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2016年5月 1日 (日)

多元的「国分寺」から多元的「多賀城」へ?

大和政権のものだとばかり思っていた多賀城が,
もしかしたら実は九州王朝が作ったものかもしれないと
昨日思えるようになった。

実は今進めている多元的「国分寺」研究の主な手法は,
塔が回廊の「内」か「外」かという伽藍配置の比較なのだが,
なんと多賀城の付属の多賀城廃寺が,
まさしく太宰府の観世音寺の伽藍配置と同じことを確認したからだ。
(大越さんや古賀さんは,15年前にご存知だった)

また,現地は「曲水の宴」跡が発掘された場所でもあり,それを行ったのは誰かという問題。
九州で「曲水の宴」跡が発掘された時,九州王朝説に立てば当然でしょうと思っていた私も,
多賀城での「曲水の宴」跡には驚いた。
いったいこの多賀城で遊んだのは,「蝦夷」なのか「九州王朝」の人なのか。
また,その地に観世音寺と同じ伽藍配置であることの意味。
「事実は小説より奇なり」という感じである。
「蝦夷」を連れて中国に行ったという話は,「れんだいこさん」のサイトに出て来るので
引用させていただく。

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 659(斉明天皇5)年 中国の史書「新唐書」の「通典」、
日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、
「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、
そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。
日本書紀ではこれに対応して「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子に貢した」とある。
 遣唐使と唐の高宗の問答で、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、
麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があったと記述している。
都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在していたことになる。

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だから少なからず熟蝦夷(にきえみし)とは友好関係があったと思うが,
それが仙台付近の人々なのかなあ。
その後の大和政権との抗争をみると激しく抵抗しているように見える。
なのでアラ蝦夷は岩手・山形・秋田の人々で,,
都加留(つがる)が青森の人たちとすると一応手がかりはできるかなあ。

分かっているように思えた「国分寺」の歴史が実はまったくわかっていなかったように,
分かっているように思えた「多賀城」の歴史も今わかり始めるのかもしれない。
ぜひ皆さんものぞいてみて下されば幸いである。


多元的「国分寺」研究サークル

http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/

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