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2016年5月22日 (日)

熊本大震災・支援報告(その2)

國友さんの支援報告(その2)を,
転載させていただきます。
読みやすくするため,肥沼が改行等をしました。

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2度目の被災地支援に行ってきました。

5月20日(金)、今回は、久留米市の地域活動支援センター
「共に生きる場JAMBO」(障がい者の共同作業所)のJAMBOを支える会
「やったるJ(ジェイ)」のみなさんと一緒に『チームJ』として、
焼きそばとたこ焼きの炊き出し支援に行きました。
八女からは、大学生2人を含む4人。
「やったるJ」からは9人の参加でした。

9時30分、北熊本SAにて合流。簡単な紹介で結団式。
『チームJ』を結成しました。
SAを出ると屋根にブルーシートがかけられた家が増えてきます。
左車線は熊本ICで降りる車で2km近くの渋滞です。
詫麻PAを過ぎると右車線が南に向かう車で停滞です。
益城熊本空港ICで降りて益城町に向かいます。
益城町に入ると、それまでののどかな田園風景が一変します。

私は2度目の来訪ですが、同乗している2人の大学生には衝撃の光景だったようです。
前回から10日経ちますが、街中の様子はほとんど変化が見られません。
時間が止まっているような錯覚を覚えます。
やっと罹災証明が発行されるようになったそうですが危険で、
とても片づけるとかという状態ではありません。
目的地の中央小学校に到着。懐かしさを感じてしまいました。

前回は雨の中の炊き出しでしたが、今日は快晴に恵まれました。
ただし、強風のためにブルーシートを張り巡らせて風よけを作りました。
町の中は時間が止まっていましたが、体育館の中は様変わりしていました。
9日は仕切りのない広いフロアにマットレスが敷かれ、
その上に布団が置かれてい るだけでした。

15日に段ボールベッドと紙缶で作られたパーテーションで区切られ、
ある程度のプライバシーの保護が出来るようになっていました。
被災者の方にとってはわずかではあるでしょうが、心の安らぎになっていることでしょう。
昨日、天皇皇后両陛下が慰問においでになり、
被災者の方々と膝をついて話してくださったそうです。
どこかの総理大臣のマスコミを意識したパフォーマンスと違い、心をうたれた訪問だったそうです。

炊き出しは、焼きそば組が4人。たこ焼き組が8人。
田上総料理長の独断での組み分け。
あぶれた私は出来上がった焼きそばとたこ焼きを保温ケースに詰める係のはずでした。
ところが、12時になり配食が始まるや否や、配食テーブルには長い行列が・・・。

瞬く間に焼きためたパックはなくなり、
「たこ焼き待ちの行列で~す。」「すみません。今焼いてい ます。もう少しお待ちください。」
と焼き場と体育館を行ったり来たりのウエイター役でした。

でも、みなさん久々の熱いたこ焼きに笑顔満開でした。
京都から来ていて、今日お昼に帰るという保健師さんたちに1個づつ味見(毒見?)をしてもらいました。
本場、関西の味に負けていないとお墨付きをもらいました。

焼きそばは職人古川さんの独壇場で、一度に15パックを焼き上げる神業で行列はなくなりました。
野菜たっぷりの焼きそばは、野菜不足のお客さんに喜ばれていました。

たこ焼き組は、焼きそば組から一人スカウトして9人体制で、
油係、キャベツ係、天かす係、たこ係と分業で焼いていましたが、
なかなか行列が解消しませんでした。
でも、お客さんはみなさんニコニコしながら待ってくれました。
大学生の2人も終わりの頃には完ぺきにマスターして、ピック使いや火加減もどうにいったもので、
履歴書に「特技、たこ焼き」と書いていいよとみんなから褒められていました。

朝はおにぎり2個、昼はパン、夜はコンビニに並んでいるような弁当。これが毎日続いているそうです。
いくらコンビニのパンや弁当が美味しいとはいえ、たまに食べるから美味しいのです。
今日はずらりと並べられた昼食のパンの写真を撮らせてもらいました。
私たちの焼きそばとたこ焼きの勝利でほとんどパンに手を伸ばしている人はいないようでした。

