« パソコン回復 | トップページ | 「くわ」1月号 »

2016年2月 9日 (火)

今井久さんの「伊予国分寺と白鳳瓦」論文

今井久さんの「伊予国分寺と白鳳瓦」という論文が掲載された
「古田史学会報」2016年2月号(Nо.132)が昨日送られてきた。
副題に~最初に国分寺制度を作ったのは誰か
(伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)~とある。

力点は違うものの,昨年の夏から研究してきたこととほぼ同じ方向の内容が,
6ページに渡って見事に書かれていたのだった。
そして,論文の最後に,日付が記されていて驚いた。
「二〇一二年五月五日」
えーっ,3年半も前にこの結論に達していたのかあ。(。>0<。)

今朝「考古学ジャーナル」誌に「白鳳瓦」記事を見つけて大喜びし,
夕方それを「追伸」という形で「ブログ」に付け加え,
充実の1日を終えて帰宅した私にとって,
大きなショックを浴びせ掛けるものだった。
う~ん,古田史学の会,恐るべしである。

でも,もし昨今の多元的「国分寺」研究の動きが,
今井さんの今回の投稿につながっていたとしたら
喜ぶべきことではあるのだが・・・。

なお,上記の論文によると,741年の「国分寺建立の詔」の中の
「金光明寺」「法華寺」でスタートした寺の名称は,
8年後の749年から「国分金光明寺」と変わり始め(頭に「国分」を被せ),
756年に「国分の丈六仏像」,758に「国分の僧寺・尼寺」,
760年6月には「天下の国分寺」と初めて国分寺を固有名詞で表記。
以降12年間いろいろな名前を登場させ(混在表記させ),
772年11月以後(光仁)は,「金光明寺」の名前を「続日本紀」から消し去り,
寺の名前がすべて「国分寺」と表記されているそうである。
これが「歴史を作り変える」ということなのかと思った。

P2091320_3


« パソコン回復 | トップページ | 「くわ」1月号 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« パソコン回復 | トップページ | 「くわ」1月号 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