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2015年11月 6日 (金)

昭和四十四年十一月十二日読売新聞

「古賀達也の洛中洛外日記」(第1084話 2015/10/29)の中に,
「邪馬壹国」説の登場の当時の雰囲気を伝える新聞記事が紹介されていた。
少々遅くなったが,紹介しよう。
茂山さん,正木さん,古賀さん,ありがとうございました!

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「邪馬壹国」説、昭和44年「読売新聞」が紹介

 「洛中洛外日記」1078話で、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評
「批判と研究」(『週間読売』昭和47年1月)が池田大作氏により発表されたことを紹介しました。
『「邪馬台国」はなかった』の元となった最初の論文、
すなわち古田先生の「邪馬壹国」説が最初に発表されたのは
東京大学の『史学雑誌』で、昭和44年、古田先生が43歳のときです。
それは「邪馬壹国」という論文で、その年の日本古代史分野では最も優れた論文と高く評価されました。

 その「邪馬壹国」説を最初に紹介した読売新聞の記事を
茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけて下さり、
その記事を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が
活字データにしていただきましたので、ご紹介します。

 今、読んでみてもかなり正確な内容の記事です。当時の新聞記者の優秀さがうかがわれます。
現在のように記者クラブなどで政府や官邸から流される発表をそのまま記事にする記者とは大違いです。
それと同時に、この記事はある程度の学力(北畠親房や新井白石の業績を知っている)がないと
深く理解できません。当時の新聞読者(国民)の学問レベルも新聞記者と同様に高かったように思われます。

 正木さんからのメールには次のような的確な感想が付されており、こちらもご紹介します。

《正木さんからのメール》
 茂山さんから昭和44年の古田先生の史学雑誌への発表をとりあげた読売新聞の記事を頂きました。
記事を添付しましたが、見にくいので記事起ししました。 
東大榎、京大上田、松本清張という「巨頭」がこぞって大きく評価しており、
いかに大きな衝撃だったかがわかります。

 今日の「古田無視」の状況がどのような経過でもたらされたのか、
その理由・背景に何があったのか、学問的にも大きな研究課題になろうかと思います。
 正木拝

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《昭和四十四年十一月十二日読売新聞》

(大見出し)邪馬臺ヤマタイ国ではなく邪馬壹ヤマイチ国
 後漢書こそ三国志を誤記

(中見出し)古代史の根源に波紋
(*魏志倭人伝と後漢書の写真、古田先生の写真を掲載)

(リード)三世紀の日本にあったのは、邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国だった
ーヤマタイの発音からヤマトを想定したわが国の古代史の序章を白紙に戻させるような研究論文が、
この秋、突然、学術専門誌に発表され、歴史学会に大きな波紋を投じている。

 京都の市立洛陽工業高校古田武彦教諭(四三)が五年間を費やした労作。
これまで三国志の魏志倭人伝(当時の日本の情勢が書かれている)に出てくる邪馬壹国の「壹」は
「臺」の書き誤りというのが定説になっていたが、
古田教諭は「壹が正しく、臺の誤記ではない」という結論に達したという。
ヤマタイ国について独自の推理を展開してきた松本清張氏は「大きな盲点をつかれた」と
”古田研究”を高く評価しており、
学会でも「もう一度出発点に戻らなければ」と古代史の”再点検”をうながす声が起こっている。

(小見出し)近畿、九州論争根拠を失う

(記事)これまでヤマタイ国の根拠とされてきたのは、
五世紀の中国の史書、後漢書に出てくる「邪馬臺国」で、
それ以後の史書も後漢書にならって同じ表記をしており、
三世紀に書かれた三国志の「邪馬壹国」の方が書き誤りとされてきた。

 古田教諭の研究は、史学会代表者榎一雄東大教授の推薦で、
同会の機関紙「史学雑誌」最近号に「研究ノート」として発表された。

 そのポイントは、女王ヒミコが統治する国についての最古の文献である三国志には「邪馬壹国」とあり、
北畠親房、新井白石から今日にいたるまで「これは臺の誤記」という説がうのみにされてきたが、
科学的に検討すると「壹」と「臺」の書き間違いは考えられないーというもの。

