« 速報!「初戦の相手は,秩父一中」 | トップページ | 次のヤマ »

2015年10月21日 (水)

「古田先生の思い出」その(5)

和田家文書(「東日流=つがる外三郡誌」等)をめぐる議論で,
市民の古代研究会は解体され,あらたに古田氏を支持する団体
「多元的古代研究会・関東」と「古田史学の会」が作られ,
「東京古田会」とともに3つの連合となった。。

私はおもに,「多元的古代研究会・関東」で活動した。
今は「古田史学の会」の古賀さんと親しくさせていただいているが,
「東京古田会」も含め,3つの広報紙は,今でも継続して読んでいる。(どれも隔月刊)
古田先生も内容を書き分けて,この3紙に論文を掲載。
それがある程度まとまると本として出版されるという仕組みだ。

さて,和田家文書の話だが,これは青森県の話でもある。
この県は「津軽藩の勢力」と「南部藩の勢力」が対立しており,
そのあおりを受けて「和田家文書が偽書扱いされる」という構図を取っている。
その当時の所有者であった和田喜八郎氏と古田先生が懇意にしたところ,
反対勢力の側から「偽書」を「偽書扱い」しない
不埒(ふらち)な研究者として攻撃されたのである。
本来の意味で言えば,日本書紀こそ歴史を改ざんしている
「偽書中の偽書」(偽書のチャンピオン)なのだと考えるが,
通説がそれに従い,教科書もそれを下敷きに書かれるのだから,
なんとも難しい問題なのである。

私は1995年に,古田さんや多元的古代・関東の方たちと
「青森遺跡巡りの旅」に行っている。(7/28~30)
石塔山神社も訪問し,和田喜八郎氏とも懇親会をした。
しかし,あのような「偽書を大量生産する人」には見えなかった。
むしろ,偽書扱いされて困惑し,孫へのいじめにも心をいため,
誰を信じていいか困っているおじいさんという印象だった。
(その人も古田さんだけには,心を許しているようだった)

なかなか出現しない「寛政原本」(著者の秋田孝季=
たかすえの書いたもの)を首を長くして待ちながらも,
1995年には『新古代学』という和田家文書解明のための雑誌も出され,
研究は着実に続いていった。(この機関誌は,2005年までに8号出された)

その後,2006年からは古田先生自身の編集による『なかった』の創刊(6号まで発行)となる。
その中でついに2008年,寛政原本の出現をみた。
ちょうど古代史セミナーの開かれる時期で,たくさんの参加者の人たちとともに感激を味わった。

これらの和田家文書は,現在,多元的古代・関東などのサイトで閲覧することができる。
秋田孝季,和田家文書を写本した和田家の人々,和田喜八郎氏などの筆跡の違いが,
これを見ればよくわかると思う。

ТAGEN

http://www.tagenteki-kodai.jp/

次回は,大学セミナーで11年間開かれてきた「古代史セミナー」についてです。
私も,第3回から9回連続で参加しました。

« 速報!「初戦の相手は,秩父一中」 | トップページ | 次のヤマ »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

「和田家文書」はその成立の当初から部外秘の文書でしたね。著者の秋田孝季は、弘前藩を作った津軽家が追い出した秋田家の末の人物。津軽家にすれば敵。その上に、この文書成立時には、悠久の昔から津軽を津軽家(もともとは南部家の分家の一武将にすぎなかった。だから津軽家が徳川家と縁戚となり南部家をしのぐ家格を手に入れたことで両者は深刻な対立に)が支配してきたかのようなうその歴史がまかり通ってきた。そのさなかに、これは嘘だと指摘し、津軽の歴史を古代からさかのぼって詳述した書物が「和田家文書」だ。だから著者二人は、原本を二か所に分けたうえで、公表して差し支えない時代になるまで部外秘とした。きっと公表が早すぎたのでしょうね。津軽家の統治が終わったといってもまだたかだか100年と少しですからね。これを偽書だとして古田さんを非難した市民の古代の一部の人々は、前のコメントにも書いたように古田さんの方法論を支持理解していたひとでなく、ありていにいえば、古田説が一見「反天皇家」の様相を呈しているので、ここに引きつけられた人が多かったように思います。「和田家文書」は日本古代史の貴重な史料であるだけではなく、日本近世史にも多くの新発見をもたらす貴重な史料だと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さんは「公表が早すぎた」と書かれましたが,
古田さんのような人は,今後も現れるかどうかわからないことを思うと,
20世紀末のあの時期に論争が起きたのは,
いたしかたないことのように思いますし,また古田説の試金石ともなりました。
たとえそれが,困難な道であったとしても,
古田さんとしては,避けて通るというわけにはいかなかったのだと思います。
私としても,失ったもの以上に,得たものがあったと考えます。

 もちろん古田さんとしては避けて通るわけにはいかなかったと思います。
 私が和田家文書の公表は早すぎたと書いたのは、日本古代史学会ではいまだに皇国史観が幅を利かせている(様相は変えていますが)状況と、青森県の状況を指しています。和田家文書は、この両者から総すかんを食いました。ただ幸運なことに古田武彦という史料批判を徹底的に行ったうえで史料に即して歴史を復元するというまっとうな歴史学の研究方法を実践する古代史家に出会えたことで、わずかにその史料価値が認められたということです。
 古田さんが活動されている時期に和田家文書が公表されているという偶然がすばらしいです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私は,「今までの古代史の研究成果だけでも十分素晴らしい」と思っていましたから,
「何も「偽書」とされている危ないものに,手を出さなくても・・・」という思いもありました。
当時を振り返ると複雑な心理状態だったような気がします。
しかし,「古田さんがやるというならついて行こう」という思いが上回りました。
それには,旧制広島高校の,岡田甫先生から学問と生涯の運命を決した言葉,
“ 論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも ”
が支えになったと思います。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 速報!「初戦の相手は,秩父一中」 | トップページ | 次のヤマ »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