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2016年2月13日 (土)

「洛中洛外日記」より 2/11

「洛中洛外日記」に転載していただきました。
それをまた再転載させていただきます。

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古賀達也の洛中洛外日記
第1136話 2016/02/09

一元史観からの多層的「国分寺」の考察

肥沼孝治さん宮崎宇史さんと立ち上げた多元的「国分寺」研究サークルですが、
肥沼さんが開設された同サークルのホームページは順調にアクセス件数が増えているとのこと。

そのホームページで肥沼さんが梶原義実さんの「国分寺成立の様相」
(『考古学ジャーナル』2月号所収)という論文を紹介されました。
同論文の存在は宮崎さんから教えていただいていたのですが、わたしはまだ入手できずにいます。

肥沼さんの紹介によれば、大和朝廷一元史観に立った国分寺研究ですが、
一元史観では説明しきれない様々な考古学的知見が記されているとのこと。
わたしも同論文を読んだ上で、改めて論評したいと思います。
取り急ぎ、肥沼さんによる紹介文を転載させていただきます。
多元的「国分寺」研究はいよいよ面白くなってきました。

〔追記〕本稿執筆後に図書館で梶原義実さんの「国分寺成立の様相」を閲覧しました
(最新号のためコピー不可)。各地の国分寺遺跡には白鳳時代の瓦が出土していたり、
その下層に堀立柱の遺構があるものがあり、
古い寺院があった場所に新たに国分寺が建てられたとする説が紹介されています。
しかし、梶原さんの結論としてはそれらは7世紀に遡るようなものではないとする見解でした。
従って、わたしたちの多元的「国分寺」説とは真っ向から対立する立場のようです。

【ホームページ・多元的「国分寺」研究サークルより転載】
梶原義実さんの「国分寺成立の様相」論文

宮崎さんのアドバイスもあり,
通説のおさらいにと思って買った『考古学ジャーナル』2月号。
(たった30数ページなのに薄いのに,1700円もする!)
ところが,それに掲載されていた上記の論文がとても刺激的なので,
このサイトで紹介しようと思った次第である。
もちろん通説の立場であるから,九州王朝なんて言葉は出てこないが,
しかしそれだからこそ,「雑念」が入らず読めるのではないかと。

(1)小田富士雄氏によると,西海道の国分寺には,
国分寺の造営にあたって大宰府の影響がきわめて大きかったと論じた。

(2)山崎信二氏は,平城京と国分寺との瓦の同はん関係は,
いまだに確認されていないと指摘した。

(3)1970年台以降,とくに80年代から90年代にかけて,
武蔵・上総・下総・上野・下野など,関東地方の国分二寺を中心に,
伽藍の中枢域(伽藍地)ばかりでなく,周辺域(寺院地)も含めた
広域的な調査がおこなわれるようになった。
須田勉氏は,それらの調査を受け,関東地方の多くの国分寺の造営計画について,
方位の異なる2時期の遺構が検出されることに注目した。(上総国分寺の伽藍変遷図)
さらに造営においては金堂より塔が先行する例が多いこと,
本格的な礎石建の伽藍の下層に,掘立柱建物の遺構が先行
してみられる例が存在することなどから,国分寺の造営計画に変更があったことを指摘した。

これまで多元的「国分寺」研究サークルが考えてきたことに,
まさにぴったり重なる発掘結果というべきではないだろうか。
しかし,この謎は大和一元史観では解けない。
7世紀末までは九州王朝が,8世紀以降は大和政権が,
我が国を代表する主権国家だったとする多元史観をもってして,
初めて解き得る謎(=歴史的真実)なのではないだろうか。

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上記は,朝の忙しい時に入力したもので,電車の中で「これも入れたかった」というものを見つけた。
半日立ったが,補足しておきたい。

追伸

(4) 八賀晋氏は,出土瓦について,白鳳期の瓦が一定以上出土する国分寺が多いこと,
美濃国分寺などの国分寺の伽藍の下層に,掘立柱建物が確認される事例があることなどを示しつつ,
これら古相を示す伽藍配置については,
白鳳期以前の氏寺(前身寺院)を改作・拡充整備したものとの見解を著わした。
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古賀達也の洛中洛外日記
第1137話 2016/02/11

『古田史学会報』132号のご紹介

『古田史学会報』132号が発行されましたので、ご紹介します。
西条市の今井さんの力作が掲載されています。
「古田史学の会」会員の肥沼孝治さんが今井稿を
ホームページ“多元的「国分寺」研究サークル”で要領よく紹介されていますので、
転載させていただきます。

なお、掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』132号の内容

○『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝 川西市 正木裕
○伊予国分寺と白鳳瓦 -最初に国分寺制度を作ったのは誰か
 (伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)- 西条市 今井 久
○「皇極」と「斉明」についての一考察 -古田先生を偲びつつ-  松山市 合田洋一
○追憶・古田武彦先生(2)
 池田大作氏の書評「批判と研究」 古田史学の会・代表 古賀達也
○古田武彦先生追悼会の報告 八尾市 服部静尚
○二〇一五年の回顧と年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 古賀達也
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

【転載】「今井久さんの論文から学ぶ」 肥沼孝治

今井久さんの論文から学ぶために,「見出し」の書き出しをしてみる。
つまり「構成」から学ぼうというワケである。
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 記

一.「国分寺建立」は聖武天皇が始めた,その実態の検討
 イ.「国分寺」創建の詔の寺の「名称」
 ロ.聖武天皇の詔の前にすでに国分寺が存在している事を示す記録があること
 ハ.『続日本紀』は詔勅の「金光明寺・法華寺」の寺名を抹消した

二.聖武天皇の詔の前に全国に国が統制する寺院が存在
 イ.「詔」以前の文献にあらわれる国分寺と推定される寺院の存在
 ロ.聖武天皇の詔の百年前.七世紀に寺院数が激増
 ハ.九州地方には左記の初期寺院が,小田富士雄氏に仍って列挙されている

三.国分寺遺跡出土の遺構・遺物が示す疑問点
 1.国分寺遺跡出土の伽藍配置が大きく二つにわかれている
(塔が回廊内か回廊外か。前者が古式)
 2.全国の国分寺遺跡から出土する国分寺の伽藍配置が分裂
(古式からは白鳳瓦が出土)

四.伊予の国分寺の考察(古式の伽藍配置で白鳳瓦が出土)

五.国分寺制度を最初に創ったのは倭国九州王朝である

六.「国分寺制度創設」を開始した倭国王は誰か

まとめ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 なるほど,構成がすっきりしていてわかりやすい。
統計的に分類し,しっかりとした結論を導き出している。
天国の(もしかしたらご希望だった地獄の)古田先生にも
喜んでいただけるのではないかと思った。
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