 三国志の「邪馬壹国」と、後漢書の「邪馬臺国」とを比較、検討した結果、
文献上、字形上、発音上、次のような点が明らかであるとしている。

 ?三国志の文中には合計八十六個の「壹」の字が使われている。
しかし、一つとして混同は認められない。
一方、後漢書は、三国志の文面をもとにしながら「女子の多い国」などと
才気走った修飾があちこちに見られ、誤記の可能性はむしろ後漢書の方こそ強い。
?三国志が書かれた三世紀当時の「臺」の字には「天子の宮殿」という意味がある。
また邪、馬、奴などはいずれも蔑称(べっしょう)で
邪馬という蔑称の下に「臺」の字を使うはずがない?
後漢書の「邪馬臺国」には、唐時代の学者李賢(七世紀)の注として
「案ずるに今の名、邪馬惟(ヤマイ)の音の訛(なまり)なり」とあり、
唐代になっても邪馬惟だったと思われる?
仮に一歩譲って「邪馬臺国」が存在したとしても、
発音は濁った「ダイ」であって「台(タイ)」にはならず、
これを「ヤマト」と類推するには飛躍がありすぎる。

 つまりヤマタイ国は、それこそ”まぼろし”だったというわけで、
八世紀の古事記、日本書紀に初めて現れる大和朝廷をヤマタイ国と結びつける従来の古代史は、
それ以前の糸をぷっつりと断ち切られることになるし、
発音からきた福岡県山門(やまと)郡説も、根拠を失ってしまう。

 これまでの学会は、ヤマタイ国近畿説、北九州説に分かれながらも、
ヤマタイ国の存在そのものは疑わなかったが、その根源にいきなりメスを当てられたかっこう。
いまのところ「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、
大きな波紋を投ずるものと思って推薦した」(東大榎教授)
「三国志自体の信ぴょう性という問題は残る。
しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京都大上田正昭助教授)など、
専門学者の反応はさまざまだが、それぞれ大きなショックを受けたことは間違いなさそうだ。

(小見出し)説得力十分だ

(記事)松本清張氏の話「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。
十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、
虚心に反省すべきだと思う。
ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、
非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

どうも。先生の研究はきちんと評価されてたんですね。今の新聞・学会の態度とは違い無視や沈黙なんかやってないようで。私が彼の研究を知ったのはほんの4、5年前ですが、今の評価しない実態が理解不能です。結構理にかなってると思うんですよ。あまり面白くないと思っていた古代史を勉強し直すきっかけにもなりましたね。

閑人さんへ
コメントありがとうございます。

そうなんですよ!私もこの新聞記事の内容を詳しく読んでみて,
現状とのあまりの差に唖然とし,再紹介する意味があると考えた次第です。
せめて「夢ブログ」の読者の方々には,ぜひ知っていただきたいです。

問題はなぜ当初はこの新聞記事にあるように学会からもマスメディアからも一定程度評価されていた古田さんの説が、その後なぜ無視されたかです。詳しく経過を検証する価値はありますね。
 僕の考えは、古田さんがこの論文のあとで出した『「邪馬台国」はなかった』で、陳寿の記述を信用する限り、女王国は博多湾岸で、行程表の最後の国である不彌国がその入り口だとの認識に至ったことが原因だと思っています。最初の論文では魏の使いの到達した先については論じていませんでした。これは、郡から女王国までの途中の国々への里程をすべて足しても帯方郡から女王国までの総里程に達せず、1200里足りないという問題が古田さんが解決できなかったから。でもこれを、対海国と一支国のそれぞれの島内を巡行したと理解すればこの里程がちょうど1200里になることに古田さんが気付いたことで解決した。だから最後の国不弥国と次の女王国の間の里程が記されていないのだから、この国は女王国の入り口にあると理解したので、最終到達地が博多湾岸となった。
 ここまで言い切ると、従来の大和説も九州山門説もどちらも完全に否定され、しかもそれが歴史学の方法論として完全に間違っていると断言したことになるので、従来説を信奉する学会とメディアが全体でしかとしたのだとおもいますよ。
 古田さんの結論を聞いてみて、彼の方法論が従来説の論者を歴史学者じゃないと断罪するものであることにかれらはやっと気付いたのだと思います。最初は古田さんを支持した榎さんも上田さんも含めて。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

