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2016年6月 9日 (木)

「66国の国府寺建立」記事

このサイトの初期の記事に,「「国分寺は」なかった!」というのがある。
これは古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』のモジリではあるのだが,
「聖武天皇の「国分寺建立の詔」の中には「国分寺」という言葉は,
一回も出てきませんよ~」という裸の王様の透明のマントの本質を指摘する
子どもの発した直観的な叫びでもあった。
その冒頭に以下のような言葉を書いたのを覚えているだろうか。
すなわち,

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事

『続日本紀』に見える、天平13年(741)の年に聖武天皇の「国分寺建立の詔」記事
との間にどんなことがあったのかを解明していくのが,
多元的「国分寺」研究のキモである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これである。

先日川瀬さんから紹介していただいた木下良著『国府』の一覧表から
「国府の付属寺院」のグラフを描くことができたが,
その際のドットの数(60)でひらめくものがあった。

木下さんのまとめた寺院の数・・・45
貞清さんがカウントした観世音寺式の数・・・15

もちろんダブリもあるし,まだ未発見のものや未整理のものもいれると,
「聖徳太子」が作れと命じた66国とあまりに近いと思ったのだ。
もちろん「聖徳太子」ではなく,多利思北弧らの九州王朝の天子の命令であるが,
この数値の近さは,聖武天皇の命じた国分寺に先立ち,もうすでに九州王朝が先に
国分寺(国府寺)を全国展開していたことの傍証となるのではないかと思う。

だから,聖武天皇は「国分寺を作れ」とは書けず,
「七重塔を作れ。そうしたら,金泥のお経をプレゼントしよう」としか
書けなかったのではないかと思うのだ。
(その後.塔が回廊の外にある国分寺は作ったけれど)

いつまでも「国府の付属寺院」という考え方にしがみついていないで,
飛鳥・白鳳期に建てられた国府寺は別の王朝が全国に建てさせたもの=
九州王朝が先在していたことをはやく認めてほしいものである。
それが日本の歴史学を科学に近づけていくと思う。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

国分寺の起源がますます怪しくなりましたねぇ。教科書通りの勉強じゃ判らない事が多いですね。法隆寺の歴史を調べていて、明治時代の廃仏毀釈にたどり着いたのですが、学校で習った覚えがなかったんですよね。夢殿の起源や夢殿から秘仏が見つかった経緯とか。うーん、ちゃんと調べないと刷り込まれた知識に振り回されて事実が見えてこないです。

閑人さんへ
コメントありがとうございます。

教科書に書いてある歴史は,
本当の歴史とは限りません。
「今のところ多くの学者は,こう考えています」ということです。
だから,「本当はどうなのだろう?」と考えてみることが大切です。
でも,歴史を教える先生はそう思っていないことが多いです。

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