支援に来ている各地からの職員の人たちでさえ。
パンは賞味期限が数日あると思いますので、
今日誰も食べなくても、明日に回せるから無駄にはならないでしょう。
パンのテーブルには「残った食事はとっておかない」という張り紙がありました。

前回来たときはノロウイルスによる食中毒が発生した後でしたので、
炊き出しにはピリピリした雰囲 気がありました。
京都から来た栄養士さんが私たちの調理、配食の様子を厳重チェックをしていました。
今回もそれを覚悟で準備していきました。

今日は2回目で信用されているのか、すごく和やかな雰囲気でした。
被災者の方とも自由にお話もできました。

電気も来て、水道も出ていてインフラは回復したように見えますが、水道の水はまだ飲めません。
うがいもダメだそうです。歯磨きはペットボトル水。
きれいで豊富な水脈を誇った以前の熊本の姿に早く戻ってほしいです。

前回の炊き出しの時は、ボランティアチーフの吉村さんがピリピリされていて、
お話しする時間がありませんでした。
今日は、失礼な言い方ですが、別人かと思えるほどやさしい笑顔で話してくださいました。
「前回の頃は、3つの避難所を統括して動いていたので、余裕がありませんでした。
今はほかの避難所はたまに見に行って指示するだけで、
ここに専念できるようになりましたから、楽になりました。」 

この避難所は、吉村さんと軸丸さんのお二人が最初からリーダーシップを発揮されて、
ルールを守った生活をしましょうと呼びかけてこられたようです。
「こじんまりとした避難所だったからできたんですよ。
1000人を超えるようなところだったら、こうはいかなかったでしょう。
今でも、2階は余裕があるのに1階にぎちぎちで寝ているところがあります。
誰かが、2階が空いてますよと誘導すればうまくいくのにと思って、職員に怒るんですよ」

おっしゃるように、この避難所の共同で使うところには、
お互いが気持ちよく生活できるように、最低限の決まり事を書いた紙が貼ってあります。
ご自身も被災者で、お宅はこの小学校の近くだそうです。
前振の時はひどい揺れではあったけれども、家具や戸棚はずいぶん動いたが家は持ちこたえていた。
でも、余震が怖かったので外に出ていた。そのとき本震の揺れが来て家がつぶれた。
益城町で亡くなった方の大部分は本震の揺れで家の下敷きになった人たち。
あの時、自分たちも家の中にいたらそうなっていただろうと淡々と話されました。
尋常ではない揺れ、突然下からドンと突き上げるような揺れがやってきて、
そのあとグラグラグラと横揺れがやってきて、家はひとたまりもなかった。
突き上げ る揺れで柱が持ち上がり、柱の下に物が入り込んでいた。
自分の家の現状はお話になりませんでしたが、想像を絶する被害であったことは間違いないでしょう。

それ以上のことは、こちらから質問するのをはばかられました。
仮設住宅の入居が始まるというニュースがありましたがと尋ねると、
「この避難所から移られるのは、おそらく2世帯でしょう。
テント村が閉鎖になってこちらの空きに来られる方もいらっしゃるでしょうから、
当分はあまりかわらない人数だとおもいます。」 

この言葉に、被災者の方々の先の見えない生活がまだまだ続くのかと暗澹たる気持ちになりました。
後片付けが終わる3時ころ、朝から役場に罹災証明書を取りに行かれていた軸丸さんが
「よかった!間に合った。」帰ってこられた。

私の前回のレポートで、一方的に有名になっていた軸丸さんと、
メンバーの感激の初対面も実現しました。
被災に負けず笑顔でみなさんの支えを務めているお二人の笑顔に送られて、
中央小学校を後にしました。
次回は6月に牛丼を作りにやってきますと、勝手に約束をして・・・。

北熊本SAにて、仲良くなった『チームJ』の解散式?
みんな快い疲労感と充実感を胸に家路に向かいました。
「やったるJ」のみなさんは、まだ後片付けという大仕事が残っているのですが・・・。 

みなさんお疲れさまでした。
國友 浩

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