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2016年6月26日 (日)

「武蔵国分寺」の検討(粗案・前半)

武蔵国分寺についての検討のための文章(たたき台の為のレポート)を私が書くことになっているのだが,
なにしろこういう経験があまりなかった上,手本もないという悪条件。
(手本がないのに書くという点では.「自己評価シート」に似ている)
とにかく,何もないところから出発して,『新修 国分寺の研究』『国分寺の創建』の話につなげていきたい。
最初から読みやすくは書けないので,思いつくまま箇条書きで書かせていただこう。

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(1) 武蔵国府の位置については,大國魂神社境内。国府寺については,京所(きょうず)廃寺が有力。
ただ,京所廃寺から白鳳瓦が出土したのかどうか確認はできていないし,そもそも府中の名称は,
中世的な中心地の表現であると木下良著の『国府』にもあり,国府や国庁,国衙に関連する地名を
他に求めたいところである。もし多摩川の氾濫などで,川べりの地を離れて大國魂神社の方へ
移動したとすると,府中本町の駅辺りは最近発掘調査をしていたみたいなので,調べてみる必要がある。

(2) そもそも武蔵国分寺に興味を持ったのは,もらった案内図の塔の南北方位がほぼ真北なのに,
金堂以下の建物群が7度西偏していることに気が付いたからである。それを古賀さんに報告したところから,
多元的「国分寺」研究は始まった。すると,いろいろな証拠(大和国の国分寺,摂津の2つの国分寺など)が
ざくざく出て来ることになった。南北方位については,僧寺と尼寺の間を貫く東山道武蔵路も尼寺も
ほぼ真北といっていいので,ますます僧寺の7度西偏が浮き上がってしまう。「塔からは古い瓦が出ている」
という話もあるので,一応それは九州王朝の命令下で作られたものと考えたい。また,白村江の敗戦後は
工事の主体が大和政権に変わったと思われるので,7度西偏の磁北を重視したやり方に変更たものとしたい。
塔の位置が金堂以下の伽藍と距離があったために,あえて塔は利用されたのではないだろうか。
出来立ての塔をこわしてまで,新規の塔を作るのは惜しまれただろうから。

以上は,本を読む前の準備。読書後のものはのちほど。

(3) まず,『新修 国分寺の研究』には,○年に出された『国分寺の研究』以降の知見が書かれている。


(4) さらに○年後に出された『国分寺の創建』には,さらに新しい知見が書かれている。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 論文を精査してまとめるときのポイントを肥さんのメモをもとに書いておきましょう。
 1の武蔵国府問題。これは国分寺を考えるとき不可欠の問題ですが、わりと専門家は考えていませんね。だからこそ木下さんの「国府付属寺院」という考え方がでてくるわけだし、さらに国府付属寺院が国分寺ができてからも長く存続しているので、二つの寺院の役割性格はなんだという問題にもつながっています。
 国府が移動するというもんだい。河川の氾濫は大きな要素ですね。あと、木下さんの「国府」には国府遺跡には十字路があるという記述が。国府域は必ずと言ってよいほど、古代の幹線道路がその国府域を通っている。それが複数の場合には国府の中に十字路が生まれ、国庁はその十字路を避けて、東西もしくは南北に偏って設置される。その理由は地形だと。
 さらに国府域を幹線道路が通っていない場合はかならず幹線道路につなぐ道路が造られていると。
 この点で、国分寺遺跡(あとの方の伽藍)の中軸線を下に伸ばした参道から枝分かれするように東山道武蔵路接続する道があり、これと国府に向かう道の三差路が出ていることが注目されます。これは国府の位置を推定する一つの手掛かり。
 府中周辺の古い地名に国府にかかわる地名がないのか、そしてこの十字路がないのかがポイント。
2:報告書を読んでいると専門家も、最初は塔を中心とした南北を基軸とする伽藍が造られたが、それが変更されて伽藍全体が西に移動し、南北から西に6度と少し偏した軸を中心に新たな伽藍が造られたと考えている。しかし肥さんの書き込みにもあるように、なぜ二つの伽藍の軸が異なるのか考察されていない。そして最初の伽藍と尼寺の軸は東山道武蔵路と同じなのだから、この三つの建設主体は同じだということも考慮されていない。
 さらに最初の塔を中心とした伽藍の考察が不十分。塔を中心とした伽藍配置と言えば、四天王寺式と飛鳥寺式だね。関東では下野薬師寺がこの飛鳥寺式の変形。ではこの武蔵国分寺の最初の伽藍の形式は?となるのに、ここは全く考察されていない。
 伽藍の軸を考慮に入れると、国分寺北方建物の存在も注目。これもほぼ北向きだ。
 あとポイントになるのは、塔(二つあるね。一つは再建)の瓦からこの塔の創建年代をどう推定したか。そしてあとの伽藍の瓦からこの伽藍の創建年代をどう推定したか。
 どうも文献に頼りすぎているように思えますね。
 伽藍の創建年代は、瓦の形式と、基壇の造り方。古い伽藍はそもそも基壇がなくて地面を少し掘って突き固めそこに穴を掘って柱を建てた掘立柱形式、次の段階の伽藍では突き固めた地面の上に何層もの粘土を積み重ねて圧縮して壇をつくる。そのうえに礎石を置いて柱を建てるのだが、土壇のふちが崩れやすいので補強の必要が。最初は瓦を積んだ形に。築地塀の中に瓦を積み重ねて造ったものがあるがそのやり方。次には土壇のふちを切り石を組んで補強するやりかた。
 こういうさまざまな要素から伽藍の建物の創建年代は考察する(あと、土壇の中や地面を突き固めた中からどんな土器や瓦が出たかも考慮の対象)。
 二つの伽藍構想があったことは専門家も認めている。その二つの構想の伽藍の創建年代を、以上のような各要素を元にどう考察しているのかを明らかにするのがポイント。
 そしてそこに問題があれば、ここが彼らの解釈の崩壊点。
 先ほどの二つの異なる構想があった意味を考えていないことと、国府の位置を通説をそのまま受け入れていることもおそらく彼らの解釈の弱点。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

やはり武蔵国分寺跡は,何回も現地を歩き,
それなりに考え,疑問に思ったこともあり,
おっしゃっていることが九州の国分寺よりは頭に入ってきます。
こんな私ですが,今後ともよろしくお願いいたします。

PS 今週はテスト期間に入るので,少しは時間が取れると思います。
なんとか「武蔵国分寺レポート」を書き上げたいところですが・・・。

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