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2015年9月14日 (月)

古賀達也さんの多元的「国分寺」論 その後(8)

ついに私の望んでいた事態(全国の「国分寺」調査の話)になってきました!
「国分寺建立」は全国にまたがっての詔(みことのり=天皇の命令)ですから,
各国の国分寺の悉皆(しっかい)調査が可能なわけです。
66国と言われる国分寺を,すべて編年調査することで,

(1) 国分寺が建てられたのが8世紀半ばの聖武天皇の時だけだったのか
(2) 7世紀前半に1度九州王朝によって建てられて,さらに8世紀半ばに再び建てられたのか

この事実がはっきりさせられるのです。(明らかに100年の差がありますから!)
つまり,もし(2)なら,九州王朝の有力な証拠になるというわけです。
しかも,中学生にも理解できる手続きですから,授業でも扱えるわけです。
こういう明るい話を「夢ブログ」で紹介できるとは,本当に幸せなことです。
(もっとも,「通説」にしがみついている人にとっては,つらく悲しい話かもしれませんが)

まず,このサイトから取っ掛かりとしてみてはいかがでしょう。
その名も「国分寺」です。(「そのままじゃないの?」という読者の声)

「国分寺」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/to_gl_k.htm

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く古賀達也の洛中洛外日記
第1052話 2015/09/12
考古学と文献史学の「四天王寺」創建年

「洛中洛外日記」1047話『「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差』において、
考古学編年と文献史学との関係性について次のように述べました。

「考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、
文献に編年が引きずられるというのはいかがなものか」
「大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、
史料に影響を受けてはいけないと言われていた」

優れた考古学編年と多元史観が見事に一致し、歴史の真実に肉薄できた事例として、
大阪難波の四天王寺創建年について紹介し、
考古学と文献史学の関係性について説明したいと思います。
四天王寺(大阪市天王寺区)の創建(開始)は『日本書紀』により、
推古元年(593)と説明されていますが、他方、大阪歴博の展示説明では620年頃とされています。
この『日本書紀』との齟齬について大阪歴博の学芸員の方にたずねたところ、
考古学は出土物に基づいて編年するものであり、史料に引きずられてはいけないというご返答でした。
まことに考古学者らしい筋の通った見解だと思いました。
その根拠は出土した軒丸瓦の編年によられたようで、
同笵の瓦が創建法隆寺や前期難波宮整地層からも出土しており、
その傷跡の差から四天王寺のものは法隆寺よりも時代が下るとされました。
ところが九州年号史料として有名な『二中歴』年代歴には「倭京二年(619)」に
「難波天王寺」の創建が記されており、
大阪歴博の考古学編年と見事に一致しているのです。
ちなみに、歴博の学芸員の方はこの『二中歴』の記事をご存じなく、
純粋に考古学出土物による編年研究から620年頃とされたのです。
わたしは、この考古学的編年と『二中歴』の記録との一致に驚愕したのものです。
そして、大阪歴博の7世紀における考古学編年の精度の高さに脱帽しました。
このように文献史学における史料事実が考古学出土事実と一致することで、
仮説はより真実に近い有力説となります。
しかし事態は「天王寺(四天王寺)」の創建年の問題にとどまりません。
すなわち、『二中歴』年代歴の「九州年号」やその「細注」記事もまた真実と見なされるという
論理的関係性を有するのです。
文献史学が考古学などの関連諸学の研究成果との整合性が重視される所以です。
古田学派研究者においても、この関連諸学との整合性が必要とされるのですが、
残念ながらこうした学問的配慮がなされていない論稿も少なくありません。
自分自身への戒めも含めて、このことを述べておきたいと思います。
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古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2015/09/1フ
発刊記念東京講演会の反省会