なるほど,古田さんの論理のあり方自身の持つするどさゆえ,
最初から「従来説の全員を敵に回す運命」にあったというわけですね。
それを聞くと,「論理のおもむくままにいこうではないか。たとえそれがどこへ至ろうとも」
と高校時代の恩師(岡田先生でしたっけ?)から教わったというソクラテスの言葉は,
ある意味古田さんが歩む人生の「予言」でもあったということですね。
そして,古田さんはその道を選び,志ある市民(志あるょ少数の歴史研究者)は彼を支持した。
う~ん,人間の人生の重みというものを感じますねえ。
私たち自身も「どう生きるか」が問われているようです。

 従来説を支持する学会とメディアが古田さんをいつシカトしたのか。今古田さんとほかの人との論争史を検討しているところ。古田さんの自伝の著書論文目録と論争一覧を見比べてみると、昭和57年1982年7月に「史学雑誌」に掲載された「多元的古代の成立ー邪馬壱国の方法とその展開」以後はまったく論争がありませんね。広開土王碑文をめぐる論争以外では。たぶんこの論文で論争は決着付いてしまったのだと思います。あとはシカト。『多元的古代の成立ー上 邪馬壱国の方法」にこの論文とそれ以前の論文がまとまっています。今読み返してみています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

昭和57年1982年が「境」ですか。
この年ちょうど私は,教員生活を始めたのでした。

「多元的古代の成立ー邪馬壱国の方法とその展開」は,
ある意味古田さんの「勝利宣言」なのかもしれませんね。

ぜひ分析を進めて,同人誌への投稿論文につなげて下さい。
楽しみにしています。

 「多元的古代の成立ー邪馬壱国の方法とその展開」は、「勝利宣言」などではありません。論文の冒頭にこうかいてあります。「かつて本誌所載の論文「邪馬壱国」においてわたしの述べようとしたところ、それは決して”奇矯な一結論”ではない、古代史学に対する一個の”方法”の提起であった」と。
 こう述べた後、先の第一論文のあと『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』「盗まれた神話』の三部作や他の論文で古田さんが提示した問題を、とくに従来説の方法の問題に絞って論述し、これらの三書で提起したことへの数少ない学者からの批判への反批判を展開したのがこの論文です。つまりすでにこのとき古代史学会の「古田外し」は始まっていた。これに対して再度、問題提起をして論争を呼び掛けたのがこの論文だったのです。
 その「古田外し」について、古田さんは自伝『真実に悔いないし』のなかで証言しています。第二章の『学界の無視との戦い」の中で、シンポジウムに主催者から二度招聘されながら、学界の横やりで反故にされたことを。昭和52年1977年1月と昭和53年1978年1月のこと。「古田を呼ぶなら全員でない」と言われたとのこと。この年次は先の三部作が出された直後であることが象徴的です。
 古田さんの提起は、従来の古代史学会の研究方法が根本的に間違っているというものだったので、これを認めると彼らの学者としての生命が絶たれる。すでにこの三書の提起で古田説は確固とした地盤に立っていることが明白で、誰もこれに反論できない。だから学会の多数派は陰で古田の説は「奇矯な結論」だと揶揄し、一切彼との論争に出ない態度を決めていたのだと思います。その学界の縛りに反して数人の学者が論争に応じてくれた。これが三木太郎・佐伯有清・榎一雄・白崎昭一郎など。しかしこれ以外の大多数はだんまりを決め込んだ。これに対して古田さんが放った第二の矢が先の論文だった。でも学界はこれ以後もだんまりで古田を無視。そのあと古田さんが昭和薬科大学教授になって1991年平成三年に信州で「邪馬台国」徹底論争を開いても、古代史学会多数派はこれを黙殺したというのが流れだと思いますよ。
 そして最後の決定的な「古田外し」が、古田さんが「東日流外三郡誌」を貴重な史料だと言い始めた時。第六章の東北と南米へのまなざしの中の、「偽作説」は九州王朝のせいで。これは和田喜八郎氏の発言で、これを受けて古田さんは、「少なくとも学界が『九州王朝はずし』の口実に、この隠された偽作説を利用したことは間違いない」と。
 「古田外し」の大きな流れは、以上で間違いないと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

