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2016年2月 9日 (火)

梶原義実さんの「国分寺成立の様相」論文

宮崎さんのアドバイスもあり,
通説のおさらいにと思って買った『考古学ジャーナル』2月号。
(たった30数ページなのに薄いのに,1700円もする!)
ところが,それに掲載されていた上記の論文がとても刺激的なので,
このサイトで紹介しようと思った次第である。
もちろん通説の立場であるから,九州王朝なんて言葉は出てこないが,
しかしそれだからこそ,「雑念」が入らず読めるのではないかと。

(1)小田富士雄氏によると,西海道の国分寺には,
国分寺の造営にあたって大宰府の影響がきわめて大きかったと論じた。

(2)山崎信二氏は,平城京と国分寺との瓦の同はん関係は,
いまだに確認されていないと指摘した。

(3)1970年台以降,とくに80年代から90年代にかけて,
武蔵・上総・下総・上野・下野など,関東地方の国分二寺を中心に,
伽藍の中枢域(伽藍地)ばかりでなく,周辺域(寺院地)も含めた
広域的な調査がおこなわれるようになった。
須田勉氏は,それらの調査を受け,関東地方の多くの国分寺の造営計画について,
方位の異なる2時期の遺構が検出されることに注目した。(上総国分寺の伽藍変遷図)
さらに造営においては金堂より塔が先行する例が多いこと,
本格的な礎石建の伽藍の下層に,掘立柱建物の遺構が先行
してみられる例が存在することなどから,国分寺の造営計画に変更があったことを指摘した。

(4) 八賀晋氏は,出土瓦について,白鳳期の瓦が一定以上出土する国分寺が多いこと,
美濃国分寺などの国分寺の伽藍の下層に,掘立柱建物が確認される事例があることなど
を示しつつ,
これら古相を示す伽藍配置については,白鳳期以前の氏寺(前身寺院)を改作・拡充整備したもの
との見解を著わした。

これまで多元的「国分寺」研究サークルが考えてきたことに,
まさにぴったり重なる発掘結果というべきではないだろうか。
しかし,この謎は大和一元史観では解けない。
7世紀末までは九州王朝が,8世紀以降は大和政権が,
我が国を代表する主権国家だったとする多元史観をもってして,
初めて解き得る謎(=歴史的真実)なのではないだろうか。

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