来説への疑問点を放り投げてそれに観光客が食いつくようにするだけの
ガイドブックをお考えのようなら、川瀬さんと同じく私も手を引きます

もちろん前者のような問題意識を持ったガイドブックです。
どこから後者のようなものを私が考えていると思われたのでしょうか?

 山田さんへ
 「『日本書紀』を執筆した史官の中に滅ぼされた九州王朝の史官が居たのではないか」。その通りだと思います。記憶で申し訳ないが、確か古田さんもそのようなことをどこかで言っておられたと思います。
 史官のような特殊な技能知識をもった人物を九州王朝の史官だからといって首にしたり殺したりしないと思います。当然再雇用された。ただし新しい歴史書を編纂する際に、その目的や体裁は厳しく近畿天皇家から指示された。
 でも史官は学者でもあります。学者としての良心があります。だから九州王朝の痕跡をすべて消し去ることはできなかった。だからあちらこちらに史料を引用したり注記する形で、わかるものが読めばわかるように作ったのだと思います。

 肥さんへ
 武蔵国分寺研究については、多元的国分寺研究のほうの、「二冊の国分寺本」のコメントに詳しく書いておきました。私が肥さんに出した宿題がどこにつながるのかを。
 肥さん。宿題がどこにつながるのかわからない。ならここがわからないと質問してくれればよいのです。それくらいわかっているはずと思って詳しく書いてないのですから。
 人の心の中は読めません。推察することは可能ですが。それよりもっと直截に、わからないことをどんなに細かいことでも質問したら笑われるかもしれないと思っても出すことです。それがお互いを理解する早道ですよ。

 愚痴はみっともない。あせらずじっくり進みましょう。

肥さん

>もちろん前者のような問題意識を持ったガイドブックです。
>どこから後者のようなものを私が考えていると思われたのでしょうか?

上記疑問にお答えします。
私は「その研究を前提にした」と言っていますが、肥さんは「問題意識を持った」と言っています。
私は「研究(した成果)を前提にした」と言うのに対して、肥さんは単に「問題意識を持った」と言って「問題意識」があれば良しとしています。この違いです。ずっと「研究」(とりわけ、一元史観の論文の精査)を嫌がって私ができるのはこれだと言ってフィールドワークに逃避していたのではありませんか?そんな態度を見た上で、

>2年前に出されていたこの本(『国分寺を歩く』)の多元的古代バージョンを私はイメージしています。
>「この論文は,ここが矛盾している。間違っている」と指摘するより,
>「へー,面白いね。関東に法隆寺式が多いんだね」とか,
>「なんで北の最前線(相手のふところ)に観世音寺式が立てられているの,不思議!」
>という形で皆さんの関心をひき,多元的古代の研究をしてみたいと思う人が増える方が
>私にとってうれしいのです。

上の「(肥さんが多元的古代の問題意識をもって書いた本によって)皆さんの関心をひき,多元的古代の研究をしてみたいと思う人が増える方が私にとってうれしい」という文章を読んで、そう判断しました。私は「(古田史学の方法論に基づいて)研究した成果を示して、その結論に納得してくれる人が増える方がうれしい」のです。この「多元的『国分寺』研究サークル」活動はそのためにするものだと認識していたからです。肥さんはそうではなく、研究してくれる人を増やしたい(自分はしない)のだな、と思ったわけです。たしか川瀬さんも同じような受けとめ方をされていました。
それは誤解だ、といわれれば誤解なのかも知れません。しかし、誤解されるような言動というものもあるのではないでしょうか。別にに責めているわけではありません。疑問に答えただけですので、悪しからず。

あわてずに、夏休みをかけて武蔵国分寺研究を完成させましょう。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

なるほど,私の文章の言い回しから,私がまた「逃げ回っている」と判断されたわけですね。
それは私の表現力不足でした。すいません。
「多元的「国分寺」研究の成果を盛り込んだ」という表現ならよろしいでしょうか。

私は何かを研究するという場合,
板倉聖宣氏(私が教師生活で実践してきた仮説実験授業の提唱者)の
次の言葉を思い出すのです。
「もしその研究内容が正しいものなら,たのしく研究できないはずはない」というものです。
(確か『差別と迷信』という本に出ていたと思います)
実は,ご存知の通り,私にとって「論文の精査」というのはあまり楽しい作業ではありません。むしろ苦行です。
精査という言葉の意味もよくわかりませんし,やったこともありません。
それで,こんな私にもできるようなこととして,フィールドワークに出かけてヒントを得ようとする。
「逃げている」と言われる。これで「やる気のスイッチ」が入るわけないですよね。
(また愚痴が始まりそうなので,ここで止めておきますが)

