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2015年9月13日 (日)

古賀達也さんの多元的「国分寺」論 その後(7)

古賀さんの論考は,まだまだ続きます。
同じ資料(例えば,資料館のパンフ)でも,古賀さんのように活用できると,
通説側の矛盾を指摘できたりするのだと思いました。
古賀さんの論考からは,学ぶことがいっぱいあります。

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古賀達也の洛中洛外日記
第1046話 2015/09/08
「武蔵国分寺跡」主要伽藍調査報告書の方位

武蔵国分寺跡資料館などでいただいた資料を精査していますと、面白いことに気づきました。
国分寺市教育委員会発行のパンフレット「武蔵国分寺跡調査のあゆみと成果-僧寺金銅跡-」
(平成26年3月)によりますと表紙に描かれた「武蔵国分寺跡の主要遺構」では、
金堂などの主要伽藍の南北軸は真北より7度西偏しているのですが、
別のページに記載された明治36年の図面(『古蹟』武蔵国分寺礎石配列図)では
金堂の礎石配列が南北方位印と平行しており、西偏していないのです。
同様に掲載されている大正12年発行『東京府史蹟勝地調査報告書』第一冊収録の
「金堂址礎石配置図」も南北方位印に平行しており、西偏していません
(調査が実施されたのは大正11年)。
更に昭和31年の発掘調査の図面も西偏していません。
平成21~24年の最新調査の説明文に付された金堂礎石配置図も西偏していません。
この国分寺市教育委員会発行のパンフレットを精査して、
わたしの頭か眼がおかしくなったのかと不安にかられてしまいました。
そこで今度は恐らく最新版パンフレットと思われる平成27年3月に
国分寺市教育委員会ふるさと文化財課発行の「武蔵国分寺跡の整備」を見ますと、
最も精密な測量図が掲載されており、金堂・講堂・鐘楼・南門などすべてが7度西偏していました。
これでようやく「武蔵国分寺」主要伽藍が「塔1」を除いて7度西偏していることが確認されました。
もちろん、9月5日の現地調査でも西偏を確認しています(茂山憲史さんのご協力による)。
それではなぜ明治や大正、昭和31年の測量図面では
伽藍主軸方位が真北として作図されていたのでしょうか。
これは推定ですが、恐らくそれらの測量図作成において
「磁北」が「方位印」として採用されたのではないでしょうか。
ということは、明治時代から現在までこの地域の磁北は真北から「7度西偏」していたことになり、
そうであればこれらの測量図がうまく説明できます。
「磁北」が時期や地域によりどのくらい振れるのかは知りませんが、
この地域では明治から現在まで「7度西偏」としてよさそうです。
たぶん、明治時代以後であれば「磁北」についての科学的測定データが
残されているのではないでしょうか。
それにしても、行政が発行しているパンフレットや昔の報告書も
用心して取り扱わなければならないということを改めて実感しました。
よい経験となりました。(つづく)
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古賀達也の洛中洛外日記
第1047話 2015/09/08
「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差


武蔵国分寺跡資料館の中道さんの説明によりますと、
武蔵国分寺跡で最も古い「塔1」の造営年代は
聖武天皇の国分寺建立命令(天平13年、741年)が出された7世紀中頃で、
金堂などのその他の主要伽藍は10年ほど遅れて造営されたとのことでした。
この10年ほど遅れたとする根拠も、天平19年(747)に出された、
国分寺建設を3年以内に完成させろという命令でした。
いずれも『続日本紀』を史料根拠とした造営年の判断ですが、
出土瓦からも「塔1」の方が金堂のものよりも古い様式を持つ
という相対編年に依られているようです。
「塔1」と主要伽藍の先後関係については、わたしも賛成なのですが、
「塔1」を『続日本紀』を根拠に8世紀中頃とする判断には疑問を持っています。
「洛中洛外日記」1045話で指摘しましたように、
「単弁蓮華文」軒丸瓦はもう少し古く見ても良いよう思いますし、
第一の疑念はたった10年ほどの年代差で
主軸が7度も振れる設計を同一寺院内の建造物で行うものでしょうか。
また、10年後なら「塔1」を設計造営した人たちはまだ健在であり、
造営主体が同一の権力者であれば、このような不細工な「設計変更」をするでしょうか。
この疑問を中道さんにぶつけたのですが、返答に困っておられたようでした。
更に、考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、
文献に編年が引きずられるというのはいかがなものかと、遠回しに「苦言」を呈したのですが、
真剣に受け止めていただきました。
その応答や態度から、とても誠実な考古学者との印象を受けました。
大和朝廷一元史観の宿痾は、現場でまじめに発掘調査されている若い考古学者も
苦しめているのだなあ、と思いました。
なお、わたしが難波宮についていろいろと教えていただいている大阪歴博の考古学者は、
考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、
史料に影響を受けてはいけないと言われていたことを思い出しました。
一つの見識を示したものと思いますが、
考古学と文献史学のあり方や関係性は学問的に重要な問題ですので、
この問題についても考えを述べてみたいと思います。(つづく)
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古賀達也の洛中洛外日記
第1049話 2015/09/09
聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察

『続日本紀』天平13年(741)に見える聖武天皇による「国分寺建立詔」に基づき、
全国の国分寺造営時期を8世紀中頃以降とする不動の理解(信念)により、
様々な矛盾が噴出しているのですが、
この「国分寺建立詔」などを多元史観・九州王朝説の視点から考察してみたいと思います。

