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2016年5月 4日 (水)

多賀城廃寺や秋田城付属寺院が観世音寺式伽藍配置である意味

ここ数日で私の認識は大きく進歩した。
多賀城廃寺や秋田城の付属寺院が
観世音寺式の伽藍配置をとることが
わかったからである。

この意味は,決して小さくない。
というのは,当時多賀城や秋田城は東北地方における
最前線=フロンティアだからである。
ここより北は蝦夷の国。
だから,城壁で囲まれた都市だった。

その最前線のフロンティアの城の付属寺院が,
なんと九州王朝の「専売特許」と言ってもいい
観世音寺式伽藍配置を取っているということなのである。
これはいったいどういうことであろうか。

(1) 大和政権が九州王朝に遠慮して,あるいは気を使って観世音寺式を採用した。
(2) 九州王朝が東北地方への進出の主体だったから,当然観世音式を採用した。

私は(2)のような気がしてならない。
そのように思う理由をいくつか挙げてみる。

(1) 陸奥国分寺は,塔が回廊の「外」にある国分寺である。
それは大和政権の「専売特許」と言ってもいい東大寺式という様式である。
建てられたのは通説でも,多賀城より後である。
しかも,現地の条里の方位とは一致しないらしい。
それに対して,貞清世里氏によれば,
東北地方には4つの観世音寺式伽藍配置の寺院が確認されている。
多賀城廃寺(宮城県),郡山遺跡の付属寺院(宮城県),秋田城の付属寺院(秋田県),
夏井廃寺(福島県)である。

(2) ウィキペディア「蝦夷征伐」を検索したところ,「称徳以前」として,
7世紀は比較的平和な関係だったものが,8世紀以降そうでなくなったと書いてあった。
ОNライン(7世紀と8世紀)を境に,九州王朝から大和政権に主権が変わったためではないか。

(3) 秋田城付近にある古四王神社は,式内社ではないが658年創建と言われ,
仏教の影響からか,近年まで氏子は,肉,牛乳,卵を飲食しない風習を持っていたとのこと。

(4) 筑後の「曲水の宴」の発掘により,「曲水の宴」は大和政権の「専売特許」ではなくなった。
友好関係にあった九州王朝が東北に地に建設したものではないか。

(5) 650年代に倭国の遣唐使が蝦夷国の人(二ギエミシと呼ばれた人か)を連れて行っており,
皇帝との問答が記録されている。(おとなしい二ギエミシのほかに,アラエミシやツガルいるそうで,
九州王朝の使いが二ギエミシを連れて行ったものと考える。(662か3年,白村江の戦い)

(6) 古くは縄文・弥生時代から,日本海は海流によって同じ文化を共有しやすい面がある。
稲作(垂柳遺跡や砂沢遺跡)や金属器,仏教の伝播も日本海側が早かっただろう。
当時は海と川が主で,道路は従だった。その点,7世紀半ばに開通した日本古代ハイウェーは
画期的なものだった。秋田城は日本海により,多賀城は東山道により建設ができた?

今回ちょっと論を進め過ぎた感はあるが,
多賀城や秋田城の建設主体が九州王朝である可能性について論じてみた。
大きな間違いや勘違いがあったら,叱咤ではなく,
やさしく教えていただけたら幸いである。

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