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2016年1月24日 (日)

12弁の菊花紋は,九州王朝の家紋か?

昨日は,古賀さん・宮崎さんと古代史のオフ会を行い,
とても楽しかった。
古賀さんも宮崎さんも,いろいろな新知見提供してくれた。
そのお二人とは本日も,古田武彦氏の追悼会でお会いするのだが,
その前に昨日の話で気になっていたことを調べてみたので,
忘れないうちに書き留めておこうと思う。

私の聞き間違いでなかったら,古賀さんは
江田船山古墳出土の銀象嵌太刀には,
鳥(鵜と思われる)と魚(鮎と思われる),そして馬(ペガサス)のほかに
「12弁の菊花紋」がデザインされているということだったと思う。
(前の3つは写真がインターネットでみられるが,菊花紋は出ていなかった。
言葉としては載っていたが)

私はすでに,『富本銭と謎の銀銭』で紹介されている無紋銀銭のなかに,
12弁の菊花紋が刻印されているものがあり,
またユダヤ教の12部族を表すのにも使われていたことを調べたが,
遠くの西アジアはいざ知らず,無文銀銭と江田船山古墳出土の銀象嵌太刀とくれば,
両者とも「九州王朝の家紋」ということでまとめられるのではないかと思った。
ちなみに,皇室が現在使っている家紋は,16弁の菊花紋である。

さらに,もう少し証拠固めをしようと,「12弁の菊花紋」でインターネット検索をしたところ,
九州王朝と縁の深い柿本人麻呂にちなむ人丸社という石祠の菊花紋が,
12弁菊花紋のものと16弁菊花紋のものとが
山口県で混在していることを調べたサイトを見つけた。
「防長人丸社新考」というものだ。
その関連部分を貼りつけてみよう。

「石祠の菊紋」
http://www.geocities.jp/astpa693/kikumon.html

山口県は昔は九州王朝の勢力範囲で,
その王朝に仕えた柿本人麻呂に縁の深い地域(九州王朝の都があった)なので,
16弁の菊花紋と12弁の菊花紋が「混在している」という様相なのかと思った。
世の中驚くべきことがあるものだ。

「この紋どころが目に入らぬか!」というのは,
「水戸黄門」の部下のお決まりのフレーズだが,
彼らの「三つ葉葵の紋」は徳川家の家紋である。
悪代官がその権威にひれ伏す様の爽快さが
あの番組のキモなのだ。

それと同じことが,今回の○弁の菊花紋にも言えるのではないか,
石祠の菊紋の場合は,庶民が自分の権利を主張するために
権力者の家紋を使うわけで,「葵の御紋」とは形が違うけれど。

8弁・・・古い神様,もしかしたら高祖社もそうか
12弁・・・私の考えるところでは,九州王朝を表す
16弁・・・ご存知天皇家の家紋なので,大和政権を表す

論証まではいかないが,けっこういいアイデアだと思うので,
忘れないうちに書いておいた次第。

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コメント

肥さん

『日本古代貨幣の成立』P.79の菊花紋と肥さんが言われたもの、みました。現在現物は行方知れずのようですね。
古賀達也さんは十三弁を九州王朝の紋と見ているようですね。
皇室のご紋は十六弁八重表菊花紋です。時代が降ると弁数が増えて行ってるという仮説が成り立つのではないでしょうか。俺のほうが多いと威張る傾向が人間にありそうなので。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

私も「少ない→多い」となっていったと思いますので,
12弁が本家で,13弁より多いのが分家と考えました。
そうすると,16弁はかなりの分家になってしまうのですが・・・。
ただし,今の皇室は16弁なのですが,他の宮家は14弁だと聞いたことがあって,
必ずしも「少ない→多い」とは言えないのかなあと思っています。

肥さん

Wikipediaからの引用です。順不同で転載しています。

「菊紋のうち、八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊は、日本の天皇および皇室を表す紋章である。俗に菊の御紋とも呼ばれる。親王などの皇族はこの紋の使用が1869年(明治2年)の太政官布告をもって制限され、1926年(大正15年)の皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)13条発布を経て「十四裏菊」や「十六裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や「十六八重表菊」を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)を各宮家の紋としている。」

各宮家の紋章も比較的近年に定められたようです。また、宮家は分家ですから本家以下の枚数に定められている(16弁も認められた宮家もある)ようなので、先の仮説「少ない→多い」が否定されるものではないようです。歴史的にはというか古代史的には仮説として否定はされないのではないでしょうかね。また、南朝・北朝との関連を指摘する説も存在するようです。その説を採用しても多い方が偉いと考える傾向(ひとの習性)がありそうですね。

「鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が皇室の紋として定着した(「十六弁菊は南朝の紋で、三十二弁菊(十六弁八重菊)は北朝(および現・皇室)の紋である」との説明も見かけるが根拠不明である)。
江戸時代には幕府により葵紋とは対照的に使用は自由とされ、一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まった。」

「「十六八重表菊」が公式に皇室の紋とされたのは、1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第802号による。親王家の菊花紋として十六葉の使用を禁止し、十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることとした。また、1871年(明治4年)6月17日の太政官布告第285号で、皇族以外の菊花紋の使用が禁止され、同第286号で、皇族家紋の雛形として十四一重裏菊が定められた。その後、1926年(大正15年)に制定された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)第12条[4]、第13条[5] によって正式に定められている。
1867年(慶応3年)3月28日の太政官布告第195号で、提灯・陶器・貢物などに菊紋を描くことを禁止し、1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第803号で、社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺[6] を除き一切の使用が禁止された。その後、徐々に社殿の装飾や幕・提灯に菊紋の使用を許され、1879年(明治12年)5月22日の太政官達第23号で、一般の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用することが許されている。」

山田さんへ
コメントありがとうございます。

なるほどウィキペディアも役に立ちますね。
ぜひこれらを,多元的古代の研究を通して,
解明していきたいものです。

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