国分寺建立に関して『続日本紀』には次のような記事が見えます
(武蔵国分寺跡資料館解説シートNo.3「武蔵国分寺関連年表」による)。

○天平13年(741) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発布する。
○天平16年(744) 国ごとに正税四万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。
○天平19年(747) 国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、
三年以内の完了を命じる。
○天平勝寶8年(756) 聖武太上天皇一周忌斎会のため、使を諸国に遣わし、
国分寺の丈六仏像の造仏、さらに造仏殿、造塔を促す。

このように天平13年の建立詔の後も、その財政的負担が大きいためか、
諸国の国分寺造営がはかどらなかったことがうかがえます。
そのため天平19年には、三年以内に完了させろと催促の命令が出されています。
こうした事情を多元史観・九州王朝説の視点から考察しますと、
次のような当時の状況が浮かび上がります。

1.九州王朝による告貴元年(594)の「国府寺」建立の命令による国分寺が存在していた場合、
それとは別に建立しなければならない。(「洛中洛外日記」718話をご参照ください)
2.九州王朝の「国府寺」が失われていた場合は、新たに新築することになるが、
同じ場所に造るか別の場所に造るかの判断を迫られる。
3.九州王朝の「国府寺」の一部、たとえば塔だけが残っていた場合、
その塔を再利用するか、別の場所にすべて新築しなければならない。
4.同じ場所、あるいは近隣に造る場合、大和朝廷への恭順の姿勢を示すためにも、
九州王朝の「国府寺」とは異なることを、あえて強調しなければならない。

以上のような状況が考えられますが、諸国の豪族(国司)にとっては経済的負担も大きく、
もし九州王朝の「国府寺」が存続していれば、新たに新築しなければならないことに、
非道理を感じたはずです。
他方、新たな権力者(大和朝廷)に逆らうことも困難だったのではないでしょうか。
命令に従わない国司に替えて、郡司を重用するというのですから、なおさらです。
このような状況下において、武蔵国では九州王朝「国分寺」の「塔」だけは残っていたので、
それは再利用するが、全体としては九州王朝の「国府寺」とは別物であることを強調するために、
7度西偏させた主要伽藍を新築したと考えてみれば、
現在の「武蔵国分寺跡」の状況をうまく説明できるように思います。
もちろん、他の可能性もありますので、一つの想定できるケースとして提起したいと思います。(つづく)
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古賀達也の洛中洛外日記
第1050話 2015/09/10
武蔵国分寺跡「塔跡2」の「6度東偏」の謎

武蔵国分寺跡資料館でいただいた「塔跡2」の調査報告書(コピー)によると、
七重塔とされる「塔跡1」の西側約55mの地点から発見された遺構は
平成15~17年の調査の結果、塔跡とされ、「塔跡2」と名付けられました。
堅牢な版築基台が出土しましたが、礎石や根固め石はなどは検出されなかったとあります。
今回の現地調査を行うまでは、この「塔跡2」も「塔跡1」と同様に
主軸は真北を向いていると理解していたのですが、
同地でいただいたパンフレットをよく見るとどうも東偏しているのではないかと思われました。
同行された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員、古田史学の会・会員)も
そのことに気づかれました。
そこで、資料館の石井さんに「塔跡2」の発掘調査報告書を見せて欲しいとお願いしたところ、
先のコピーをいただきました。
その報告書によると「塔跡2」は「僧寺中心軸線に対して約6°東偏する。」と記されていました。
「僧寺中心軸線」とあるのが、真北方位の「塔跡1」なのか、
7度西偏する金堂などの主要伽藍なのかこの記載からは不明ですが、
現地調査の結果から考えると真北方位の「塔跡1」に対して6度東偏していると考えざるをえませんし、
コピーにあった「図3七重塔西方地区(塔跡2本体部)全体図」も
そのように作図されています(茂山さんが測定されました)。
以上の考古学的出土事実は次のことを指し示しています。

1.最初に「塔跡1」が真北方位で造営された。
2.次いで金堂・講堂など主要伽藍が7度西偏して造営された。
3.その後に「塔跡1」の西隣に6度東偏して「塔跡2」が造営された。
あるいは造営しようと版築基台が造られた。

以上のような経緯が想定されるのですが、それらの中心軸方位が「めちゃくちゃ」です。
これで一つの「国分寺」跡と言えるのでしょうか。
南北方位で造営された東山道武蔵路と同一方位を持つ「塔跡1」は
造営者の統一された設計思想・意志(北極星を重視)が感じられますが、
7度西偏した主要伽藍や、6度東偏している「塔跡2」は
その主軸の向きを決定した理由や設計意志が、わたしには理解不能なのです。
特に「塔跡2」を主要伽藍とも「塔跡1」(七重塔)とも異なる方位にした理由、
しなければならなかった理由がわかりません。
しかし、武蔵国を代表する国分寺設計にあたり、その採用方位の不統一を設計者や造営主体者の
「趣味」の問題とすることは学問的ではありません。
何か理由があったはずです。それを考えるのが歴史学ですから、
この謎から逃げることは許されません。
主要伽藍の7度西偏については「磁北」とする作業仮説(思いつき・アイデア)が提起されたのですが、
6度東偏も「磁北」とすることができるでしょうか。
「塔跡2」の造営は『続日本後紀』の記事(承和12年〔845〕3月条、七重塔焼失・再建記事。)
などから9世紀中頃と考えられているようですが、もしそうであれば
100年間ほどで磁北が7度西偏から6度東偏に変化したことを証明しなければなりません。
これもまた、大変な作業ですし、100年で磁北がそれほど変化するものかどうかも、
わたしにはわかりません。不思議です。(つづく)

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