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2016年7月 9日 (土)

ようやく区画Aが見つかった~遅々たる歩み

肥さんへ・追伸
 先のもともとの多摩郡家のありかについて。
 区画Aのすぐ南側を走っている東西道路Bですが、
これは京所道とその傾きがほぼ同じだと思いますし、
区画Aの南辺は、この東西道路に平行しているようにも見えます。

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肥さんへ
 東偏3度の町並みの中心に区画A、その南部に多摩寺です。
 この地区の出土物は、江口さんの「古代武蔵国府の成立と展開」に詳しく書いてあります。
ちゃんと出土場所の分布地図を含めて。第二章武蔵国府の成立と展開を精査してください。
 人のふんどしで相撲をとらないで(安易に人に尋ねないで)自分で本や論文を読んで証拠を探してください。
何度も言いますが国分寺研究は肥さんの課題であって、僕の課題ではない。

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以上のような川瀬さんの叱咤を毎日いただきながら,
私の遅々とした歩みは再開する。(ようやくテスト返しも終了した)
私はどうも川瀬さんのように論理的に文章だけで内容を理解できる能力が低いらしく,
川瀬さんが詳しく書いて下さっている文章の何割も読み落としているようだ。
また,江口さんの地図はかなり縮小されていて,区画Aをなかなか発見できずにいたこともある。
私も目の前に色付きの地図が示されれば「なるほど,そういうことか」とわかるのだが,
文章と縮小地図からだけだと,トンチンカンな方向を探していたりするのである。
(そういえば実踏の時,「私は一度行った土地は忘れない」と川瀬さんは言われていたが,
私は何回も行って初めて納得する方らしいです)

もしかしたら私と同じような読者もいるかもしれないと思うので,
私がようやく見つけた区画Aと多磨寺や東西道路Bの位置関係について,
図(写真)で見ていただこうと思う。
本になるとしたら,私はこの図をカラーで入れてよく見ていただきたいと思うからだ。
(写真をクリックすると拡大します)

P7090849

P7090848

ところで,この区画Aの東偏の角度はとても3度とは言えなく,もっとありそうだ。(10度くらい)
実際江口さんも,9~15度と書いておられる。
川瀬さんもそのことをわかって,次のより東偏の少ない東西道路Bの角度に目を向けたと思うのだが,
そうすると以下のの3つの東偏の街並みがあったことになると思った。

(1) 南北軸(東偏0度)の街並み・・・府中は中世の名称なので,鎌倉街道もあり12~14世紀頃?
(2) 東偏3度の街並み・・・京所廃寺と同じだとすると7~8世紀か
(3) 東偏9~15度の街並み・・・9世紀までは存在したという

これらはその距離の近さから,同じ時代にあったとは思えない。
(2)→(3)→(1)という順番で変遷していったのだろう考える。
いかがでしょうか。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ
 江口さんの本の地図は白黒なので見づらいですか。ならば先日府中市の歴史館でもらった「府中の地下マップ」がカラーで今の市街地図の上に発掘された遺跡を色分けして掲載しているので見やすいですよ。
 区画Aの角度ですが、東辺と西辺の角度が異なるために平行ではなく、だからゆがんだ四角形としています。たぶん図から見て西辺が15度東偏で東辺が9度東偏なのでしょう。
 そしてこの角度は、発掘した少し蛇行して崩れた溝で復元しているので、元の溝がどのような角度であったかはこの数値ではないと思います。
 それよりも区画Aのすぐ南側を走っている東西道路Bと南にある京所道がともに東西に対して南に3度ほど偏しており、区画Aの南辺と北辺とがほぼこれに平行であることのほうが大事だと思います。
 そして京所道は京所廃寺(多摩寺)の伽藍の南北軸が東に3度偏しているのに対してほぼ直角に交わっているので、この道の東西に対する偏角も3度と判断しました。だからこの京所道や東西道路Bに直角に交わる道路は、南北に対して3度東に偏する形になる。

 したがって府中付近に見られる街路は肥さんが示した三種類ではなく、やはり二種類だと思います。
 つまり
・東西に対して南に3度偏した道路と南北に対して東に3度偏した道路からなる街路。
・ほぼ東西南北に向かう道路からなる街路。
 この二つです。
 最初の街路が7世紀中ごろには作られたとみられる多摩寺と多摩郡家を中心とした街路で、後の街路が7世紀末ごろから作られた東山道武蔵路にそった武蔵国府と多摩郡家を中心とした街路なので、3度偏した街路が最初、そのあと偏していない街路ができたと考えるのが良いと思います。

 あとはこの古代道路遺跡と現代の道路がどう関係しているかは、明治12年の参謀本部作成の迅速測地図(二万分の一)の府中駅の街路図と比較しないといけませんね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

9~15度とはそういうことだったんですね。
それでは街並みが変わるどころか,
ひっくり返ってしまいそうです。
(2)→(1)の2つ考えればいいということですね。

もうだいぶ前のことになってしまいましたが,
送っていただいたコピー・送料のお金は,
確かに届いています。
「不在連絡票」を持って郵便局に取りに行ったのが2日後で,
踏査の時に言おうと思って失念し,今日に至ってしまいました。
こういうのはすぐやらないと,あっという間に時間が経ってしまいます。
ありがとうございました。

古田先生はともすれば「天才型」の人間と思われがちですが、実は何度も何度もくりかえして認識を深めるという「努力型」の研究者でした。ですから、わたしのように「努力」よりも「ひらめき(思い付き)型」の「弟子」はよく叱られました。学問は十分に時間をかけて行うもの、というのが古田先生の教えです。肥沼さんの進め方は古田先生らしくて良いと思いますよ。

古賀さんへ
コメントありがとうございます。

古賀さんが「ひらめき型」と古田先生から叱られていたとは,
ちょっと驚きです。
しかし,私も「ひめめき度」では引けを取りませんので,
(私は「好きなことだけ」努力型)
今後ともよろしくお願いいたします。
22日(土)にお会いできるのを楽しみにしております。

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