思うに今の多元的「国分寺」研究サークルの現状は,
応援団員は3人いるが,応援団長が不在の状態だと思うのです。
そして,私が応援団長として旗を振らないと3人のうち大切なお2人は「去る」と言われる。
こういう話はブログ上ではなく,表情が見えるオフ会の席での方がいいと思うのですが,
(表情が見えないので,笑いながら言っているのか,険しい顔でいっているのかわかりませんし,
ブログでは,最後に自分が発言しておかないと落ち着かず,また議論が続くからです)
それでこれまで,「無駄な時間」(とは私は思いませんが)が過ぎてきた。

しかし,そういう状態ということをふまえつつ,前に歩を進めたいと思います。
夏休みに考えた私の報告がどんな拙いものでも,どうかお許し下さい。
こんな私が出す報告ですから,「なんのための夏休みだったのだ!」
ということもあり得ますが,それは神のみぞ知るです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。m●m

肥さん

肥さんが誤解しているといけないので言っておきます。
>夏休みに考えた私の報告がどんな拙いものでも,どうかお許し下さい。
>こんな私が出す報告ですから,「なんのための夏休みだったのだ!」
>ということもあり得ますが,それは神のみぞ知るです。

上記を読んだ印象では、夏休みが終わると肥さんの報告を目にするように思われます。
別に肥さんの卒業論文の審査をするわけではないのです。肥さんはご自身が試験をされているかのようにと受け止めていませんか?これから66以上の国分寺の研究を行うための自主トレーニングくらいに受け止めませんか?はじめは筋肉痛でつらいこともあるでしょうが、トレーニングの成果がでてくれば、楽しさを感じることができると思うのですが。

川瀬さんの歴史研究は推理小説のような、という言葉とても言い得ています。犯人は誰だろうという興味だけでどんどん読み進んではもったいない。読んでいる途中で、そこまでに作家が開示している情報を整理して組み立てながら犯人のめぼしをつけていく、少し読んではそれをやり、また少し読む。読み終わったら、作家がどんな仕掛け(トリックと話の構成)を用いたのかも分析する。なるほど、こうだったのか、と納得する。推理小説が二倍も三倍も楽しめます。歴史の研究ととても似ている。私は推理小説が大好きで、昔はエラリー・クイーンを徹夜で読んだこともありましたが、今思い返すともったいない読み方をしたなと後悔しています。脱線してすみません。

言いたいのは、肥さんがレポートを書いている途中で、いろいろ疑問点が見つかり、検討はしたけれど、その出口が見つからないとか、悩むことがありますよね。あるいは、精査対象の論文のこの部分の意味が良く分からないとかありますよね。そういうときに、一人で抱えず出してほしいのです。川瀬さんや私なら分かりますよという意味ではありません。
共同研究というのは、違った視点をもっている者がいるからメリットがあるのです。肥さんが三人いれば良いというわけではないでしょう?肉体労働ならそれでいいかも知れませんが。肥さんだから分からないのではないかも知れないですよ。わたしも分からない、川瀬さんも首をかしげている部分かも知れないじゃないですか。だから三人で考えましょう。いや、ブログで公開しているのですから、読者の方々にも考えてもらえるかも知れません。情報は発信のみよりインタラクティブのほうが価値が高まります。

つまり「遣り取りをしつつまとめていきましょう」と言いたいのです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

せっかくいろいろご配慮をいただきながら,
なかなかそれを理解することができず,
また生かすことができず申し訳ありません。
無理せず,少しずつ歩みを進めていきますので,
今後ともよろしくお願いいたします。

山田さんへ
 肥さんに対する的確なアドバイス。ありがとうございます。
 今肥さんに武蔵国分寺についていくつも課題を課しているのは、肥さんを試しているからではありません。今後65か所の国分寺の研究論文を読み解いていかねばゴールには到達できません。そのためのトレーニングだと、最初に申し上げたはずです。
 しかも武蔵国分寺は66か所の国分寺の中で最も難しいもののひとつ。読み込むのは大変です。
 ここをクリアーできれば、きっとあとは楽なものだと思います。

 そう。一人で悩まないで、どんな小さなことでも疑問を出してください。三人で、いやもっとたくさんの読者の人とも共同で研究しているのですから。
 だから「完璧なもの」を出そうと思わないこと。どんどん途中経過でよいのです。
 たたかれることを恐れず、着実にやっていきましょう。

 多元的国分寺研究の新しいスレッドを見ると、どうやら肥さんは、従来説が塔中心伽藍⇒金堂中心伽藍への計画変更をどうとらえているかはつかんだようですね。
 問題はその理解で本当に、遺跡の状況、伽藍が二つあることを説明できているかです。

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