本日、正木事務局長と服部編集長が見えられたので、
拙宅近くの喫茶店で過日の『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊記念東京講演会の反省会と
今後の「古田史学の会」のイベントについて意見交換を行いました。
今回の東京講演会は服部さんの提案で企画実行されたものですが、
多くの方々のご協力を得て成功させることができました。
関東地区の会員へのサービスも兼ねて、
これからも新刊を出す度に記念講演会を開催する方向性を確認しました。
引き続き、役員会や全国世話人会で検討される運びとなります。
来年1月の賀詞交換会についても検討しました。
銅鏡に含まれる鉛同位体の研究で有名な新井宏さんを招聘し、
講演と対談を行う案について検討しました。
古田先生にもご臨席いただけるかご相談したいと思います。
『古代に真実を求めて』19集の「九州年号」特集についても
インパクトのある企画の追加を検討しました。
また、KBS京都放送の「本日、米團治日和」の要約も収録可能か検討しました。
20集の特集企画についての意見交換も行い、
わたしからは「九州王朝仏教史」というアイデアを提示しました。
もちろん、現在研究進行中の「九州王朝の国分寺」や「最勝会」問題などもその対象となるでしょう。
学問研究についても意見交換を行いました。
各地の創建国分寺遺跡の編年研究が面白いのではないかということで、
三人の意見が一致しました。
すなわち、7世紀初頭から中頃であれば
従来説(聖武天皇による8世紀中頃以降の創建)は成立困難となり、
その差は50~100年ほどあり、この編年を間違うことは考えにくいのではないでしょうか。
まずは、橿原市にある大和国分寺や大阪市天王寺区にある摂津国分寺跡の
出土瓦の編年を調べてみようということになりました。
皆さんも地元の創建国分寺跡の編年を調査していただけないでしょうか。
7世紀に遡ることになれば、九州王朝の国分寺と考えざるを得ないのですから、わかりやすいテーマです。

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古賀達也の洛中洛外日記
第1053話 2015/09/13
瓦の編年と大越論文の意義

「洛中洛外日記」1014話『九州王朝説への「一撃」』で、
わたしは九州王朝説がかかえている課題として次のような指摘をしました。

「九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、
その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、
近畿に多数見られるという現象があります。
このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、
これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。
まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、
北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、
いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。
これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、
それにしてもその差は歴然としています。」

軒丸瓦の基本的編年として、6世紀末から7世紀初頭に現れる「単弁蓮華文」から、
7世紀後半頃から現れる「複弁蓮華文」が著名ですが、
こうした編年観から九州には7世紀前半以前の寺院が見られないとされてきたのです。
この九州王朝説にとって課題とされているテーマに挑戦された優れた論文があります。
『Tokyo古田会News』(古田武彦と古代史を研究する会)94号(2004年1月)に掲載された
大越邦生さんの「コスモスとヒマワリ~古代瓦の編年的尺度批判~」です。
同論文で大越さんは軒丸瓦の編年観に対して次のように疑義を示されました。

「白鳳期以前の九州から、複弁蓮華文(ヒマワリ型)は本当に出土しないのだろうか、の問いである。
白鳳期以前の複弁蓮華文(ヒマワリ型)は九州に存在する。
それどころか、九州を淵源とした文様の可能性すらある。その事例を挙げよう。」とされ、
「石塚一号墳(佐賀県佐賀郡諸富町)出土の装飾品」を次のように紹介されています。

「筑後川河口近くの石塚一号墳は六世紀後半の古墳といわれる。
ここから華麗な馬具や蓮華文をほどこした装飾品が出土している。
金銅製の装飾品は蓮華文がタガネで打ち出されており、
掛甲の胴部にも同じく蓮華文がほどこされている。」

次いで、福岡県の長安寺廃寺の造営を「欽明二三(五六二)年に長安寺は存在していた」と理解され、
「長安寺廃寺はすでに発掘調査が行われている。
その調査報告にもある通り、長安寺の創建瓦は複弁蓮華文(ヒマワリ型)軒丸瓦であり、
五六二年頃の瓦であった可能性があるのである。」と
6世紀後半に複弁蓮華文があったのではないかとされました。
更に、「法隆寺釈迦三尊像光背の蓮華文」についても言及され、
複弁蓮華文の意匠が7世紀前半に九州王朝では成立していたと次のように指摘されました。

「光背の銘文により、法隆寺の釈迦三尊像は六二三年に制作されたことが知られている。
この光背に複弁蓮華文(ヒマワリ型)が描かれている。」

この大越論文は九州王朝説への「一撃」に対する「反撃」ともいうべきもので、
10年以上も前に出されています。
当時、わたしはこの論文の持つ意義について、充分に理解できていませんでした。
今回、改めて読み直し、その意義を認識しました。
大越さんの軒丸瓦の編年観については同意できませんが、
「一撃」に対して古田学派から出された最初の「反撃」という意義は重要です。
同論文は「東京古田会」のホームページに掲載されています。
なお、大越さんには「法隆寺は観世音寺の移築か」という論文もあります。
大変優れた内容で、わたしも同意見です。
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