やはり年次を追って,グラフ的に調べていかないといけませんね。(冷汗)

古田本ファンとしては,『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』で
論理的に問題提起しているのに,なぜ学会はそれに応じないのだと思っていましたが,
「その問題提起が論理的であればあるほど,それには応じられない」という構図でしょうか。
古田説を一部認めると,結局全部認めざるを得ない,
そういう中で「古田はずし」という手が思いつかれた。
(シンポジウムへの参加拒否,著書に古田さんのことを書かない等)
そして,次のチャンスを伺っていたところ,東日流外三郡誌という「偽書」に
古田さんが取り組むという「一大チャンス」がやってきた!なるほど,なるほど。
これはいよいよ,川瀬さんに論文として発表していただかなければなりませんね。
「古田史学会報」でもいいですし,例の同人誌でも結構ですので・・・。

正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「今日の「古田無視」の状況が
どのような経過でもたらされたのか、その理由・背景に何があったのか、
学問的にも大きな研究課題になろうかと思います」と
古賀達也さんへのメールの中で書かれています。
川瀬さんの分析は,まさしくそれにぴったりだと思います。

論文にする価値があるのかな? 文芸同人誌に書く「古田さんとの出会い」を中心にした追悼文には書きますが。
 学界から無視されている理由。古田さんはちゃんと理解していますよ。自伝のp277以後の『無視の理由』。『歴史家の面目』。『シカトと洗脳』。『宗教や国家の賞味期限』。古田史学の会の事務局長さんの発言を古賀さんのブログで読んだ時、古田外しの経過はともかく(これは史料を精査すればでてくる。ただし文字資料は残されないから、事実経過と、うまくすれば証言があるかもと考えた。古田さんがその貴重な証言を自伝に残しておられたとは)、古田さんの同志の人々でも「古田外し」の理由・背景を理解していない人がいるとはと驚きました。
 僕がいまその経過を確認しているのは、どうやら「古田外し」が始まって広がった時期が、僕が三部作を読んで「これで日本古代史のなぞの骨格は解けたな、学界は完全敗北」と考えて、以後古代史研究ではなく、教育運動と政治運動という現実を変える取り組みに没頭していた時期ではないかという直感を確認するため。僕が歴史研究者になる夢をあきらめ、教員になったのは、学界が「先生の説にしたがうものだけを仲間内に入れる」という現状があることに大学時代に気がついたからでした。「戦っても無駄」と考えて。
 古田さんはその学界の壁と敢然と戦い続けたのです。歴史学の正当な方法論を武器にして、この方法論を無視して自らのイデオロギーに合う物語だけを語り続ける古代史家の説を崩し、史料を正当な方法であつかって古代史の真実を明らかにするために。
 僕が『徹底検証「新しい歴史教科書」』を書くとき意識していることは、この教科書を書いた民族主義者の主張も嘘だらけだけど、学界のほうも嘘だらけ。それも日本古代史だけではなく全体にということです。そしてその嘘をあぶりだす方法は、古田さんが駆使した方法と同じ。たぶん古田さんは僕の本を読まれて、この視点を持って僕が書いていることを理解してくれたのだと思います。それで僕が母の介護で動けないことを知って、何度も電話で新しい発見を教えてくれたのだと。「同志」として扱ってくださったのだと思います。なのにこの全10冊の本をまだ半分にも満たないところで止まっている。
 「古田史学の会」など古田さんを支持する団体のメンバーは、本当に古田さんの同志足りえたのでしょうか。ファンじゃしょうがない。古田さんが掲げた歴史学としての正当な方法論を武器に、古田さんの同志として、日本古代史の真実を、嘘を重ねる学界主流派から取り戻すために。古田さん亡き後、その覚悟が問われていると僕は考えています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「論文」という形式をとるのかどうかわかりませんが
(「古田史学会報」への投稿でもいいと思いますが),
このブログのコメント欄で書かれていることを
正式に公表していただければありがたいです。
古田さんが川瀬さんと電話で連絡をとっていたということも,
貴重なエピソードであると思いますし,
古田史学の会のみなさんは,その事実を知らなかったと思いますので・・・。

PS 同人誌に掲載される川瀬さんの「追悼文」を楽しみにしております。

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